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幕間小話 賢者が愚者になった瞬間

とても、とても美しい国だったのだ。


ビルスキールニルは神々に愛された不滅の島。

神々に愛されたこの島は神の加護に満ちていた。神の加護に感謝した人々は神を敬い、神は信仰を受けてさらなる恩寵を返す。

民と神をつなぐ王は民の声を神に届け、神の声を民に伝えてその絆をより深く固くした。その王と妃の間に生まれた子は伝承になぞらえ、灰色の賢者(アッシュヴィト)と名付けられた。


そうして皇女が生まれ育ったある日、不滅の島は滅びの時を迎える。

神を廃する不敬なる魔術師たちがビルスキールニルを襲い、不滅の島はついに滅びた。残されたのはわずかな生き残りと皇女だけ。無惨に殺された民を見て憎悪に燃える皇女に神々はとある取引を持ちかけた。


「それほどまでに取り返したいのなら、いいでしょう、仇を皆殺しになさい」

「不敬な者ども一人残らず全滅させ、仇を討ったのならその時は神が祝福を与えよう」

「我らの権能により時を巻き戻し滅亡をなかったことにしよう」


皇女はその取引を呑み、そして長い戦いの末にそれを完遂させた。

神々は取引通りビルスキールニルの時間を回帰させて滅びの前まで巻き戻した。


これで何もかも元通り。犠牲も代償もあったが些細なこと。ビルスキールニルは再び不滅を謳うのだ。

そう思っていた矢先。


――新たな勢力が再びビルスキールニルを襲った。


巻き戻してなかったことにしたはずの時間がまた再来した。それも当然、『巻き戻す』のだから。

何枚ページを遡って読み直したとしても読み進めていけば必ず最終ページにたどり着くのと同じこと。いずれその滅びの運命は再来するのだ。一時の巻き戻しをしたところで結末は同じ。それは約束された確定事項。

すべては辻褄合わせ。帳尻を揃えるために世界は回る。先送りにされた運命が牙を剥く。


つまりは無駄だった。何もかも意味はなかった。


その絶望は皇女の喉から慟哭となって迸った。感情を引き金にほとばしる絶叫は周囲の空間を歪める。否。空間を歪めているのは絶叫ではない。絶望により暴走する魔力だ。

空間を歪めるほどの魔力の暴走は神々に対峙する神殿からビルスキールニル中へ。殺し、壊し、砕き、引き裂き、捌き、叩き、切り、刻み、打ち、射て、滅ぼしていく。


あらゆるところで死が積み重ねられていく。不安定な魔力を抱えきれなくなったビルスキールニルは島自身が爆弾となって破裂した。破壊衝動の悪意の塊となった魔力は世界を駆けて通り道に惨劇をもたらす。すなわち、濃密な魔力が駆け抜けたことによる物理的衝撃と、不安定な魔力による武具の暴発と暴走である。


そんなものに世界が耐えられるわけがない。

ある地域は魔力による物理的衝撃で粉微塵になり、大地すら削られて地図からその地域が消えた。

負傷したナルドの大海竜が身悶えたことで起きた津波で大陸沿岸は飲み込まれて海の藻屑と消えた。

アレイヴ族の住むミリアム諸島近隣で眠る海竜も理性を失い、ミリアム諸島を押し流そうとする。領地が侵されたことにより大樹の精霊トレントが目覚め、怒りをあらわに海竜を虐殺せんとする。

挟まれる形となったアレイヴ族は逃げ場所もなく、海竜とトレントの戦いに少しでも巻き込まれないようにと、無駄と知りながら狭いミリアム諸島をただ逃げ回るしかない。


キロ島を守護する鯨の神は自らが流した鯨油に火がついて焼死し、その火はキロ島を飲み込んだ。

雷神の眷属であるクレイラ・セティは咆哮で起こした砂嵐で民と領地を守らんとしたが、暴走する魔力は砂嵐の障壁をたやすく貫通した。


神に連なる眷属さえも狂わせ、殺す。それほどの絶望と慟哭が世界を包んでいた。そんな中で人間に何ができよう。滅茶苦茶に振り回される死神の鎌に運よくかからないことを祈るしかない。

いや、生きることこそ地獄なのかもしれない。早々に死神の鎌に摘み取られていたなら恐怖や苦痛は少なくて済んだだろう。あまりの恐怖に殺してくれと誰かが叫んだ。


世界は皇女によって滅ぶ。この滅びは後の世で"大崩壊"と呼ばれるだろう。


それが、賢者が愚者になった瞬間。

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