1.空中ダイブ (1)
「いやぁぁあああっ!!」
絶叫。絶叫。
エンナは、真っ逆様に夜の中へ落っこちていた。
彼女から見れば、色々な意味で真っ暗な闇の底へと落ちていくような感じだ。
あぁ、どうしてこんなことになってしまったのか。
今まで起きたことをエンナは走馬燈のように思い返した。
* * *
「なんでわたしがこんな目にあわなきゃならないの」
冷たく寒い牢屋の中で、エンナは呟いた。
確かに、世の中というものは色々なことがある。
エンナでまず例えるなら、彼女は身寄りのない孤児だ。
まだエンナが赤ん坊だった頃、教会に捨てられた。孤児として教会で育ったエンナは、自分と同じく教会で育った年下の子達の面倒を見ながら、十五歳を迎えた彼女は仕事を探していた。十六歳になると、教会を出て行かなければならないのだ。苦労の末、小さな宿屋だがそこで下働きとして働けることになった。
だが、その日の帰り道。意気揚々と教会へ戻ろうとしたら、突然、見ず知らずの柄の悪い男達に囲まれて、気付いたらここにいた。どうやら、エンナは攫われたようだ。しかも、人身売買の裏組織。孤児がこういった組織に狙われるのはよくあることだ。よくあることなのだが。
「ちょっとー! わたしをここから出しなさいよ!! 誰かいないのっ、コルァーッ!!」
生憎、エンナは怯え震えて大人しく捕まっているような可愛らしい女の子ではなかった。
鉄格子を掴んで叫く。さながら、野生のゴリラのようである。
エンナの叫き声は、暗い地下牢全体に反響して虚しく響き渡った。
散々叫き散らしたが、誰もやって来ない。やがて、疲れて叫くのを止めたエンナは、鉄格子に寄りかかるようにして、ズルズルとその場に座り込んだ。
どうにかして、ここから一刻も速く抜け出さなければ。
明日にはここから連れ出され、競売先へと向かうだろう。そうしたら、その競売先で捕らわれている他の子達と一緒の檻に入れられ、明後日には売られてしまう。
冷え切った素足の足を合わせ、身体を包み込むように抱くと身体をさすった。
それにしても寒い。寒くて考えるのに集中できない。
エンナが寒さと焦りで苛立っていると、コツコツと硬い音が聞こえてきた。足音だ。ここの連中の誰かが見回りにでも来たのだろう。
怒りが込み上げてきて、不機嫌に顔を顰める。
あぁ、腹立たしい!! 一言文句言ってやる!
エンナの所まで足音が二、三歩というところで、頬が膨らむ程息を一杯吸った。
声を掛けてきたら、そこで痛恨の一撃を食らわせてやる! そう意気込んで。
「あんたがエンナさん?」
あのむさっ苦しい男共にしては随分と可愛らしい声に驚く。アルトかテノールか、そのくらいの音域の声は、エンナの耳に心地良く入ってくる。
不審に思い、エンナは恐る恐る振り返った。するとそこには……
超が付くぐらい、それはそれは綺麗な女の子が立っていた。
年の頃は、自分と同じくらいとみた。
エンナは、保存していた息を止めて、あんぐりと口を開けたまま少女を見つめた。少女の持つ手燭の灯火と廊下を照らす燭台だけが頼りだが、この少女が綺麗であることは間違いなくわかる。昼間の時のような明るい場所で見たら、さぞ美しいことだろう。
彼女は、惚けてしまっているエンナの目線に合わせるようにしゃがみ込むと、にっこりと笑んだ。
「今晩は、そして初めましてエンナさん。あなたを助けに来ました」
「……はっ?」
突然のことで、エンナは更に呆然とする。
助けに来たって誰を? わたしを? なんで、どうして?
