2.精霊使い (2)
エンナ達が外へ出ると、ローズが三頭の馬を並ばせて三人のことを待っていた。なんとも仕事が速い。
「さて、これからのことだけど、僕が囮になって奴らを惹き付けようかと思う」
リューリの言葉にエンナは勿論、シェルもローズも驚いて目を見張った。
「リューリ様、それはっ」
「まぁ聞いてよ。ここで四人一緒に逃げても良いんだけど、僕はここで追っ手の戦力を割く意味も含めて追跡を撒きたいんだ。エンナをより安全にあの方の下へ連れて行きたいからね」
「しかし、それなら二人組で組んで二手に別れた方が」
「それは駄目だ」
リューリは、ローズの提案を遮るようにぴしゃりと言い放った。
どうしてだろうか。エンナもローズの案の方が良いのではないかと思う。
「もし、二人組になるとすると、何かあった時、エンナと組んだ側に大きな負担がかかる。この場合、僕としてはエンナの傍にはシェルがいて欲しいから、シェルだね。兎に角、守らなければならない対象側に戦力を削ぐということは、今の状況では絶対にあってはならない。エンナの安全が最優先」
成る程そういうことかと、エンナは納得した。
正直なところ、エンナにどんなど根性があったとしても、剣技も魔法も使えない彼女はどう考えたって戦力にはならない。寧ろ彼らのお荷物である。
そう思うと、少し申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
この場合、エンナが気にするところでもないのだが、今まで一人でどうにかやってきていた節があるので、誰かに頼るとか守られるとか、そういう誰かに甘えるということをあまりしてこなかった彼女には仕方のないことだった。
「でしたらっ、わたくしが囮になりますわ。この立地条件ならわたくしの精霊術の方が遙かに有利。リューリ様の精霊では術すら発動は憚れるはず」
「だからこそだよ。ローズの言う通り、ここでは僕の術はあまり使えない。森が火事になったらその代償は大きいからね」
リューリは肩を竦めた。
「その点、ローズの精霊術は違う。エンナをちゃんと守れる。そうだろう?」
「し、しかし……」
そこまで言われて、ローズは何も言えずに口籠もる。だが、それでも必死にリューリを引き留める言葉を探しているようだ。
「ローズ、さっきも言ったように、優先すべきはエンナを安全にあの方のところへ連れて行くこと。だったら、ここは僕よりローズがエンナの傍にいることが最善だと思うんだけど、違う?」
「それは……」
「それに僕なら一人でも平気だ。派手な術は使えなくても、僕にはこれがある」
いつの間に帯刀していたのか、リューリは腰に吊していた細身の剣を示すように外套の隙間から見せた。
「押し問答をしている暇はないよ。ローズ、わかるよね?」
尚も言い募ろうとするローズに、リューリは有無を言わせぬ形で理解を求める。
案の定、これにもローズは何も言えず終いで、ついには彼女は諦めてゆっくりと一つ頷いた。が、まだ納得のいっていない様子のローズの表情は曇っている。
「そんじゃそういうことで決まりね」
リューリはその未練を断ち切るかの如く、にっこりと笑った。
「あっ、そうそう。エンナ、悪いんだけど髪の毛一本拝借させてくれない?」
「髪? 別に、それは構わないけど……」
いきなりそんなことを頼まれて、わけがわからなかったエンナだったが、リューリに速くとせがまれて、仕方なく頭髪を一本引き抜くとそれを彼に渡した。
「どうするつもり?」
リューリはエンナの問いに笑顔で答えると、ズボンのポケットから藁人形を取り出した。その藁人形は手の平サイズの小ささで、何故か白いワンピースを着ている。
……藁人形?
