3.守護使 (2)
* * *
暗い町の小さな広間に男が一人佇んでいた。膨大な星を数えているかのように夜空を眺めている。
黒い布に光る砂を蒔いた空の中に、一際黒い影があった。その影が徐々に大きくなってくる。男は腕を上げると、そこにその影が降り立った。
シェルと彼の精霊、大鷹トゥグルだ。
トゥグルは鋭い嘴を動かした。
「シェル、敵は撒けたようだ。周囲に危険はない」
なんと、大鷹が喋り出した。普通ならありえない光景だ。
幸いにも人影がないので、この奇跡を目にしているものはいない。
「そうか、ありがとう。苦労かけたな」
「全くだ」
トゥグルは鼻息を荒くした。
「ワタシをこんなに扱き使って、しかもあんな人間の小娘のために。後でその償いをして貰うからな」
「あぁ、わかっている」
わかっているなら良いとトゥグルは満足そうに言った。
「それでは、ワタシは寝る」
翼を羽ばたかせ宙に向くと、トゥグルの身体が目映く輝いた。そして、気の抜ける音と雲のような小さい煙の中から小さい鳥が現れる。
いや、これは雛だ。まん丸の身体はふわっふわの羽毛に包まれている。触ったらとても気持ちよさそうだ。
雛は小さな翼を賢明にばたつかせて、シェルの頭部に着地した、というよりは木の実が地面に落ちるように落下した。もぞもぞと身体を動かして寝る体勢を整えると、雛は目を閉じた。
「お休み、トゥグル」
雛になった大鷹に挨拶の言葉をかけたが、もうトゥグルは寝入ってしまったようだ。
「スー」
シェルはトゥグルの寝息を聞きながら、別の精霊の名を呼ぶ。すると、忽然とシェルの肩にオコジョが現れた。
シェルが頭を撫ででやると、気持ちよさそうに目を細める。
「スー、リューリと話をしたいんだが、大丈夫そうか?」
スーは鼻をひくつかせてから一つ頷いた。
「頼む」
スーの若草色の瞳が輝くと、シェルはスーに向かってリューリと呼びかけた。
『あぁ、シェル。約十二時間ぶりだね』
スーからリューリの元気な声が聞こえて、シェルは少し胸を撫で下ろした。
「その分だとそっちは大丈夫そうだな」
『そんなの当たり前じゃないか。僕を誰だと思っているのさ。あのくらいで倒されるような僕じゃない。寧ろギッタギタのケチョンケチョンにしてやったよ』
シェルはリューリが今にっこりと笑っているだろうと思った。その姿を思い浮かべた後、ボコられた追っ手達を想像する。その姿が容易に頭に浮かぶのだから、リューリはある意味凄い。
『シェル達の方はどう?』
「心配ない。三人とも怪我一つ、擦り傷一つない」
『それは何より。で、そっちは誰が追ってきたの? 僕はウルーディとアリィセだったよ』
「こっちはグラデウスだ」
『へぇ、グラデウスって、あのグラウ殿だよね。ウル殿にグラウ殿、先方は相当焦っているね』
「そのようだな」
グラデウスとウルーディが出てきた。
これは、あちらも完全に動き出したということだ。益々細心の注意を払って事を進めなければならない。
『ところで、エンナの様子は。何か変化あった?』
「今のところ何も」
『ならいいけど』
「このまま何事もなければいいが……」
シェルは少し遠くを見つめた。このまま何もなければいい、と。
『そうだね。でも万が一、僕と合流する前に目覚めたその時は……』
リューリは息を止め、少時の間を置いて言った。
『生かすか殺すか、判断はシェルに任せる』
「……わかった」
リューリの重い言葉にシェルは只静かに頷いた。
夜風がシェルの頬を撫で、髪を揺らせる。
リューリとの通信を終えたシェルは、瞼を閉じて冷たい風に身を任せた。
スーはシェルの様子を見て、彼に擦り寄る。
