9.精霊騎士 (1)
馬に乗せられ疾走すること数時間。
敵や魔物に遭遇することなく、ヒンの案内で東の空が明るくなってきた頃にエンナ達は湖が広がる場所にいた。湖から立ち上る水蒸気が湖面や地を這うように乳白色の膜を張っている。どうやら、ここでシェルと落ち合うつもりらしいのだが……
エンナはぶるっと身を震わせた。
朝の水辺は肌寒い。ローズが気を利かせて彼女のコートを借りているとはいえ、寒さを禁じ得なかった。
来るなら早く来い。
念じながら自分の身体を擦って寒さに耐える。
「来たみたいだね」
エンナの願いが叶ったのか、リューリが顔を向けている方へ注意深く耳を澄ませてみる。確かに、微かだが蹄の音が聞こえた。
「エンナは無事か!」
茂みから一頭の馬が飛び出してきて、それに跨っていた彼の第一声がそれだった。
シェルだ。
彼は乗っていた馬が止まらぬうちに飛び降りてこちらに駆け寄ってくる。それも、あの無愛想な彼にしては随分と慌てた様子で、だ。
シェルはエンナの無事な姿を目にすると、ほっと安心したようだった。
「良かった。何処も怪我をしていないようだな」
一瞬、シェルの表情が和らいで、ほんの少しだけ微笑んだ気がした。エンナはそのことに驚く。彼はあまり感情が表に出ないタイプかと思ったが、そういうわけでもないようだ。
「リューリとローズは」
「僕達はご覧の通り」
リューリは肘を曲げ、手を少し挙げてみせる。
二人も大丈夫そうだとわかると、はじめは先程と同じく安堵の息をふっと溢したシェルだったが、途端に表情が険しくなった。
「リューリ」
「言いたいことはわかるよ。別にエンナをどうこうするつもりはなかったんだけど、結果こうなった以上仕方ない。ソードも自分の失態を挽回しようと囮を買って出てくれたんだ」
二人が話す最中、エンナは呆っと物思いに耽った。
早く来いとは思ったが、シェルがいるということは自分の命が残り僅かということを示すのと同じことなのだ。逃げようにもこの面子からは到底逃げ切れるとは思えない。
意識の遠いところから考えているせいか、リューリとシェルの会話がぼやけて聞こえる。
また、首にかかるペンダントが……熱い。
「こ、これは……!」
ローズの驚きの声が暈かされた界を切り裂くように突っ切って、エンナの耳に届く。意識が引き戻されたエンナははっとなって、ローズの方を振り向いた。彼女は野放しになっているシェルの馬を連れてこようとでもしたのか、シェルの馬の近くにいた。だが、ローズの手には薔薇の鞭が握られており、厳しく眉尻を上げて馬を警戒している。
「シェル様! この馬は魔物ではありませんか!?」
エンナが豆鉄砲でも食ったような顔をしていると、シェルは何かを思い出したかのように「あぁ」と呟いた。
「道中魔馬の群れに出会してな。普通の馬では間に合わないから、群れの中で孤立していたコイツを捕まえて乗ってきたんだ」
と、シェルは事も無げに言って退けるが、とんでもない話だ。
確かに、魔馬はとても役に立つ魔物だ。魔馬は通常の馬より夜目も利けば、魔術を使っているのか力もあるし、足も速い上持久力にも優れている。このタイミングで手に入るのは非常に運が良い。
しかし、草食動物であるとはいえ、魔物である以上危険なことに変わりない。まだ肉食の魔物よりは獰猛ではないにしろ、草食獣であっても凶猛だ。易々と人に懐くなどない。
だから、人にとってかなり便利な逸材になるであろうはずの魔馬が、家畜として多く出回ることは決してなかった。足も速い上魔術を使うため捕らえにくいというのもあるが。その辺りは魔犬と同じである。
それをこの人はあっさりと……
「ローズ、警戒しなくてもコイツは大丈夫だ」
シェルが「おいで」と手を差し出すと、魔馬は導かれるように近付いてそっと彼の掌に鼻先を寄せる。それを満足そうにシェルは魔馬の鼻筋を撫でてやった。その光景はまるで、劇の一場面をみているかのようだ。
これには皆が目を丸くして、リューリは感慨深そうに顎を撫でた。
「シェルって本当動物にも好かれるよね。いっそ騎士じゃなくて獣使いにでも転職してみたら?」
「冗談はよせ」
