優しき天神は生贄を欲す 其の拾弍
何処かへ姿を消していた琥珀が宿へ戻って来たのは、東の空が白み始める頃だった。
特に物音を聞いたわけでもなく、たまたま起きた時、琥珀が部屋へ入って来たのだ。
「…琥珀、こんな時間まで外にいたんですか?」
「俺の勝手だろうが」
短く答える琥珀に、何か漠然としない不満を感じながらも、それもそうかと深く追求する事なく布団にもぐる。
(ありがとうって言いたかったのに…)
あんなに乱暴に、言い捨てるように言われたら、何も言えない。
どうも琥珀は、機嫌によって態度や口調が変わるようだ。
扱い方に慣れて来たと言うと語弊があるが、だんだんと接し方が分かってきたような気がする。
明日にでも、機嫌を見計らって声をかけよう。
そんな事を考えながら目を閉じるが、一度はっきりと目が覚めてしまったせいか、なかなか寝付けない。
もぞもぞと居心地の悪さを感じて寝返りをうつと、いつの間にか、琥珀が布団の隣に胡座をかいて船を漕いでいる。
(…綺麗な顔)
男性に対して使う言葉でないだろうが、琥珀の顔は本当に綺麗、という言葉が一番相応しい気がする。
口調が荒くて背が高く、筋骨隆々な琥珀は一見男らしく、乱暴な印象を受けるが、性格や体格などを差し引いて見た場合、こんなに美しい顔もそうないだろう。
(鬼、か…)
人間を魅了し、己の眷属にする美しい妖。
私は琥珀しか見た事はないが、きっと他の鬼達もさぞ美しいのだろう。
これだけ美しければ、例え魅了の力など無くても、人を虜にする事が出来るのではないか?
そう思ってしまう。
(現に私も…)
琥珀を見ると、何とも言えない複雑な気持ちになるのは、魅了など関係なく、琥珀に惹かれているのではないか。
それとも私も魅了に掛かってしまっているのだろうか?
ふと。その顔に触れてみたくなるが、きっと指先が触れただけでも琥珀は起きてしまうだろう。
「…ッ」
ぎりぎり触れるか触れないかの距離で指を止めると、私は我に返って、琥珀へ触れようとしていた指先を握りしめた。
(危なかった…、何考えてるの私…)
これ以上見ていると、本当に魅了されてしまうような気がして、私は琥珀に背中を向けて目を閉じた。
外が完全に明るくなり、二度目の目覚めを迎えた時。
琥珀は昨夜私が腰掛けていた窓際へ、全く同じように片膝を立てて座っていた。
(…てっきり、どっかに行ってると思ってたのに…珍しいな)
声を掛けるでもなく傍に行き、そっと様子を窺うと、どうやら完全に寝入っている。
(珍しいな、…あ…)
間近で顔を見ると、唇に埃が付いており、私はその埃を取ろうと、そっと唇に触れた。
起きてしまうかとも思ったが、予想に反して、琥珀は微動だにせずに眠っている。
琥珀の方から、睨みつけて来る以外では、こんなに近くで顔を見る事はそうそうない。
私は思わず、琥珀の頬をなぞるように指を滑らせた。
なめらかな肌だ。
閉じている瞳を被う睫毛も、すごく長い。
私は琥珀の足元に座り込むと、突っ伏すように、その膝に頬を寄せる。
(…落ち着く…)
目を閉じて、外から聞こえて来る鳥の囀りや、穏やかな風の音。
それに優しい陽の光を浴びていると、幸せだった頃を思い出しそうだ。
今はない、両親と暮らした家の庭先で、犬とはしゃぎ回っている幼い私と、それを笑顔で見守る父様と母様の姿。
…幸せだった。
まさかあの後、二人とも事故で亡くなるとは、あの頃は思いもしなかった。
ずっと両親と暮らして行けると思っていた。
結婚しても、たまに孫の顔を見せに行ったりして、幸せに暮らして行けると思っていた。
「…父様…、母様…」
溢れて来る涙を止める事が出来ない。
私は涙を止めるのを諦めて、そのまま優しい夢の中へ落ちて行こうとする意識を手放した。
…夢の中で、私の頭を優しく撫でる、温かくて大きな手を感じた気がするが、それは気のせいだったのだろうか…。
伽耶が眠りに落ちてしばらく経った頃。
膝を濡らす涙の冷たさに、琥珀が目を覚ましていた。
一体どういう状況なのか。
自分の膝で眠る伽耶の姿に、琥珀は一瞬だけ身体を硬直させる。
(…な、何だ?何でこいつは俺の膝で寝てやがる…!)
