優しき天神は生贄を欲す 其の拾陸
聞き慣れない単語に首を傾げる私に、琥珀は舌を鳴らして溜息を吐く。
「妖魔ってのは…」
琥珀がそう言いかけると、いつの間か、その背後からやってきた風玉様が言葉を引き継いだ。
「人間が妖に変化したものだよ」
「…風玉様」
驚いて名前を呼ぶと、風玉様は私の隣にやって来て、琥珀と同じように顔をひそめる。
「…なるほど、確かに…。しかも匂いが強いな。気に入られているようだ。…伽耶よ、妖魔は姿形はほとんど人間と変わらない。妖魔と知らずに関わっている可能性が高いが、妙な雰囲気の人間に会わなかったか?」
「妙な…」
当然、一緒に犬を埋めてあげた少年の姿が浮かぶ。
だが決まったわけでもないのに、人の事を妖魔呼ばわりは出来ない。
「いえ、…特には」
「…そうか。良いか、伽耶…。我々もだが、妖魔は人間を襲って喰らう。我々と違うのは、人間"だけ"しか食わぬところだ。人間が主食であり、唯一無二なのだ」
「人間を食べる…」
「私や琥珀も人間を喰らう事もあるが、それしか喰わぬ訳ではない。だから食べずとも平気だが、妖魔は人間を食べなければ餓死してしまう。…必ず喰っているはずなのだ」
風玉様は本音を探るように、少しの間じっと私の顔を見つめ、何も言わずに琥珀を振り返った。
「神鬼よ…、話がある」
「俺はねぇ」
「……」
…相変わらずの二人だ。
だが慣れっこの風玉様は、良いから来い。と半ば無理矢理に琥珀を連れて外に出て行った。
一人になった私は、二人が出て行った戸を見つめながら、やはり少年の事を思い出していた。
(あの冷たい手と、感情の読めない、張り付いたような笑顔…)
十も離れているであろう、歳の離れた少年を、こんなに怖いと思うのは、あの少年が妖魔だからなのだろうか。
でも風玉様は、妖魔は人を襲うものだと言っていた。
村の中で異様な雰囲気はあったものの、少年は特に暴れている訳でも、人を襲っている訳でもなかった。
(…分からない、二人に言った方が良いのかしら…)
もし本当にあの少年が妖魔なら、村で人を襲うかも知れない。
…でも、違ったら?
(勝手に第一印象で、男の子の事を化物呼ばわりするのは…、さすがに…)
とにかく、明日また村に行ってみよう。
少年を探すか、少年の事を知っている人がいるか確認してみれば分かる。
私は考えるのをやめると、二人が出て行った戸を少しだけ開け、外に首を出した。
(いない…)
話があると言っていただけだし、すぐ外にいるかと思っていたが、二人とも何処まで行ったのか。
少し心細い思いを感じながら、私はそっと戸を閉めた。
…その廃寺の戸を、遠くの木の影から見つめる、三日月型の瞳があった事に、私は気付かなかった。
風雨が強い。
ごぅごぅと言う激しい音と共に、古びた廃寺を叩きつける雨は強く、あちこちから雨漏りがしている。
その叩きつけるような雨と一緒に、暴風に揺らされる木々の音は激しく、まるで巨大な何かが泣き叫んでいるように聞こえ、私は恐ろしさで一人、部屋の角に座り込んで膝を抱えていた。
雨は嫌いだ。
この山で暮らすようになってから、何度も雨の日はあったが、久し振りに怖いと感じる。
(…?そう言えば…山に来てから、あまり雨が怖いと感じなかった)
雨に恐怖を感じるのは、本当に久し振りだ。
親戚に世話になって、納屋で過ごしていた時以来だろうか。
そう考えた時、私は琥珀の姿を思い浮かべて、小さく声をあげた。
そうだ。
前に雨が嫌いなのだと琥珀に話をしてから、雨の日は必ず琥珀が廃寺にいてくれていたのだ。
普段ほとんど廃寺にいないくせに、雨が降るといつの間にか帰って来ていて、玄関の土間でつまらなそうに寝ていた。
私に声をかけて来る訳でも、傍に居てくれる訳でもなかったが、琥珀は確かに一緒に…近くにいてくれていた。
(そうか…、だから山に来てからは、雨が怖くなかったんだわ)
私がこうしていられるのも、決して押し付けて来る訳でもない、琥珀の不器用で分かりにくい優しさのおかげだ。
(琥珀…、傍に居て欲しい…。何処にいるの?雨が降ってるのよ…、帰って来て…)
目を閉じて、膝を抱えて座ったまま、私はただ一人。
琥珀の姿だけを思い出していた。
雨が降り始める少し前。
山の中腹付近では、琥珀と風玉が、一人の少年と向き合っていた。
二人の見知らぬ男を前にしても、少年は驚くでもなく、にんまりとした笑顔を浮かべている。
「…間違いねぇ、妖魔だ」
そう琥珀が不機嫌そうに吐き捨てると、風玉はふぅ…と息を吐いた。
「あぁ。…しかも、伽耶からした匂いと同じだ。だが…まさかこんな少年とは…」
妖魔とは元は人間である。
そしてその妖魔の見た目は、人間から妖魔に変化した時のまま、何年も何年も、いや、何百年だって変わらない。
つまりこの妖魔は、幼い頃に妖魔になったと言う事だ。
「哀れな…。一体どんな絶望を経て、妖魔などに…」
妖魔とは元は人間である事は、数刻前に伽耶に話した通りだが、誰でも妖魔に成り得る訳ではない。
死んでも尚、昇華される事のない悲しみや恨み、そして怒りや絶望感が、人間を妖魔にするのだ。
こんなに幼くして、少年はそれほどの絶望を味わったと言うのか。
それを思うとやり切れない…と、風玉は目を細めた。
この笑顔のように見える表情の裏で、どれ程の負の感情が渦巻いているのだろうか。
ふと、琥珀が口を開いた。
「…こいつ…」
「ん?どうした神鬼」
「覚えがある…この匂い…、妖魔の匂いじゃねぇ…。何か…どこかで…」
そう琥珀が呟いた時。
少年の背中から、巨大で真っ黒な腕が何本も現れ、琥珀の元へと伸びて来た。
「…ッ!?」
琥珀は一瞬のうちに背後へ飛び退き、その攻撃を避けると、そのまま近くの木の枝に飛び乗る。
(…俺を狙ってやがる)
琥珀と風玉はほぼ同じ場所に立っていた。
だが少年は明らかに、琥珀を狙って攻撃を繰り出して来た。
(何だ?俺を知ってるのか?)
だとしたら、この妖魔に感じる既視感は、勘違いではない。
琥珀は古い記憶を手繰り寄せるように、過去を思い出す。
当然だが琥珀は人間と関わりを持たない。
親しくなったと言うには語弊があるが、長く関わっているのは伽耶だけである。
伽耶以外に関わった事のある人間と言えば、遥か遠い昔の話か、または生贄として山にやってくる娘だけだ。
(…ん?生贄…?まさか…この匂い…)
そこで琥珀は思い出したように、意識を現実に戻した。
「てめぇ、まさか…」
だが琥珀が少年に意識を向けた時、そこに少年の姿はなく、少し離れた場所にいた風玉が声を張り上げた。
「神鬼!後ろだ!」
「…ッ?!」
思わず背後を振り返ると、すぐ近くに少年の姿があり、巨大な黒い手が琥珀に迫っていた。