「さっすがシェル様ですわ~! 凶暴な魔物をこのように手懐けてしまうなんて。シェル様の何者も慈しむお心が、凶暴な魔物さえも虜にしてしまったのですわ!」
ローズは頬に手を添えて黄色い声をシェルに送っている。彼女の周りだけ、ハートや花が乱舞していそうな程の勢いだ。
そうだ。この子はこういう子だった。
彼女のミーハーっぷりを思い出して、エンナは思わず乾いた笑いを溢した。
ローズの賛称に笑いを噛み殺しながら、リューリは「さて」と話を区切る。
「面子は揃った。そろそろ本題に入るとしよう。エンナ、奴らになんて言われたのか教えて貰える?」
リューリの言葉を合図に皆の注意がエンナに集まる。
エンナはいきなり注目されて息を呑んだ。
「ア、アンタ達に話すことなんて何もないわよっ」
「……エンナ?」
リューリの笑顔の圧力。
エンナは「うっ」と言葉を詰まらせて、視線を泳がせた。
そうやって無言を守っていると、更なる重圧がのし掛かる。今リューリと目を合わせたら、瞬殺されるような気さえした。いや、目が合わなくても、このまま黙りこくっていたら同じ事だ。
結局、リューリの放つ異様な空気に負けて、エンナはぼそぼそと喋り始めた。
実は自分がエイブラムの娘であり、王女なのだということ。
精霊が見えるようになったこと。それを誘発したのが裏切り者のスラッツ……シラクだったこと。
覚醒したことで王位継承権が発生してしまったこと。
それらを話し終えると、リューリは「ふむ」と顎に手を添えた。
「前国王派に連れて行かれたから、自分の正体は教えられているとは思ってたけど、はてさて、これで選べる選択肢も本格的に限られてしまったわけだ」
「選択肢?」
「そう、エンナはもう何も知らないただの女の子ではなくなってしまったからね」
リューリはやれやれと首を振った。
「事実を知っているのと知っていないのとでは、周りの対応に大きな差が出る。エンナが何も知らないままだったら、僕達も事を進めやすかったし、前国王派は別にしても現国王派は身動きが取りにくい。
あくまでエンナはフィアデルフィアの“国民”であり国が守る対象だから、数多くの騎士がいる現国王派は下手に大きく出ることができないからね。本来、国の守護者たる騎士が守らなければならない国民をその手にかけるなど本末転倒。絶対に他に知られてはならない。そうなると、必然的に動き方が制限される」
「なるほど、ね。だから現国王派のあのウルとかいう人達は、人が多く集まるようなところでは襲わず、森の中で始末しようとしたわけ」
その通りとリューリは満足そうに笑った。
「でも、自分が元々この国の王女だったということを知った今、エンナのことをただの“国民”として見過ごすには、あまりにも危険すぎる。このまま計画通りに国外逃亡したところで、何かしらの手段で追ってくるだろうね」
「それなら、わたしが知ってるってことを隠しておけば良いんじゃないの?」
「いや、それは無駄だな」
と、エンナの意見を否定したのはシェルだった。
「現国王派も前国王派に間者を潜ませているはずだ。エンナが前国王派に捕まった時点で、その話はあちらに伝わっているだろう。となれば、既にエンナが自分の正体を知っていると考えた方が良い。欲に塗れた貴族が多い前国王派は、エンナがこの国の女王として君臨するのが目的なのだから、自分が王族だと伝えるのは当たり前だからな」
シェルの最後の言葉に、エンナは媚びへつらうベンドールのことを思い返した。あんなのが他にもいるのかと思うと吐き気がする。
エンナが不快感を顔中露わにしていると、リューリは肩を竦めた。
「事を一番厄介にさせているのは、力が覚醒してしまったことだね。王位継承権を持つエンナを双方共にあらゆる手を尽くして必死で追ってくるだろうから、流石の僕らでも最後まで守り切るのは難しい」
「守る?」
エンナはリューリの言葉にはっと失笑した。
この期に及んで、まだそんな戯れ言を言えるのか。
「……やっぱり、あいつらに何か言われたんだね。一体何を言われたのか教えて貰えるかな」
なんて白々しい。本当はわかっている癖に、自分の口から言わせようとするなんて。
不愉快だ。
不快すぎて堪らない。
「別に、あの時は魔物と遭遇して気が動転しただけで」
「エンナ?」
