3.守護使 (1)
「つっかれたー」
エンナは寝台に倒れ込んだ。
ちょっと固いが教会のものより柔らかい。
ずっと身体を休めることも、気を安まることもなかったエンナには、この寝台が天国のように感じた。
あの追っ手達の戦闘の後、エンナ達は馬を直走らせた。
山を越え、村を二つ通り過ぎ、また山の中へ。そこから右へ曲がったり左へ曲がったりしながら、日が沈む頃になって小さな町に辿り着いた。
その町でシェルは休むことにしたらしい。
らしいというのは、相も変わらず彼の言葉は聞こえないが、ローズの発言でそれがわかった。
「わたくしはあまり気が進みません。ここで宿を取るなど……」
ローズの声は少し尖っていた。
もしやこれは休めるのでは。
疲れ果て、おまけに半日以上も馬の上にいてお尻がかなり痛かったエンナは、それを心から願った。
やがてローズは息をついて、わかりましたわと答える。エンナは心の中で小躍りした。
そして、シェル達は町を見て回ったおりに小さい宿屋を見付け、そこに泊まることにしたのだった。
今、エンナ達はその宿屋の一室にいる、というわけである。
「ご自分の身が危ないというのに暢気ですわね」
随分癪に障る言い方である。
「あのね、そっちは慣れてるかもしれないけど、わたし馬なんて全然乗ったことがないのよ? おまけに色々なことがありすぎて、精神的にも、体力的にも疲労が堪って限界だったんだから仕方ないじゃない」
エンナが不満を言うと、ローズは溜息をついた。
「シェル様、やはり不安ですわ。こんなところで休むなんて……第一、宿に泊まるなど……」
まだ納得がいっていないようで、ローズは気が落ち着かない顔でシェルに述べる。
シェルがそれを説得しているのか、ローズは「でも」「しかし」と言葉を溢した。
「あのさ、ずっと気になってたんだけど、シェルえーっとなんとかさん? って何か言ってるの?」
エンナの素朴な疑問にローズは目をぱちくり瞬かせた。
「そうでしたわ、貴女にはシェル様のお声は聞こえませんでしたわね」
因みにシェル様の名前は“シェルヒスト”様ですわ、とローズは彼の名前を訂正することを忘れなかった。ご丁寧なことである。
だって、何故かみんな名前が長ったらしいのだ。そんな一度で全員の名前を覚えるのは至難である。
シェルは寝っ転がるエンナに近付くと、すっと手を差し出した。
「これは手を出せってこと?」
エンナの問いにシェルは軽く頷いた。
エンナはベットに座り直してシェルに腕を差し出す。
シェルはエンナの目線に合わせるように片膝を付くと、ポケットから小さな緑色の小石を取り出した。その小石には、どういう原理なのか細い糸が通してある。穴はあいてなさそうなのだが。
シェルはそれをエンナの手首へ通し、小石に指を触れると目を閉じた。
すると、なんと小石が輝きだしたのだ。次第にその光が収まり、それは宝石のエメラルドのように煌めく。
――どうだ? 俺の声が聞こえるか?――
不思議そうにエンナが腕飾りを見ていると、突然誰かの声が頭に響いてきた。低いような高いような、声というよりは言葉が直接脳に入ってきた感じだ。
驚いてエンナは勢いよく顔を上げ、もしかして侵入者かと思い、辺りを見回す。
この部屋にはやはりエンナとローズ、シェルの三人しかいない。
「聞こえてるみたいだな」
また、頭に声が入ってくる。エンナは視線をシェルに向け、恐る恐る訪ねた。
「もしかして、シェルーえっとヒストさん?」
シェルは軽く頷いた。
「あまり気分の良いものではないと思うが、暫くの間辛抱してくれ。それから、俺のことはシェルでいい」
「え、えぇ、わかったわ」
エンナは戸惑いながらも素直に首を縦に振った。
頭に言葉を伝えられるなど、当たり前だが経験がないので、奇天烈な感覚だった。別段嫌な感じはしないので良いのだが。
「それは俺の精霊、トゥグルの涙から出来た精霊石だ。それが俺の声を伝える役割を果たしている」
「これが?」
シェルは無言で頷いた。
「だから、俺達と一緒にいる間はそれを身に着けていてほしい」
「勿論、こんな便利なものがあるんなら着けさせて貰うわ」
今まで、シェルの言葉が聞けなかったので、彼らの会話がわからなかった。それは、まるで内緒話をされているみたいで居心地が悪かった。だが、これでもうそんな思いはしなくて済む。それに意思疎通ができないとこれから何かと不便だ。