「あいつからこれ分捕っといて良かった」
何やら穏やかではないことを呟いて、リューリはエンナの髪の毛をその藁人形の中に詰めた。
その様子をエンナは冷めた目で見つめる。
「ワタシヲ呪イ殺スオツモリデスカ」
「まさか、これは魔具だよ。これをエンナの身代わりにするのさ」
魔具。
魔術という魔法が廃退してから約六百年。
魔術が繁栄していた時代は、沢山の人々がその力を使って暮らしていたらしい。しかし、その時代は今となっては過ぎ去った栄光。
その過去の遺産とも言うべきものがこの魔具だ。より豊かに暮らしていくために、当時の魔術師達が開発した便利な魔法の道具である。
現代では精霊の力を借りて魔具紛いの魔法道具が作られているが、魔術で作られた魔具とは性能が違い、魔具の方が威力も能力も高い上、道具の種類は多岐に渡る。そのため、過去の遺物という観点からでも、今では日用品として使われていた昔の魔具でさえ希少価値の高い代物なのだ。
それをリューリ、いや、正確には彼の知り合いのものだったのだろうが、知り合いにしろ一体何者なのか。
(もしかして、メッチャお金持ちのお坊ちゃまだったりして)
そこでエンナはハッと失笑した。
だったとしても、そんな良いところのご令息がこんな危険な真似はしないだろう。裕福な家の息子なら、こんなこと人を雇ってやらせれば良いだけの話だ。
「≪幻影 虚という一時の夢を見せよ ―ラグ―≫」
リューリは藁人形を鞍に結びつけ、人形の魔術を発動させる詠唱を唱える。
すると、藁人形からもくもくと煙のような、綿のような、奇妙なものが出てきた。それが人型のような輪郭を形成していく。やがて、人っぽい形になるとぽんっという気の抜けるような可愛らしい音を立てた。
「なっ」
出来上がったのは、なんとエンナだった。
紛う方なき自分の姿。
違うところといえば、目に生気が感じられないことと服装が若干違うだけ。あとは非の打ち所がないくらいエンナ本人と変わりない。
「エンナ、これを」
口を馬鹿みたいに開けて偽物の自分を見ていると、リューリは彼が羽織っていた外套をエンナに掛けた。
「これには風の精霊力が宿ってる。エンナの気を隠して守ってくれるよ」
装身具で外套が落ちないよう留めながら、気安め程度だけどねとリューリは笑って言った。
「僕達のことはシェルとローズに聞くといい。二人ならちゃんと教えてくれるだろうから」
どうやら、リューリはエンナが彼らの正体が気になって仕方がなかったことをちゃんとわかっていたようだ。
「えぇ、そうさせて貰うわ」
エンナはそれが気に入らず、不機嫌に顔を顰めた。
わかっていながらリューリは何も言わないのだ。時間がないせいもあるかもしれないが。
準備ができると、ローズは彼女の馬に乗るようエンナに言う。シェルと一緒に乗馬させたくないのかと思ったが、そういうわけではないようだ。顔は真剣そのもので、神経を張りつめさせているのが伝わってくる。先程のローズとは偉い違いだ。
エンナがローズの馬に乗り、彼女はエンナの前へ跨ると、しっかり自分に掴まるようにに言った。
そして、それに続くようにリューリとシェルも彼らの馬に乗る。
「待ち合わせは、そうだな。三日後、ロロの噴水の前で」
「わかりましたわ」
シェルもそれに頷いて、じっとリューリのことを見た。また何か交信しているようだ。
「あぁ、そうして貰えると助かる」
リューリが同意を示すと、シェルは何かを投げるように腕を振った。