リューリの満面の笑顔が怖いです、神父様。
でも、確かにここで話を逸らそうにも、どのみち先は見えている。
だったら、ここはハッキリと言ってやって、罵声なりなんなり思う存分言いたいことを吐き出してから死んでいって方がお得だ。
エンナはキッとリューリ達のことを睨み付けた。
「わたしは今の王家にとって危険な存在だから、アンタ達が掌ひっくり返して殺すだろうって教えて貰ったのよ」
半分投げやりになりながらも早口に捲し立てると、エンナはふんと鼻息荒くそっぽを向く。リューリは目を瞬かせた。
「僕達がエンナを殺す、だって?」
ぷっと吹き出した後、なんと彼は声を上げて笑い始めた。
「な~んだ、そういうことか。何かと思えば」
くくっと可笑しそうに笑うリューリ。
エンナはそれが不愉快で眉頭に皺を寄せた。
これは真面目な話だ。それをこんな風に笑い飛ばされるなんて。もしかして馬鹿にされているのか?
シェルはそれを見かねて、窘めるようにリューリの名を呼んだ。
「ごめんごめん。だって笑うしかないじゃないか。なんとなく予想していたとはいえさ」
目に涙が溜まる程一頻り笑い終えたリューリは、濡れた目尻拭う。
何、違うとでも言いたいの?
エンナは片眉を吊り上げ、口を曲げた。
「勘違いしているみたいだけど、別にエンナを殺そうだなんて微塵も思っちゃいないよ」
それを聞いて、エンナはなんとなくローズの方に視線を向ける。すると瞼をぱちくりしている彼女とばっちり目が合った。
エンナに精霊使いとしての素質が覚醒した時、彼女はリューリとシェルには絶対に悟られるなと忠告してきた。だから、彼女も二人がエンナを殺すかもしれない、ということをわかっていたからだと思ったのだが、どうやらその通りらしい。
ローズは戸惑いがちにリューリへ目線を戻した。
「リューリ様、あの、それはどういう……?」
彼女の反応も予測していたようで、リューリはやっぱりかと言わんばかりにローズを見ていた。
「僕達がまさかエンナを殺すはずがないだろう?」
「そうは思ってはいましたが、しかし……」
「多分、僕とシェルの会話を何処かで聞いてそんな風に思ったのかもしれないけど、命に関わるようなことじゃないよ。ただ、ある意味そう言っても過言ではないから、そう表現したまでのこと。同じ精霊使いであり精霊騎士のローズなら、ここまで言えばどういう意味だったのか、もうわかるだろう?」
ローズはあっと口元を押さえた。どうやら言葉の裏に隠された意味がわかったようだ。
「リューリ様、シェル様、申し訳ありません。わたくしったらとんでもない思い違いを……」
「それは仕方ないだろう。俺達も勘違いさせるような言い回しをしていたんだ。そんな風に思われて当然だ」
すまなかったと寧ろ謝るシェルにローズは慌てた。
成る程、ローズの“気が利く方”という賞賛には賛成できないが、シェルが案外といい人なのかもしれない。というのは、ようやっと理解できそうな気がした。
が、しかしだ。
それはいいとして、ローズが“言葉の裏”をわかっても、エンナにはそんな説明で通用するはずがない。彼らのことをよく知らないエンナに裏側の真意なんて察することなどできるわけもなく、首を捻るばかりだ。
「で、どういうことなの? “ある意味そう言っても過言ではない”ってことは、結局のところ」
「エンナ、これから話すことをよく聞いて」
リューリはエンナの言葉をいつになく彼の真剣な眼差しに、エンナ思わず居住まいを正してしまった。
「予定通り国外逃亡を遂げたところで先は見えているし、かといって前国王派に靡けば一時の命は保証されるけど、今よりも困難がエンナを待ち受けているだけ。両者の手を退け、生き延びるための方法は一つしかない」
「方法?」
ちらりとリューリとシェルがお互いに視線を交わした。告げるのを躊躇ってでもいるようで二人は無言でいる。
暫くそうしていると、覚悟を決めたのかシェルがエンナの方へ顔を向けてきた。そして、静かに彼独特の声のない言葉で告げる。
「エンナが精霊騎士になればいい」
「……は?」
エンナの目が点になった。
まるでその時だけ時間が止まったような錯覚を覚える。
わたしが、何になればいいって?
