優しき天神は生贄を欲す 其の拾壱
伽耶が宿で落ち着いていた頃。
誰もいない町の中、夜の散歩を楽しんでいた琥珀は、後を付けて来る気配に気付いていた。
こちらが一歩歩けば一歩。
こちらが立ち止まれば、同じように立ち止まって姿を隠す。
それをどれくらい続けていたのか。
昼間の男達が仕返しに来たのかとも思ったが、それにしては気配は一人分しかない。
三人いて手も足も出せずに逃げ出した男が、たった一人で仕返しに来るとは考えにくい。
ちらりと横目で背後を盗み見るが、今はまだ接触して来る気配はなく、目的が分からない。
仕方なく歩き出すと、やはり背後の気配も、琥珀を追って歩き出した。
(あーぁー、めんどくせーなー。人間は殺せねーし、喰えねーし。相手にするだけ無駄なんだよな…)
ふと、人間を主食として生きていた頃の事を思い出す。
もう何百年も昔の事だ。
(…ちッ、嫌な事思い出しちまった)
あの事件も、こんな月の無い真っ暗な夜だったと記憶している。
日中、暇つぶしに二つ三つほどの集落や村を蹂躙し、気持ちが昂っていたせいもあるが、純粋に腹が減っていた。
誰でも良いから腹ごしらえをしようと、適当な村で適当な民家へ入った。
男でも女でもいい。子供なら嬉しいが、最悪年寄りだって構わない。
恐怖で震える人間や、死にたくないと騒ぎ喚く人間を力づくで押さえ付けて喰う事もあるが、それはあくまでも"愉しみ"の一つであり、本当に腹が減り、純粋に空腹を満たしたいだけの場合は、鬼としての"力"を使う。
人間を魅了し、自らを食料として差し出すように仕向けるのだ。
魅了された人間は、老若男女関係なく、鬼に逆らえなくなる。
喰うも犯すも、生かすも殺すも、全てが鬼に委ねられる。
そうして、鬼は生きて来たのだ。
好みの女を見つければ魅了し犯し、子孫を残す。
腹が減れば魅了し、ゆっくりと味わって喰う。
だが魅了された人間は、まるで喰われる事が至高の喜びとでも言うように、喰われている間ずっと笑っており、琥珀はその笑顔がどうにも好きになれなかった。
自分の身体が少しずつ喰われていると言うのに、にやにやと笑いながら自分を見つめている人間の目は、吐き気がする。
だから琥珀は、人間を喰らう時はいつも頭からだった。
今夜も食うなら頭から一気に…、そんな心持ちで入った民家。
だがそこで出会ったのは…。
「!!」
そこまで思い出した時、背後に感じていた気配が近づいて来た。
今まで付かず離れずの距離を保っていた気配が、すぐ後ろにまでやって来ていた。
「…ようやく顔を見せるつもりになったかよ」
そう言って振り返った琥珀が見たのは、見た事がない…。
だが何処かで嗅いだことのある匂いをした女だった。
女は虚ろな顔で琥珀を見つめ、立ち止まっている琥珀に近づいて来る。
「…?」
おかしい。
琥珀はもう随分前から魅了の力を使う事を自ら封じており、魅了したはずはないのだが、女の様子は明らかに魅了が掛かった状態だったからだ。
(…何だ?魅了されてやがんのか)
稀に鬼との相性が良く、意識的にではなく魅了される人間がいるが、今回はその型のようだ。
何処で会ったのかは分からないが、何処かで姿を見かけ、哀れにも魅了されてしまったのだろう。
琥珀は女が近づいて来るのを待ち、目の前までやって来た女の腰を引き寄せた。
「…?ほぉ…」
近くで見ると、なかなかに自分好みの良い女だ。
女の象徴でもある乳房は、着物の上からでも分かるほどにふっくらとしており、細い腰は強く抱きしめると折れてしまいそうだ。
高く髪を結い上げた"うなじ"からは、女の色香が匂い立っているかのようだった。
久し振りに男としての本能を思い出し、陰茎に血液が集中するのが自分でも分かった。
肩まで落ちた着物の袷からは、形の良い乳房と乳首が見え隠れしている。
「…ッち…」
琥珀は迷ったように眉をひそめると、女の耳元に唇を寄せた。
「誰だかは知らねぇが、運が悪かったな。…一度鬼に魅了された人間は元に戻らねぇ。いっそ殺してやった方が幸せだろうが、人間は殺せねぇ理由があってな…。このまま俺の眷属として生きていけ」
これがどれだけ残酷な事なのか、鬼である琥珀にも分かるつもりだ。
魅了された人間は、鬼に喰われるか鬼の眷属になるかだが、眷属になった人間は意識も意思も無くなる。
ただ"息をしているだけ"の生物になるのだ。
もしここで女を抱いて、鬼の子を宿す事が出来たのなら、人間の頃の記憶を無くして鬼女として転生する事も出来ただろうが、あいにく琥珀に女を抱くつもりはない。
かと言って殺す事も喰う事も出来ないのなら、哀れだがこのまま廃人として生きていって貰う他ないのだ。
こんな状態の女を一人、夜道に置いていけば、この後どうなるのか想像に難くない。
だが女の面倒を見るほどの優しさを、琥珀は持ち合わせていなかった。