その“何か”が通り過ぎた、のだと思う。だと思うというのは、エンナには“何か”が見えない、いたかどうかもわからないので確信がないからだ。只、微風が吹いた。だから、“何か”が通ったのかなと思ったのだ。
微風はリューリの髪を撫ぜ、彼は自分の肩に向かって声をかけた。
「やぁヒン。暫くシェルと離れて寂しいかもしれないけど、宜しく頼むよ」
何もいない肩に向かって言うリューリは妙だが、そこに何かがいるのだろう。
何せ、彼らは精霊使い。その“何か”はきっと精霊だ。エンナが見えないのも無理はない。
「二人共、エンナのことは任せたよ」
リューリの言葉にシェルは静かに、ローズは力強く頷いた。
エンナ達の馬がその場を立ち去ろうと背を向け、歩を進めた時、
「エンナ、一つ言っておこう」
リューリはエンナに話しかけた。
声をかけられたエンナは、気になってリューリの方へ振り返る。
「確かにあんたは狙われているよ。色んな奴らからね」
意味深な言葉と共に、リューリは不適に笑った。
なんで自分が狙われているのか。色んな奴らとは誰のことなのか。
問いたいことは沢山あったが、エンナがリューリに聞く前に馬が嘶いて小走りに駆け出してしまった。
エンナは思わずローズにしがみつく。
そして、もう一度後ろに視線を向けてみた。しかし、木の陰に隠れてリューリの姿を再び見ることはできなかった。
* * *
「あいつ、大丈夫かしら」
あの山小屋から離れ、野道を馳駆してから少時経った頃、エンナはリューリのことが気になって誰にともなく呟いた。
敵は沢山いるようだったし、リューリ一人では荷が重すぎるのではないか。
「リューリ様のことでしたら心配には及びません。あのお方は、剣術にしても精霊術にしても一流の腕前。この程度のことでやられるような方ではありませんわ」
エンナはローズの後ろ姿を見つめた。
出発する前は必死にリューリを引き留めようとしていたのに、今とあの時の態度が百八十度くらい違う。
リューリに激しく食って掛かったり、囮を必死に止めさせてようとしたり、よくわからない女の子だ。
「えぇ、そうですわ。あのお方はお強いですもの。大丈夫に決まってますわ」
まるで自分に言い聞かせるようにローズは言った。
あぁそうかと、エンナは思った。
ローズはよくわからないのではなく、素直じゃないだけなのだ。
素直じゃなくて、それでいて意地っ張り。
エンナは、ローズは何処か自分に似ているなと感じた。
「それよりも貴女。他人の心配よりまずはご自分の心配をなさった方が宜しくてよ」
ローズはちらっと視線だけ後ろに投げて言った。
「えっ?」
「きましたわ!」
ローズの大声にエンナは瞬間的に後ろを振り返る。
「魔犬!」
後方から魔犬が数頭、息荒々しく追ってきていた。
黒い毛に覆われ、鋭利な刃物の如く鋭い目は赤く血のようだ。
魔犬とは魔物の一種で、その姿は普通の大型犬と相違ない。
しかし、魔物というからにはそれだけの理由がある。魔物は大概普通の動物達と姿形はなんら変わりないが、その凶暴性、獰猛性が強く危険なのだ。
そして、ここに普通の動物と魔物との決定的な違いがある。一つに、魔物達は魔術を使うことができるということ。魔術を使う動物、だから魔物。人は魔術を使えなくなってしまったが、今も尚魔物はそれを操ることができる。なんとも皮肉な話だ。