「精霊騎士?」
「そうだ」
「誰が?」
「エンナが」
数秒の沈黙が降りてから、エンナは驚愕して今までにないくらい顔の形を崩した。
「ちょっ、はぁあ!? 精霊騎士って、何がどうしたらそうなるのよ!」
精霊騎士といったら、あの一流の騎士達のことだ。しかも、その階級の人達が目の前にいる。
「王位継承への条件が精霊の視覚認識なら、権利を放棄するためにはどうしたら良いと思う?」
二人の会話が繋がらず、エンナは首を捻った。一体、シェルは何が言いたいのだろう。
「精霊と契約し、精霊使いになるんだ」
「精霊使いに?」
エンナが反芻するとシェルは頷いた。
「でも、それだけじゃ権利を放棄するには弱い。歴代の王の中には精霊使いだった王がいた事例があるからな。完全に放棄するためには、精霊使いとなって精霊騎士になるしかない」
あまりにも突拍子もないことでエンナは言葉を失った。
ただの孤児だった自分が、元王女から今度は精霊騎士。色んなものを飛び越えすぎて展開についていけない。
「いや、いやいやいや、精霊騎士だなんて……一般庶民のわたしがそんな大層なお役目に就くなんて無理に決まってるじゃない」
「……良かった」
心底困って首を横に振っていると、シェルの少し安堵したような声が伝わってきた。
何がどう良かったのか。
ムッとなってエンナは眉頭に皺を寄せた。
「ちょっと、それどういう意味よ?」
「あぁ、すまない。別にエンナを馬鹿にして言ったんじゃないんだ。精霊騎士、精霊使いになるには、相当な覚悟が必要だからな。もしここでエンナが“はい、じゃあやります”と軽く引き受けたらどうしようかと……」
「あのね、精霊騎士っつったら国の一流騎士で、国中の乙女達の憧れなのよ? 軽はずみに首を縦に振るわけないじゃない!」
「エンナ、シェルが言いたいのはそういうことじゃないよ」
じゃあ、何が言いたいのだ。
エンナは横から口を挟んできたリューリに目を窄めた。
「精霊使いになるというのがどういうことなのか、エンナは知っているかい?」
「そりゃあ……よくは知らないけど」
「精霊使いになるってことは、只の“人”という存在ではなくなるんだ」
人ではなくなる?
「それってどういう……」
「エンナ、僕やシェルが何歳にみえる?」
「は?」
「何歳にみえる?」
いきなりリューリは何を聞いてくるのだ。
話の筋が繋がらず、エンナは片眉を上げたが、取り敢えず聞かれたことに答えておくことにした。
「リューリは十六、七くらいで、シェルはまぁ二十歳前後ってところじゃないの?」
「違うよ」
「違うの?」
「全然ね」
リューリはにっこり笑うと言った。
「僕達、こうみえてもう齢三十四なんだ」
「へぇ、齢三十……」
リューリの言葉を反芻して、はたっとエンナは動きを一時停止させた。
今、とんでもない数字を反復しようとした気がする。
リューリ達の歳がもう三十代って、そんなまさかまさか……
エンナは、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「何、その子供騙しな大嘘。悪いけどそんな見え見えな嘘に引っかかる程、私は馬鹿じゃ」
「本当だ。嘘じゃない」
シェルがエンナの否定を更に否定した。
エンナは訝しそうにシェルを見つめる。シェルの表情は変わらないが、翡翠色の瞳は真剣に感じた。まぁ、リューリと違って彼はまだ裏表なくて信頼できる……と思う。
ということは。
エンナに衝撃が走った。
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