優しき天神は生贄を欲す 其の拾漆
間一髪で妖魔の攻撃を避けた琥珀だったが、巨大な手が何本も大地に衝撃を与えた為、大地にひびが入り、生えていた木々が崩れて倒れる。
「…っと…」
崩れる木々に巻き込まれそうな所を逃げ出すと、琥珀は比較的平坦な場所へと降り立った。
そこには既に風玉が避難しており、琥珀は風玉に目を向ける。
「あの妖魔のガキ…、おそらく十年前に生贄として山に来た女の身内だ」
「…ほぅ?」
「おんなじ匂いがしやがる」
「だがお前は、しばらく人間は喰ってないと言っていなかったか?恨まれる道理はなかろう。襲ってくる理由はなんだ」
「…生贄なんぞいらんと山を下ろしたんだが、その後の事までは知らねぇよ」
大方、下山の途中で獣に襲われて死んだか、伽耶のように村へは帰れないと、世を儚んで自ら命を絶ったのだろう。
どちらにせよ、琥珀には関係のない話である。
「俺が喰ったと思ってやがんのかよ…、めんどくせぇ」
そう言った琥珀の頬に、ふと冷たいものがあたり、琥珀はつい空を見上げた。
勿論、妖魔の少年もその隙を見逃さず、琥珀を捕らえようと、何本もの黒い手を四方八方から琥珀に振り下ろして来る。
その攻撃を避けながら、琥珀は伽耶の事を思い出していた。
(こんな時に雨かよ…。あの女、大丈夫なんだろうな)
いつも雨が降ると、伽耶は小さな肩を震わせていた。
浸水する古びた納屋で、一人きりでいた恐怖を思い出すのだろう。
本当は怖くて堪らないのに、平気そうな顔をして見せていたのが、気に入らなかった。
自分勝手で、自らの為に平気で他人を犠牲にするような、薄汚い人間のくせに、自分の本心を隠して他人を気づかう変わった女。
最初はその偽善者の仮面を、剥いでやろうと思っていたのだが、そんな琥珀にすら気を使い、いつも笑顔で本音を隠す伽耶に、いつの間にか興味が出て来た。
そしてそんな伽耶が嫌っているのが雨だ。
雨の日は一番、伽耶の人間らしい姿が見られる。
他人に気を使う余裕がないのだろう。
弱い人間らしくただ震え、血の気の失せた青い顔で、ひたすら蹲る。
そんな伽耶の姿を見ると、胸がすく思いがした。
やっと本当の伽耶を見る事が出来たのだと、何故か喜びに近い思いを抱いた。
その感情の正体が分からず、琥珀は雨が降る度に、伽耶のいる廃寺へ戻った。
そしてその内、伽耶の震える姿を見ると胸が痛くなるようになり、こんな雨の日は必ず伽耶の傍にいる事にしたのだ。
(…そう、あの人間の女が心配な訳じゃねぇ。俺の胸が痛むのが嫌なだけだ…)
早く廃寺に帰りたい。
きっと伽耶は震えている。
そんな思いが隙を生んだのか、琥珀は頭上から振り下ろされる黒い手に気を取られ、地中から足を狙って這い出て来た黒い手に気付かなかった。
(…しまっ…)
気づいた時には既に遅し。
黒い手は逃げられぬ様に、しっかりと琥珀の両足を掴んでいる。
そしてその琥珀の頭上に、一際大きな黒い手が振り下ろされた。
「神鬼!!」
そう叫んだ風玉の声が耳に届いたが、それに応える事が出来ず、琥珀の身体は地中に埋まった。
なかなか雨が止まない。
それどころか、徐々に強くなっている様だ。
いつもなら雨が降っている時は必ず帰って来ていた琥珀が、未だに帰って来ない。
一体どうしたのだろうか。
風玉様も一緒にいるはずで、そんなに心配する必要はないだろうが、どうにも胸騒ぎがする。
探しに行きたいが、雨の中一人で外に出る勇気が湧いてこない。
私はカタカタと小刻みに震える両手を、力強く握った。
(止まれ…!震えるな…!)
そうだ、ずっと一人だったじゃないか。
いつの間に、琥珀が傍にいる事に慣れてしまったのか。
(琥珀の優しさに甘えてはいけない…、琥珀は鬼。私とは違う時間を生きているのだから…)
今は琥珀の気紛れで、こうして一緒にいるが、いつ追い出されるかは分からない。
血の繋がりのある親戚ですら、私を捨てるのだから、鬼である琥珀が私を捨てないはずはない。
(…いや…、違う…琥珀はそんな事しない…)
琥珀のつっけんどんで、でも確かな優しさを思い出し、私は勇気を振り絞ると、その場で立ち上がって両頬を叩いた。
「…探さなきゃ」
虫の知らせとでも言うのだろうか。
嫌な胸騒ぎがどんどんと強くなっていく。
不安で、いても立ってもいられない。
私はその胸騒ぎに後押しされるように、降り頻る雨の中を飛び出した。
探すと言っても、琥珀のいる場所の当てがある訳ではない。
琥珀はよく木の上で寝ているが、特に気に入っている場所がある訳でもない。
ただ今は風玉様も一緒にいるはずだから、心当たりがあるとすれば、風玉様の気に入っている湖だろうか。
取り敢えず湖に行ってみて、そこに居なかったら次の場所を考えよう。
そう思い、森の中を湖に向かって走っていると、豪雨で視界の悪い中、木々の間に人影が見えた。
(…琥珀?風玉様?)
人影は一人だ。
しかし山の中に、村の人間が無闇に立ち入るはずがなく、琥珀か風玉様だと思うのだが、私は無意識に足を止めた。
どうやら人影の方もこちらに向かって来ている様で、段々と輪郭が見え始めるのだが、その輪郭がかなり小さい。
しかもその小さな身体を、振り子の様に左右に大きく降りながら、一歩一歩、こちらに歩み寄って来る。
「…ぁ…」
気味の悪い動きだ。
かくん。と左に重心が寄ったかと思えば、倒れそうになった身体は、何かに引かれるように今度は右に振れる。
まるで壊れた操り人形の様な動作で、一歩一歩確実に近づいて来ている。
逃げなければ、そう頭では分かっているのに、恐怖で身体が動いてくれない。
震える足に力が入らず、今にも転びそうな身体に鞭を打って一歩下がると、その瞬間。
大きな雷が落ちた。
その稲光で一瞬だけ見えた人影の姿は、間違うはずもない。
村で見た、飼い犬を亡くした少年だ。
何故こんな所にいるのか、理解が追いつかない。
少年は相変わらずのにんまり顔のまま、ゆっくりとした動作で両腕を広げた。
その直後、少年の背後から黒い何かが流出し、ものすごい勢いで私に向かって来た。