もう一つは、あの血のように赤い目。どうしてあんなに真っ赤な目をしているのか理由はわからないが、人々の間ではこのように語られている。
『魔物の目があんなに赤いのは、人の生き血を啜っているからだ』
それが本当かどうかはわからない。だが、魔物という生き物は、それだけ人々に恐怖心を抱かせる程恐ろしい存在なのだ。
そして、今エンナ達を追っているあの魔犬。あれはイヌ科なだけに魔物の中でも扱いやすい部類に入る。手懐けてしまえば、こんなに心強く頼れる存在も少ない。その手懐けるまでが大変なのだが。
「シェル様、ここはわたくしにお任せを!」
シェルが頷くとローズはコートのポケットから何かを取り出した。それを地にまき、後方へと放つ。それは黒くて小さい粒で、何かの種のようだった。
「<わたくし達に牙を向く愚かな者達を退けなさい!>」
ローズの掛け声と共にローズが蒔いた種が発芽し、盛り上がるように成長した。
薔薇だ。
蛇のようにうねり蠢いているが、あれはれっきとした薔薇だ。見事なまでに美しい赤い花を咲かせている。
走路に尋常ではない薔薇があろうが、魔犬達はその足を止めず、自分達が追っている獲物のことしか見えていないようだ。
魔犬達が構わず、その茨の生け垣を突っ切ろうとしたその途端! 薔薇が一斉に魔犬達に襲い掛かった。
茨に縛り上げられるものもいれば、身体を貫かれて苦しそうに踠いているもの、急所をやられ絶命しているものもいる。
それは凄惨で背筋が凍るような光景だった。
茨には魔犬の血が流れ、それが地面に滴れ落ちて血溜まりを作っている。まるで、その血を吸って薔薇が赤く染まっているような、そんな錯覚さえ覚えた程に気味の悪い有様。
そのうちの三頭は、茨の難関をどうにか抜け出せたようだ。身体に擦り傷を付けながらもエンナ達を追ってきている。
三頭の魔犬は走る速度を上げ、一頭は真後ろを、もう二頭は左右に分かれて迫ってきた。牙を剥き出し、今にも飛び掛かってきそうだ。
「<ニコン!>」
ローズが右腕を挙げるとコートの袖口から薔薇の枝が伸びてきた。ローズはそれをしっかり持って、感触を確かめるように一度振るう。薔薇の茨は、鞭の如くしなって地を叩き、土を巻き上げた。
薔薇の鞭の鋭い音に魔犬は一層警戒を増して、威圧するようにローズ達を睨み付ける。
顔の中心に向かって皺を寄せ、牙を剥き出し、こちらに眼光を光らせる魔犬に、エンナは小さな悲鳴を上げそうになる一方、ローズは負けじと威嚇返した。
双方一歩も譲らず、睨み合いながら暫時並走していると、魔犬の方が痺れを切らしたらしい。一旦ローズから目を逸らし少し離れて、木々の間からタイミングを見計らって跳び掛かってきた。
「犬っころの癖に生意気ですわね!!」
ローズは茨の鞭を魔犬に向けて振るった。風を切り、容赦なく魔犬の身体を打ち付け、跳んだ反動を利用し宙へ吹き飛ばす。
跳ね返された魔犬は空中で器用に身体を捻り、眼光を怪しく光らせた。歯の隙間からも変な光が漏れている。
エンナは息を呑んだ。
この魔犬、魔術を発動させる気なのだ。
そこへ、突如頭上から別の魔犬が落ちてきて、魔犬同士が激しくぶつかり合う。間髪入れず、強烈な風が上から襲ってきて、魔犬達の身体を刃物の如く切り刻んだ。
無惨に切り裂かれた二頭の魔犬は、力尽きてそのまま地面に落ちて倒れ込む。
その時、空から一声、甲高い鳴き声が聞こえた。振り仰いでみると、黒い点が一つ、空を飛んでいるものがいる。
鳥?