「心配してくれているのか。ありがとう、スー。でも俺は大丈夫だ。心配することはない」
自分を案じるスーにシェルは硬い顔に微笑みを浮かべて、頭を優しく撫でてやる。スーは嬉しそうに喉を鳴らした。
「さて、そろそろ戻るとしよう」
シェルがそう言うと、スーは空気に溶けるように消えていった。
* * *
エンナの機嫌は良かった。
汗と泥に塗れてベタ付いていた身体は、すっかり綺麗に落ちて気持ち的にも爽やか。しかも、自分の身体からは仄かに薔薇の良い香りが漂って、鼻腔を擽った。ローズから薔薇の花弁を貰って、湯に浮かべるというなんとも贅沢なことをさせて頂いちゃったのだ。気分はまるでお嬢様。おかげで、乾燥していた肌はスベスベになった気がする。
それから空っぽだったお腹の方も、軽食だが食べ物を入れられて満足だ。美味しかったし。
「シェル様、どうなさったのかしら……随分お戻りが遅いですわね」
一方、ローズはそわそわと部屋を彷徨いていた。
そうなのだ。
あれから、シェルは部屋から出て行ったきり、まだ帰ってきていない。時間は大分経っており、いい加減もう戻ってきても良い頃なのだが。
ここの主人の話によると、シェルは食事とお風呂を頼むと何も言わずに外へ出て行ってしまったらしい。何処に行ってしまったのか。
「まさかシェル様の身に何か……!!」
ローズはハッと雷にでも打たれたかのような険しい顔をした。
「いや、あの人なら何かあっても大丈夫じゃないの? 強いみたいだし」
「なんてことでしょう! 今すぐシェル様をお救いに行かなければ……!!」
が、エンナの声はローズの耳に届いていないようだった。彼女は勢いよく顔を上げ、拳を握り締めている。
「あの、ちょっと?」
「待ってて下さいませシェル様。このローズニア、貴方様の下へ馳せ参じますわ!!」
ローズはいきり立つと即行動に移した。足を踏み鳴らし、駆け足で外へ出て行こうとする。
「ちょっとちょっと、待ちなさいってば!!」
慌ててエンナはそれを止めようとした。ここまで盲目になってしまうとは、恋の力とは恐ろしいものである。
そこで、良いタイミングでドアが叩かれた。開けてくれというシェルの声が頭に響いてくる。どうやらシェルがやっと返ってきてようだ。ローズは血相を変えて駆け寄って鍵を開けた。
「どうした。なんだか騒がしかったが……」
相変わらずの無表情でシェルがそこに立っていた。
「あぁっ、良かったっ。一体どちらに行かれていたのですか? とても心配しましたわっ」
「それはすまなかった。実は見回りに行っていたんだが……一言残していけば良かったな」
「全くよ! おかげでこっちは大変……」
エンナはローズが口を開く前に口火を切ったが、途中でその威勢が収まった。シェルの頭髪が不自然に揺れ動いたのだ。怪しんで睨め付ける。
シェルは訝しそうに首を傾けた。
「何だ?」
「やっ、なんか頭が……」
シェルは思い付いたように「あぁ」と呟くと、ひょいっと頭にいる何かを摘み上げた。
「か、可愛い!!」
それはふわふわの羽毛に覆われた鳥の雛だった。何の鳥かはわからないが、その雛は羽毛のせいなのか身体はとても丸っこい。今はお休み中のようで、目を閉じて規則正しい寝息を立てている。
「ていうか、その持ち方可哀想じゃないっ」
シェルの持ち方はあんまりだった。まるで猫の首でも掴んでいるように、雛の首辺りを摘んでいる。
シェルからその可哀想な雛を取り上げようとすると、彼はエンナの手から逃れるように雛を上へと掲げた。身長差のせいで途端に雛から手が届かなくなる。エンナはそれに気色ばんだ。
「何するのよ!」
「いや、あまりコイツには触らない方が良い……」
「はぁ?」