エンナが興味深げにまたあの小石、精霊石に視線を向けていると、ところで腹は空いてないか、とシェルが問いかけてきた。
「お腹? 別に」
ない、と言おうとしたところで、エンナのお腹から情けない音が鳴った。反射的にお腹を押さえる。
ずっと緊張状態でいたために、エンナ自身空きっ腹だったとわからなかったらしい。
今の一声で徐々に空腹感が戻ってきて、お腹が自分の存在を主張してきた。
「へってるようだな」
その一言にエンナは恥ずかしさのあまり顔を赤らめた。なんて羞恥だ。何もこのタイミングで鳴らなくてもいいではないか。
「し、仕方ないでしょっ。ずっと走りっぱなしだったし、わたし自身気付いてなかったんだから!」
エンナはその醜態を誤魔化すようにぷいと横を向いて、つんけんに返した。
「いや、俺は別に何も言っていないが」
倍になって返ってきた。恥が。
エンナは、自ら掘ってしまった墓穴に飛び降りた。これは慙死に値する。
そうだ、確かにシェルはそれについて何も言っていない。只、「お腹が減っている」という事実を肯定してくれたにすぎなかった。
エンナが恥の上塗りに身悶える。シェルはそれを不思議そうな顔で見ていた。
「それじゃ何か買ってこよう。食べたいものはあるか?」
「……肉」
エンナはぽつりとそれだけ言った。色気も愛嬌もそっけもない。こうなったらもう意地だ。
シェルは軽く頷くと立ち上がった。
「ローズは何が良い?」
ローズに話を振ると、彼女はとんでもないと言うように慌てだした。
「そんなシェル様っ。買い出しなどわたくしが行って参りますわ!」
シェルにそんな手間を取らせたくないのだろう。表情が必死だ。
「いや、ローズはエンナと一緒にここに居てくれ。男の俺と二人でいるより、お前が傍にいた方がエンナも安心するだろう?」
「それは……」
「で、ローズは何が食べたいんだ? エンナと同じく肉系か?」
「わたくしは……サンドイッチが良いですわ。野菜の……」
申し訳なさそうにローズは渋々答えた。こちらはエンナと違って実に女の子らしい。エンナと違って。
エンナは、少し後悔した。意地を張らずに違うものを頼めば良かった。いや、こういう疲労困憊てしている時だからこそ、動物性タンパク質を摂取すべきだ。そうだ。
シェルはそれにも承諾を示した。すると、ローズは更に萎縮してしまう。表情も浮かない。シェルは通り過ぎ際にローズの肩を励ますように軽く叩いた。ローズはシェルの気遣いに感動して彼の名を呟く。
そして、シェルはその場から去って行った。
ローズはドアに近付いて鍵をかけると不安の息を吐き出す。しかし、それも一瞬のことで、表情を引き締めたローズはエンナに向き直った。
「さて、貴女」
気を紛らわせようとエメラルドの小石を透かしてみたりしながら弄っていたエンナは、視線をローズへ向けた。ローズは腰に手を当て、仁王立ちしている。これは、何か小言を言われそうな予感。
「何?」
「貴女がシェル様から頂いたその精霊石、くれぐれもなくさないよう大切になさって下さいな」
案の定だ。
「言われなくても、人様から貰ったものだもの。そんな粗末な扱いしないわよ」
エンナはふて腐れて唇を尖らせた。なんだってそんなことを注意されなければならないのだ。
「これは別に貴女を軽んじて言っているのではありませんわ。それは大変貴重なものですから、忠告したまでのこと」
「これが?」
ローズは点頭した。
精霊石は、今では魔法道具の動力源として多く出回っている。非常に高価な石もあるが、お守り代わりと手軽に購入できる安価なものも沢山あるので、一般人に親しまれている一種の装飾品でもあった。
シェルが触れるまでは只の石にしか見えなかった上、小石程の大きさしかない精霊石にまさかそんな価値があったとは。
「それはトゥグルの涙から生成されたもの。あの誇り高くて高慢ちきな鳥が涙を流すなんて……正直考えられませんわ」
そのトゥグルという精霊さんは、散々な言われようだ。そんなに性格が悪いのだろうか。
ローズの顔がみるみるの内に不機嫌になっていく。
「えっと、その精霊って鳥の姿なの?」
気を紛らわせるようにエンナは聞いた。ここで機嫌を損ねてこっちに火の粉が飛んでくるのは嫌だ。
「あら、貴女も見ましたでしょ。あの一戦でシェル様の傍を飛んでいた大鷹のことですわ」
「あぁ、あの……って、えぇっ!!」