それが急速にこちらに近付いてくる。いや、近付いているというよりも、落下していると言った方が正しい気がした。
兎に角、それが凄い速さで降下してくる。
エンナが鮮明に視認できる距離までくると、それは大きな翼を広げて舞い降り、シェルの後を追うように彼の頭上を優雅に飛んだ。
それは見事な大鷹だった。白い眉斑に目の後ろの眼帯のような黒斑が印象的だ。
「シェル様、ありがとう御座います。助かりましたわ」
先程の事は、どうやらシェルが彼の方へいった魔犬を投げ飛ばして、術を放ったようだ。
「はいっ、後ろはお任せを!」
シェルは軽く顎を動かすと、馬の腹を蹴って疾走する。その後を大鷹が翼を羽ばたかせて追っていった。
「あっ!」
エンナは、ローズの肩越しから野道の向こうに馬が四頭いるのが見えた。勿論、馬上に騎手の姿も見える。
待ち伏せされていたのだ。
「あれはっ」
そのうちの一人が彼らに向かってくるシェルを見て、衝撃に声を上げた。
「風鷹のっ、風鷹のシェルヒスト!」
苦虫を噛み潰したように歯を食い縛って男は下を向いたが、意を決したように顔を上げた。
「<我が精霊グラッドよ 地を揺らし かの者の歩を封じよ!>」
男は苦渋に顔を歪めたまま地へ手を突き出し、精霊に唱える。
その男の声に答えるように、地面が重い地響きを鳴かせながら上下に震動し始めた。
「そうはさせませんわ!」
ローズは手を前へ出すと即座に己の精霊に命じる。
「<ニコン 他精霊の力を借りて 大地を縛める鎖を作り 伏せさせなさい!>」
一度太い地鳴りと共に大きく揺れた後、何かが鬩ぎ合うように大地は小刻みに動いた。
この異常事態に馬が動揺を示したが、シェルの巧みな手綱捌きで不安を一瞬で打ち消し、彼は馬を馳せさせる。
術が阻止され、シェルが接近してくるのを見て取って、四人のうち二人が腰に帯びていた剣を鞘から抜き放ち馬を駆った。
駆け出した先方を目にし、シェルの傍を飛んでいた大鷹が羽ばたいて彼の先を行く。ある程度の距離までくると、大鷹は宙に静止した。
二人の騎手は、大鷹を警戒しながらも勢いは殺さずに走り来る。大鷹はそれを見据えた後、翼を二、三回大きくはためかせた。
そこから激しい風が生じて、草に、木々の葉に、荒々しい波を作る。土砂を巻き込んだ突風は、勇敢な剣士達を呑み込んだ。
すると、灰黄色の霧の中からあの男達二人の悲鳴と彼らの馬の嘶きが上がった。
中で何が起こっているかは、砂の狭霧のせいでわからない。しかし、あの勇ましかった男達が叫び声を立てさせるくらいのことがあったのだということは伝わってきた。
程なくして、灰黄色の煙幕の中が静寂になり、砂が空気の流れに乗ってやがて晴れてくる。
二人の男と二頭の馬が静かに倒れていた。
それをシェルは見向きもせずに通り過ぎ、その後をあの大鷹が追っていく。ローズ達もそこを通って行く際に、エンナは道端に伏した男が微かに動いたのを視界の隅で捉えた。どうやら、気を失ってしまっただけで生きているようだ。
それがわかった時、エンナは少し安堵した。この者達は敵だし、この状況で他人の心配なんてしている暇はないのだが、やはり人が殺されたり、死んでいるところなど目にしたくない。
相手との距離があと数秒というところで、シェルは素早く抜刀した。
迫り来るシェルに術を放った男は「くっ」と憎々しげに声を発して剣を構える。
そして、二つの剣が激しくつぶかりあった。火花を散らしながら馬上で一合、二合、と剣を交える。
「グラデウス様……!!」
もう一人の男が加勢しようとしたが、そこへあの大鷹が行かせまいと邪魔をしてきた。男は舌打ちして、大鷹を追い払おうと剣を振り回す。大鷹は、余裕でそれを躱した。
「貴殿は我らと同志ではなかったのか!」
睨みながら剣をかち合わせ、グラデウスと呼ばれた男は訴えるように怒号した。
しかし、シェルはそれを背くように剣を振るのを止めない。
