12.玫瑰(まいかい)の蕾に隠されたは…… (1)
「ローズが裏切り者って……」
どういうこと?
リューリの言葉の意味を理解しかねて、エンナは誰にともなく呟いた。
いや、裏切り者という意味はわかっている。でも、それをわかりたくないという思いでいるから、その言葉に意味を見出すことができず、ただの文字の羅列でしかないように聞こえるのかもしれない。
リューリは戸惑うエンナに流し目で視線を投げた。
「ローズはね、前国王派の間諜だったのさ。それも二重スパイってやつ」
「二重、スパイ……?」
「前国王派、ベンドールに命じられて現国王派に与しつつ、僕達の仲間を装っていた」
エンナは混乱してしまって、訳がわからなかった。
だってそんな、ローズは、ローズは……
そんなことがあるはずがない。
エンナは救いを求めるようにローズの方へ視線を移す。しかし、エンナの期待を裏切るように彼女の表情がどんどん蒼白になっていた。
「僕達の中に裏切り者がいることはわかっていたけど、ローズのことは確信までは持てなかった」
「わ、わたくしはっ」
ローズは声を絞り出して自分が裏切り者であることを否定しようとするが、リューリがそれを剣で黙らせる。
「シェルがディックの家族を助け出した時、ベンドール側の奴を何人かとっ捕まえて吐かせている。残念ながらネタは上がっているよ、ローズ」
リューリから突き付けられた事実にローズの顔色が絶望に滲んだ。彼女は崩れるように力なくへたり込む。
「どうして……」
「切っ掛けはあの時、グラウが言った言葉だ」
彼女の問いに答えたのはシェル。ローズはその答えがどうにもしっくりこなかったようで、若干眉根を潜めた。
「グラウ様の……?」
「そうだ。エンナを助け出して山小屋から出た後、グラウ達に襲われただろう。あの時、グラウは俺にこう言ったんだ。“我らと同志ではなかったのか”と……」
シェルが言うには、それは言う相手が違うらしい。確かに、シェルもリューリもアラディン国王陛下を支持しているし、考えようによっては同志に見られるのかもしれない。が、それは決して現国王派と同志であったわけではない。
もし、ローズがベンドールの間諜であり現国王派にも通じていたのなら話は通じる。きっとウルからはリューリ達の居場所がわかるよう、精霊術を使ってあちらに動きを伝えるように言われていたのだろう。
しかし、彼らの思惑はそうはいかなかったわけだ。それが二手に別れる人数配分や人選にも如実に表れているらしかった。
あちらは魔犬を使っていた。魔犬は魔術を使っているため、通常の犬なんかよりも断然鼻が利く。魔犬の能力を活かし、薔薇の香りの強弱か、それとも植物による伝達でなのかまではわからないが、何かしらの方法でローズに情報を伝えるよう指示していた。
が、ローズは場合によってはベンドールからウル達を攪乱するように言われていた。そうでなければ、シェル側にもっと力が入っていたはずだ、と。
「お、お待ち下さいっ。それだけで、ですか?」
シェルは首を横に振って否定した。
「勿論それだけじゃない。俺がハッキリ確証を持ったのは、スラッツと合流した時だ。スラッツは元々怪しいとは思っていたし、ルージュ様のお言葉からもう確定的だった。薔薇の香りでスラッツに俺達の位置を知らせたんだろう?」
ローズは俯いたまま黙り込む。沈黙を肯定ととってシェルは話を続けた。
「ローズが前国王派の協力者だったのだとしたら、俺達が怪訝に感じていたことに説明がつく……」
何かを堪えるようにローズはぎゅっと目を瞑った。
「けど、リューリは初めから怪しんでいたけどな」
「えっ?」
驚く気力もないローズに代わってエンナが瞠目する。リューリは軽く肩を竦めてみせた。
「僕がシェルとローズ二人にエンナの救助へ行かせなかった理由がそれ」
そうじゃなくても、きっと行かせなかっただろうけどね、とリューリはニコリと笑った。
「しかし、不可解なことがあるんだよね」
リューリは俯くローズへと再び向き直る。
「どうしてローズがこんなことをしたのか」
それは是非エンナも聞きたいところだ。
あのローズがそんなことをするなんて、よっぽどのことがない限りあり得ない。
「ねぇ、ローズ。ローズもあのディックって人みたいに誰かを人質に……」
縋る思いでエンナがローズに問う。どうかそうだと言って欲しい。
しかし、ローズは唇を噛み締め、きつく瞑目しながら辛そうに首を横に振った。
エンナの頭が真っ白になる。エンナはその場に座り込んでしまった。
自分がどう感じているのかわからない。哀しいのか、怒っているのか。自分は、今何処にいるのだろう。
でも、これだけはわかる。
「じゃあ、なんで……」
エンナは小さく呟いた。
きっと、何か理由があるに違いないのだ。
ローズはリューリやシェルのことをとても尊敬していた。二人と離れていた時は、いつもその身を案じていたし、何だかんだ言いつつもエンナをよく面倒を見てくれていた。
