優しき天神は生贄を欲す 其の拾玖
私の大嫌いな雨が降っている。
だが現実のような豪雨ではなく、…篠突く雨だ。
辺りは村ではなく、森の中だった。
この森も見覚えがある、天神山だ。
この森は野生の獣が多く、山で暮らすようになった私ですら、基本的には避けて通る危険な森だった。
そんな篠突く雨の森の中で、佐己が泣き叫んでいる。
まるで血を吐くような叫びだ。
そしてその佐己の腕の中には…。
(…朔…さん)
佐己は、朔を抱きかかえて泣き叫んでいた。
何度も名前を呼ぶ佐己に対して、朔が返事をする事はない。
何故なら、息がない事が一目瞭然だからである。
(…そんな…)
朔の下半身が無くなっている。
獣に喰われたのか、かつては下半身であったのだろう肉塊は、乱雑に散乱していた。
雨のせいで、ほとんど血は流れて行ってしまっているが、雨が降っていなかったら、辺りは一面血の海だっただろう。
朔の腹から溢れ落ちる臓物が、その場面を逆に現実味のないものにしている。
「朔姉…、どうしてこんな…。天神か…?天神が朔姉を、こんな残酷に喰い散らかしたのか!?」
そう叫ぶ佐己の声は、叫びすぎて枯れており、どれだけ叫んだのか、人間の声とは思えない程に低い。
しゃがれた声で叫ぶ憎しみの怨嗟が、目に見えるようだった。
(違う…!琥珀はこんな事しないわ…!)
だがここは過去だ。
幻のような存在の私の声は、当然だが佐己には届かない。
それでも何とか声を掛けたくて近づいた私は、佐己から少し離れた所に光る目を見つけ、息を飲んだ。
(…狼…!!)
まさか。
まさか、朔は狼に喰われたのか。
そう考えれば、汚く喰い散らかした残骸も納得出来る。
狼はゆっくりと佐己に近づくが、朔の事しか目に入っていない佐己は、全く気付く様子がない。
(駄目…!佐己…!)
過去は変えられない。
分かっている。
だが何とか救いたい気持ちで佐己に手を伸ばすが、それよりも早く、狼が佐己に飛び掛かった。
佐己がそれに気付いたのは、狼の牙が深く首筋へと食い込んだ後である。
目を見開き、自分を喰おうと噛み付く狼を、佐己はぎょろっとした目で見下ろした。
その目はまるで、痛みなど感じていないかのようで、寧ろ、怒りと絶望の色が濃い。
何故なら狼の牙に、最愛の姉である朔の着物の切れ端が、血に濡れて引っ掛かっていたからである。
「…お前か…、お前が朔姉を喰ったのか…」
そう呟く佐己の目は、人間とは思えない色に光っている。
血の赤と絶望の黒を混ぜたような、悲しみの色だ。
「朔姉は…村のために生贄として捧げられたのに…」
そうだ、朔は生贄として天神の元へ行く事に、誇りを持っていた。
大切な村の為に死ねる事を、誇りに思っていた。
それが、生贄として死ねなかった挙句、ただの獣に食い殺されたのだ。どれほどの無念だろうか。
そんな最悪の結末を、まだ幼い少年が耐えられる訳がない。
そして佐己は、姉を失った悲しみと絶望、恨みや怒りを抱え、妖魔になったのだ。
(だけど…、今の佐己は私が会った佐己とは違う…)
私が会った佐己は、気味が悪いくらいの笑顔だった。
こんな激しい怒りに満ちた、憤怒の形相はしていなかった。
「…殺してやる…」
(…え?)
「殺してやる…殺してやる…殺してやる…、皆殺しだ…」
俯きながら呟く声に振り返った瞬間。
三度、風景が変わった。
佐己が物凄い形相で、山を駆け下りている。
私はそんな佐己の中にいた。
第三者として佐己達を見ていた今までとは違い、妖魔となった佐己と同一化している状態である。
そんな佐己の中で、私は佐己の中に渦巻く負の感情に、気分が悪くなっていた。
佐己の考えている事、思っている事、今までの事。
記憶の全てが私と共有されている。
(佐己…)
皆殺し…、佐己は確かにそう言っていた。
おそらく今の佐己の頭には、村へと戻り、村人達を殺す事しかないのだろう。
(でも…、村人達は殺されてないわ。十年前にそんな事件が起きていたのなら、私も知ってるはずだもの…)
では佐己が考えを改めたのだろうか?
だが今の佐己に、そんな感情はない。
今、佐己を妖魔たらしめているのは、怒りと恨みなのだ。
そしてその怒りと恨みは、佐己と同一化している、私の感情でもある。
少しでも気を抜くと、私まで村人を殺したくなってきてしまう。
(駄目、駄目よ…)
私も両親を亡くし、決して幸福とは言い難い人生を送ってきた。
佐己の絶望は痛いほど分かる。
だがその絶望は、他人を殺して埋める物でも、他人を殺したから埋まる物でもない。
…ただ自分が強くなるしかないのだ。
(佐己…お願いよ…。こんな事をしても、お姉さんは喜ばない…)
月並みな事しか言えないし、何よりここは佐己の記憶の中だ。
終わった過去を見ているだけなのだから、何の意味もない事は分かっている。
でも願わずにはいられない。
どうかこの哀れな少年の心に安らぎを…。
(お願いよ佐己…、大好きなお姉さんの言葉を思い出して)
そう心の中で祈った時、佐己は走るのをやめて、その場に立ち尽くした。
────それでも、いつも笑顔を絶やさないで。
そうすれば幸せになれるから。
佐己の中に、朔が言っていた言葉が甦る。
いつも優しい微笑みを浮かべ、人に優しかった朔。
そんな朔は、佐己にも笑顔を忘れるな、と言っていた。
────いつも笑顔で、優しさを忘れないで。
大丈夫、きっと幸せになれるから。
(お姉さんの言葉を…、佐己が思い出した…)
悲しみと絶望は変わらずあるが、佐己の中の怒りと恨みが消えていくのが分かる。
そうして、佐己の中の燃えるような怒りがなくなった時。
佐己の顔は憤怒の形相から、初めて会った時の笑顔に変わっていた。