エンナは驚きで目を見開いた。
「あれ精霊だったの!?」
「そうですわよ」
「で、でもわたし、精霊が見えないのになんで……」
「肉体を持たない精霊は、人間と契約を交わすと、人々にも認識できる身体、つまりは生体化することが可能になるのです。でも、大概人の目に触れるのを嫌って、姿を消しているものですけど。わたくしの精霊、ニコンもそうですし。因みに今貴女の傍にいますわよ」
「えっ!!」
エンナはキョロキョロと周囲を探した。傍にとは一体何処にいるのだろう。エンナの目には、やはりローズの精霊を確認することが出来なかった。
でもそうか、言われてみれば確かにそうかもしれない。あの時エンナは、風を起こしたあの鷹はシェルが飼い慣らした魔物なのかと思ったが、よくよく思い返してみると目の色が赤くなかったような気がする。しかし、まさかあれが精霊だとは思わなかった。
「そういうことですから、大切にして下さいませね」
半ば放心状態のエンナは、こくこくと首を縦に振った。そんなの勿論だ。
と、その時。ドアがノックされ、お客さんいるかい? とドア越しに話しかけられる。
ローズはそれに警戒を示し、ドアに近付くと聞き返した。
「どなたですの?」
「ここの女給だよ。金髪の兄さんに頼まれてね、簡易風呂を持ってきたのさ」
金髪の兄さんとはシェルのことだろうが、お風呂なんて頼んだ覚えはない。
エンナとローズは顔を見合わせた。これは、女給と見せかけた奇襲かもしれない。
そうして暫し思案した後、ローズは鍵を開けた。その表情は険しく、いつでも反撃できるよう体勢を整えている。
「はいはい、ちょいとお邪魔するよ」
入ってきたのは、肉付きの良い女性だった。彼女は風呂桶を抱えたまま、器用にドアを開けるとズカズカ入ってくる。その後に続くようにもう一人、若い女性が同じ桶を抱えて入ってきた。
「よっこいしょっと。ふう、すまないね、衝立はすぐに持ってくるよ。あと食事なんだけどね、今そっちも準備してるところなんだ。まぁ、お客さん達が風呂からあがった頃にはできていると思うから、あがったら悪いけど呼んどくれ」
女性はお湯の張った大きな桶を置いて、口早にまくし立てると、すぐに出ていこうとする。それをローズは呼び止めた。
「わたくし達は、お風呂を頼んだ覚えも、お食事を頼んだ覚えもありませんけれど」
「おかしいね。あの兄さんはそんな風に頼んできたんだけどねぇ。ほら、これがその証拠だよ」
女性はエプロンのポケットから紙切れを出して、ローズにそれを渡した。
「確かにこれはシェル様の文字ですわね」
エンナはローズに近寄って覗き見た。
『肉料理(大きめのもの
野菜サンド
二人分の風呂』
それには流れるような字体の癖にとても簡潔に書かれてあった。
っていうか、肉料理って……
「あの、すみません……この肉料理っていうの、ハムのスライスと野菜サラダに変更してくれませんか……」
「おや、いいのかいそれで。折角腕に縒りを掛けて作ろうと思ってたのに」
「いいえっ、それでお願いします!」
エンナは声を強めて言った。
この給仕さんは、多分シェルが食べるものと思っているのかもしれないが、紛れもなくこれはエンナの分だ。エンナも肉としか言わなかったのは悪かったが、まさかこんなことになるとは。
大体、この“(大きめのもの)”っていう追記はなんだ。こんな文字はいらないものである。シェルは一体エンナがどれだけ食べると思ったのか。
わたしそんな大食らいじゃないんですけど!
恰幅の良い女性は少し残念そうに、そうかいと了承すると部屋から出て行った。
それからすぐにあの年若い女性がやってくる。衝立を二つの風呂桶の間に立て、タオル数枚を置いて早々に去っていった。
「流石シェル様。本当に気の利くお方ですわ」
ローズは簡易風呂に熱い視線を送りながら、頬に手を当てうっとりとする。
それを目を据えてエンナは言った。
「そう? わたしにはそれわからないわ……」
人のことはさっさと手を放して落とすし、それにこれだ。肉料理、大きめ、肉料理、大きめ……気が利く人なら、こういったことにだって気が回りそうなものと思うのだ。
まぁ、確かにお風呂は非常に嬉しいが。
「それでは、湯が冷めないうちに入りましょうか」
ローズはウキウキしながら衣服を脱いでいく。エンナはそれを眺めながら、溜息をつくのだった。
わたしも入ろ……