「このっ、裏切り者めー!!」
憎しみの籠もった絶叫と共に、グラデウスは力一杯切り込んだ。
シェルは、渾身の剣を真正面から受け止めて、押し返そうと柄に力を入れる。
鉄の刃が擦れ合い、嫌な音が鳴りながら火の粉が飛び散った。
エンナは、二人の剣戟の凄さに見嵌っていると、後方から荒い息遣いが耳に入ってきた。
不思議に思って様子を伺う。
「げっ」
魔犬が一頭、いつの間にか近づいていて、馬の後ろ足に噛み付こうと試みていたのだ。
「全く、せこい犬ですわね」
ローズは鞭を垂らすように持ち上げると、茨が独りでに動き出した。揺る揺ると先端が魔犬に目前まで近付く。魔犬は、薔薇の鞭に注意して監視する。
やがて、茨の先端に蕾ができた。花冠の色は赤ワインのように濃い赤。
魔犬はじっとそれを凝視して唸る。そして、花弁は爆発するように花開いた。そこから、黄色い粉が即発して、魔犬の鼻腔を刺激する。魔犬は堪らず立ち止まり、何度もくしゃみをして、前肢を交互に使って顔を擦り付けた。
「<あの忌まわしい魔物を取り押さえなさい!>」
ローズの合図で、突如魔犬の周りから茨が数本出現した。それが魔犬の身体に巻き付いて締め上げる。魔犬は花粉の刺激と薔薇の棘の痛みに苦しそうに足をばたつかせた。
それを見ていたエンナは、先程の魔犬達のことも含め思わず呟く。
「え、えぐい……」
「何か仰りまして?」
「いいえ、何もっ!」
エンナは激しく首を振った。
ここで彼女の機嫌を損ねて、魔犬達と同じようなことをされたら堪ったものではない。
「無駄口など叩いていないで、くれぐれも舌をお噛みにならないようお気を付けなさい」
「へっ?」
「飛ばしますわ!」
ローズは馬の腹を蹴り疾駆させる。
突然激しく動き出したので、エンナの身体ががくんと傾き、振り落とされそうになった。
ローズ達の足は、土埃を立たせながら野道を駈け、三騎の間を擦り抜けて戦場を突っ切る。
大鷹と格闘していた男が慌てて追おうとした。しかし、またしてもあの鷹が通せんぼをして、爪で男の顔や手を引っ掻いてくる。男は忌々しげに振り払おうとした。
「おのれっ、おのれぇえ!!」
グラデウスは、憤りを剣に乗せて切り込んだ。が、シェルはそれを上手く受け流していく。
「貴女! ポケットの中から耳栓をお出しなさい!」
「えっ、何?」
いきなりローズが大声で言うので、エンナは彼女の言葉が半分も聞き取れなかった。
「わたくしのコートのポケットに耳栓が入っていますわ。それを装着なさい! 速く!!」
真意がわからないが、ローズが焦ったように言うので、エンナは慌てて彼女の言う通りにした。
エンナは、コートのポケットに手を入れて探る。小さな袋の隣に、歪な硬いものが二つ指に触れた。きっとこれに違いない。エンナは、それを一緒に取り出して確かめた。奇妙な模様と形をしているがちゃんとした耳栓の形だ。
「あったわ!」
「それを耳におつけなさい!」
エンナは耳栓を急いで耳に詰めた。
その直後。
凄い音が耳栓の向こうから聞こえてきた。いや、あれは音と言うより叫断だ。鳥達が一斉に高音で騒ぎ立てているような鳴き声。鳥が首を絞められて苦しそうに鳴いている声にも似ている。
その雑音と一緒に、男達の苦痛に叫ぶ声が聞こえた。
「くっ」
ローズは辛そうに顔を歪めた。
「大丈夫?」
エンナが心配そうに声を掛けるが返事はない。あの音はそんなに痛手を与えるのだろうか。
そのうちに空気を振るわせるようなあの音が止んだ。
耳栓を外してもいいか迷ったが、エンナは恐る恐る栓を外した。封鎖されていた耳朶に、自分が跨っている馬の他に蹄が土を蹴る音が入ってくる。
シェルだ。
彼は並ぶように馬を走らせると、ローズに視線を向けた。
「シェル様、ご心配には及びません。わたくしは大丈夫ですわ」
そう言ったローズの額には、脂汗が滲んでいる。
シェルは少しの間を置いてから頷くと、ローズ達より少し前へ馬を馳駆させた。