直ぐに立ち上がり、床に落としてやろうとおもった琥珀は、ふと、伽耶の頬を濡らす涙に気付いて動きを止めた。
「…泣いてんのか?」
何かあったのだろうかと思うが、この宿に来てからは、特に何の問題も起こってないはずだ。
なら何故泣いているのかと思っていると、伽耶の口が小さく動く。
「…?何だ?起きてたのか?」
勝手に人の膝で寝るんじゃねぇ。と言おうとした琥珀は、伽耶が何かを言っている事に気付き、伽耶の口元に耳を近づけた。
「…あ?何だよ?」
不機嫌を隠す事なく、乱暴に聞き返すと、本当に小さくかすかに、伽耶の声が耳に届いた。
「…父…様…、母様…」
「…はぁ!?何言っ…」
急に何を言い出すのかと伽耶の顔を見下ろした琥珀は、規則正しく上下する胸と呼吸に、声を止めた。
「…寝言かよ。…ったく…」
寝言に返事をしていた事に気付くと、急に気恥ずかしくなってしまい、琥珀は深く溜息を吐いて伽耶を見つめる。
「…今だけだぞ」
そう言うと、琥珀は優しく伽耶の頭を撫でながら、空を見上げた。
この膝に感じる重さと温かさが、実は心地良いなど、きっと勘違い。
気のせいなのだ…。
山に戻り、再び農作物の世話に精を出していた私の元に、見知らぬ男が訪ねて来たのは、琥珀のいない夕暮れ時の事だった。
まさかこんな山の中の廃寺に、人が訪ねて来るとは思わなかった。
山を越えようとして、道に迷ったのだろうか。
だが迷い人だとすると、身なりが綺麗すぎる。
まるで着流しの様な、優美な着物を纏うその男の姿は、たった今まで山道を歩いていたとは、到底思えないほどに綺麗だ。
それに、琥珀とは違う印象だが、この人もかなりの美形である。
…いや、はっきりと言うなら、人間とは思えないほどに美しい。
神々しいとでも言うのだろうか。
「…どちら…様、でしょうか…?」
気圧されつつもそう問いかけると、男は私の全身を頭から爪先まで、確認する様に見下ろす。
「…そなた…、此処に暮らしているのか?」
「…?は…はい…、あの…貴方は?…道に…迷ったんですか?」
「いや、私は…」
男が答えようとした瞬間。
男の後ろから琥珀が姿を見せた。
「…!こは…」
だが名前を呼ぼうとした私は、見た事もないくらいに殺気だっている琥珀に気づいて、思わず言葉を止めた。
すると男は私の様子に気付いて、後ろを振り返る。
「…神鬼か」
「…蛇野郎、てめぇ…。よくものこのこと…、何しに戻って来やがった…」
一体どういう事なのか。
男は琥珀を神鬼と呼んだ気がする。
それにこの態度から察するに、この男は琥珀の知り合いの様だ。
しかも仲良くはなさそうである。
「琥珀…あの…」
紹介してくれとも言えず、名前を呼ぶと、琥珀は苛ついたように私を振り返った。
「お前は此処にいろ、…蛇野郎。てめえは面貸せ」
そう言うと、琥珀と見知らぬ男は、二人で外に出て行った。