「そうですわ。やめておいた方が賢明というもの。突かれるか噛み付かれるか、もしくは引っ掻かれますわよ」
シェルはあまり表情がないが、ローズなんか眉間に皺を寄せてそんなことを言ってくる。
「なんでよ? こんな幼気な鳥の赤ちゃんを乱暴に扱ってるんだもの。止めるのは当たり前じゃないっ」
「いたいけぇ?」
ローズは素っ頓狂な声を上げた。顔も変な風に歪んでいる。高貴な家柄のご令嬢っぽいローズがまさかこのような反応を示すとは。エンナは驚いて少し目を瞠った。
「言っておきますけれど、その雛はトゥグルですわよ」
「トゥグルってあの大鷹の?」
ローズとシェルはエンナの問いに頷いた。
「って、何言ってんのよ。あっちは大鷹でしょ? この子と全然違うじゃない」
「精霊の生体化とはそういうものですわ。精霊の力が強ければ、本来の姿と系統が似ていれば容易に姿を変えることが可能。トゥグルはランクで言えば上級精霊ですし、元々本来の姿が鳥型ですから、鳥の特徴を持っている生き物なら小さかろうが大きかろうが変身できるのですわ」
教鞭を振るう先生のようにローズは説明する。エンナはつらつら言われたことを噛み砕いてから驚愕に目を丸くした。
「えぇ!! それじゃこの可愛い雛はあの鷹さん!?」
シェルは無言で肯定に首を動かし、ローズは、だからそう言っておりますでしょう、と腰に手を当て呆れている。
呆れられてもエンナは精霊使いではないのだから、ローズらにとって常識であっても、一般人の、それも辺境地で育ったエンナが精霊のことを詳しく知っているわけがない。
「兎に角だ。トゥグルは人のことをとことん毛嫌いしているからな。触れた途端噛み付かれるのが落ちだ」
暢気に寝ている自分の精霊をじっと見つめた後、シェルは元の場所に戻した。要は、彼の頭の上へ。
この顔であんなマスコットのような可愛い雛を頭に乗せておくなんて、奇妙というか、ギャップがあるというか。
「それから追っ手のことだが、上手く撒けたようだ。油断はできないがひとまずは安心していい」
エンナはそれを聞いて安心した。緊迫しっぱなしというのも疲れる。
「あとリューリのことなんだが」
リューリと聞いて素早い反応を見せたのはローズだった。
「まさかリューリ様とご連絡を取られたのですかっ?」
「あぁ、そうしたらあっちは大丈夫みたいだ。すこぶる元気そうだった」
「そうですか、そうなのですか。良かった……」
ローズは祈るようにぎゅっと手を握ると、心底ほっと安堵した笑顔を見せた。
そこでエンナは妙な違和感を覚える。あれ? と。
「だからローズ、あまり心配することはない」
「はいっ」
ローズは元気よく返事をした。心なしか硬かった表情が和らいでいるような気もする。リューリのことが相当気に掛かっていたのだろう。
それにしても、一体リューリとどうやって連絡をとったというのだろうか。まぁ、どうせ魔法絡みだろうことは想像できるが。
「さて、二人はそろそろ休め。明日はここを早めに出るぞ。俺は万が一に備えて、外で見張っているから、何かあったら呼んでくれ」
そう言ってシェルはまた部屋の外へ出ていこうとする。ローズは慌てて引き留めた。
「見張りならば交代で」
「いや、それには及ばない。スーとやれば問題ないだろう。それに、今日はローズに無理をさせすぎた。すまなかったな」
「シェル様……」
ローズは感極まったようにシェルの名を呟いた。
「今はゆっくり休んで、明日に備えてくれ」
そう言い残すと、シェルは部屋から出て行った。その後ろ姿をローズは熱い視線で見送る。
エンナはと言えば、ローズに対する不可解な感覚と何を考えているんだかいまいち掴めないシェルのことを考えて、頭痛を覚えて仕方なかった。