それを証明するように、きっとエンナを攫う機会だって沢山あったはずなのにそうすることもしなかったし、何よりも先程からローズはとても苦しそうだ。
そんな彼女が理由もなくこんなことをするはずがない。
「わたくしは……」
ローズはぎゅっと拳を握って、苦痛に顔を歪めながら懺悔でもするように話し始めた。
それは数週間前に遡る。
ローズが自室へ戻る道すがら、彼女は変わった格好をした少女に話しかけられたという。一言で表現すれば、“蝶”のような少女だったらしい。
何故そんな少女がこんなところにいるのか、警戒しながら足を止める。彼女は妖しい微笑みを唇に浮かべながら言った。
『ねぇねぇ、あの酷い王様の娘を助けるの?』
ローズは驚いて目を見開いた。酷い王様とは、エイブラムのことだろう。そして、その娘ときたら……
どうして彼女がそんなことを知っているのだ。
『あら、何のことですの?』
平静を装いながら、ローズは素っ気なく答える。
素知らぬ顔のローズを見て、少女は可笑しそうにクスクスと笑った。
『駄目だよぉ。見るからに怪しい人にそんな動揺した顔見せちゃ』
月光を浴びた少女の笑みは、より一層妖美さを増す。ローズの中で一気に緊張感が高まった。
この少女は、かなり危険だ――
ローズは警戒心を露わにしながら、じりっと後ろへ後退る。
少女はただ笑っている。笑って……突然鋭い殺気が放たれた。
背筋の凍るような感覚にローズは、急いで茨の鞭を出そうと
『おいたは、だ~め』
ローズの息が止まった。少女の吐息が耳の側で感じる。少女の姿は目の前には既になく、いつの間にかローズの背後を取っていたのだ。
彼女は振り上げようとしているローズの腕にそっと手を添え、そのまま静かに下ろさせた。
少女はローズの耳の後ろ辺りに鼻を近付けると、恍惚とした溜め息をつく。
『うーん、流石は薔薇の妖精。すごぉく良い匂~い』
『貴女、何者ですの……』
ローズは激しく脈打つ自分の心音を感じていた。
この少女、只者どころの輩ではない。もし戦いとなったら、精霊騎士のローズでも勝ち目はないだろう。
少女を恐れるローズに彼女はニコリと笑いかけた。
『別にそんな大した者でもないよぉ。あなたの隊長さんや副隊長さんにはきっと敵わないもん』
そこで少女は、何か思い出したように「あっ」と呟いた。
『そうそう、隊長さんと副隊長さんと言えば、可哀想な人達だよねぇ』
『可哀想……?』
『だってあの人達って――』
少女は唇をローズの耳に寄せて囁いた。囁かれた内容にローズは驚愕して目を瞠る。
何故、この少女がそこまで知っているのだ。
少女は薄く笑いながら話を続ける。
『ねぇ、良いの? 二人はいつも一生懸命で、王様にも民にも尽くしているし、沢山苦しいこともあっただろうねぇ。それなのに、二人がこんな辛い思いをするなんて……良いわけないよねぇ?』
少女の妖言がローズの耳朶を痺れさせる。
その心地良くも聞こえる少女の声が誘うようにローズから“感覚”というものを奪っていった。目に映るもの全てが曖昧になってきて、浮ついてくる。
だが、ローズはなんとかそこから自分を保っていた。この少女の声に耳を傾けてはいけない。
しかし、その思いとは裏腹に視界には……
『シェル様?』
シェルがこちらに背を向けている。
ローズの目には、シェルのその後ろ姿が時折悲愴に思えて仕方なかった。その肩には一体どれだけの重荷がのし掛かっているのだろう。ローズには到底想像することすらできない。
憂いと哀しみに揺れ動くローズに少女は囁いた。
『副隊長さんなんかは特にどういう心境だろうね~? 逃がしきれるかな。それができなかったら、君達と同じ道を歩ませるのかな? それとも……』
あの娘の命をいっそのこと、自らの手で奪うかな?
少女の声が頭の中で飽和するように反響する。
奪う――
シェルがこちらに振り返る。その瞳には荒んだ鋭い影が宿り、頬には赤い飛沫が流れていた。
ローズは小さく悲鳴を上げる。
違う、違う。これはシェルではない。この少女が見せているシェルの幻なのだ。
騙されるてはいけない。騙されるな。
すると、シェルの向こうにリューリの姿が現れた。シェルと違ってリューリはただ静かに嗤っていた。炎を彼の剣に宿らせて、煌々と赤がリューリを照らす。
背景が黒と赤の空間に支配された。
その空間に劈くような悲鳴。
誰の悲鳴だろうか。
まさか……もしかして……
ローズは自分でも驚くような悲鳴を上げた。しかし、その声は空間を支配する黒と赤と、誰かはわかりたくもない悲鳴に掻き消されているようだった。
苦しむローズの姿を見て、少女はただ楽しそうに妖しく嗤う。
少女の嬌笑を耳に響かせながら、ローズはそこでぷっつりと意識が途絶えた。
そこから先は、まるで夢の中の出来事のように目まぐるしく日々が過ぎ去ったのだとローズは言う。
そして、夢現の世界から気付いた時には、もう手遅れだった。ベンドールと手を組み、彼の指示でウル達の仲間になり、彼らに言われた通り動いていた。