まさかこの子も連中の一人で、助ける気なんてサラサラないくせに、そう言ってからかってるだけなのかも。いや、でもこんな綺麗な子がこんなところにいるのも変……
訳が分からず、思考回路の線路をぐるぐる回っていると、彼女は立ち上がった。
「詳しいことはまた後で話すとして、まずはここからさっさと脱出しないとね」
彼女は入り口に近付くと、鍵穴に手を押し当てた。
一体全体、何をしているのだろう。まさか、この鉄で出来た格子を壊そうとしているのだろうか。この美少女が筋肉ムキムキ野郎のような怪力には見えない。そんな怪力があっても鉄格子は壊せないと思うが。
暫くすると、鍵穴の中から赤い光が漏れてきた。ジジーッと鍵穴から何か聞こえてくる。
「そろそろ頃合いかな」
少女が軽く戸を押した。そんなんで開くかと思ったが、驚いたことに鉄格子の戸は何の抵抗もなくすんなりと開いた。
目を丸々と見張る。施錠はしっかりとしてあったはずだ。エンナは、どうにかならないかと何度か戸を揺さ振ったり試してみていたが、びくともしなかった。それがどうして……
「そこでぼうっとしてるのもいいけど、いいの? 逃げなくて」
エンナは、開いた戸と少女を交互に見比べた。
もしかしたら、これは罠かもしれない。裏の人間という者達は、人を貶めるのも死んでいくのも、全てが遊びでそれが快楽なのだ。
でも、何も出来ないままここで叫んでいるよりは、外に出た方が逃げ出せる可能性はある。
エンナは覚悟を決めて立ち上がった。
この少女、只の美少女というわけではなさそうだ。でも、自分よりも華奢な身体付きに見えるし、何かあれば力業できっとどうにかできる。
牢屋の入り口から一歩、そしてもう一歩と廊下へエンナは出た。
それを見ていた美少女は、エンナが大人しく外へ出ると満足そうに笑う。
「こっちだよ」
エンナの手を引っ張って少女は先へと導いた。
* * *
暗くて寒い地下から抜けて、今度は地下よりも真っ暗な通路に出た。隠し通路なのか、それとも逃亡を防ぐためなのか、石のブロックで出来た通路には、室内灯が一つもなければ窓もない。まるで、長方形の箱の中にでも閉じこめられている気分だ。少女の持つ手燭の炎だけが唯一の頼りである。
少女に導かれるまま、二人は心持ち駆け足で先へと進んだ。
少しすると、エンナを誘導していた少女が立ち止まる。急に少女が止まるので、エンナは前につんのめりそうになった。
「急に止まらないでよ」
エンナが文句を言うと、少女は手燭を掲げた。
掲げた炎の光は闇に吸い込まれず、何かに当たってその姿を映して光が帰ってくる。木製のドアだ。地下よりも暗さに関しては地下らしい通路からやっと抜け出せるようだ。
速くここから出たい。逃げ出したい。
そんな気持ちが先走って、エンナは急いでそのドアへ駆け出そうと足を踏み出した。が、それを少女が腕を垂直に上げて制する。
何か言おうとすると、少女はエンナの方に顔だけ振り返って、しーっと人差し指を口に押し当てた。そして、ちょいちょいっとドアの向こうを指すように指差す。
エンナは訝しんでドアの外へと耳を澄ませた。微かだが聞こえる。ドアから少し遠いところから、足音と話し声だ。
「おい、あそこ。どうして見張りがいないんだ」
「さぁ、サボってんじゃね」
どうやら、ここの組織の仲間が見回りに来たようである。
見張りがどうのと言っていたから、このドアのところにも当然見張りがいたのだ。それをこの少女がどうにかした、と。
…………
これは非常にマズい。
ここは商品を逃がさないための重要なポイントのはずだ。
いくらなんでも、ここに誰もいないなんて可笑しい。
「そんな馬鹿な。大切な商品をしまっておくところだぞ。流石に見張りの奴らがここから離れるのはおかしいだろ」
あぁ、ほら。あいつらも訝しんでるよ!
「う〜ん、やっぱそう簡単にはいかないか」
少女は、ふぅっと溜息をついて肩を竦めた。
なんでこの子こんなに余裕なの!
「ど、どうするのよっ。ここ、何処も隠れるところないわよ!?」
エンナは、なるべく声を潜めて少女に言った。見付かったら一巻の終わりだ。
少女は目をパチクリさせて、何が可笑しいのかふっと笑う。
「面白いこと言うね。そりゃ、ここには隠れるところなんてないだろうさ」
少女は不敵に笑った。
どうして、この少女はこんなにも余裕綽々なのだろう。
流石のエンナも心中焦りまくっているというのに。心臓が早鐘のようにドクドクいっている。
「あんたは一、二歩下がってて。下がったら蝋燭の火を消すけど、驚かないでそこで大人しくしててね」
「えっ」
彼女の真意が分からず、エンナは眉を潜めた。一体何をするつもりだろうこの子は。
「考えてる暇はないよ。ほら、あいつらが来る」
そこを畳み掛けるように少女が言った。確かに足音がどんどん近付いてくる。
考える余裕もなく、エンナは慌てて彼女の指示に従った。この状況では従うしかない。
えぇいっ、もうこうなったらどうにでもなれよ!
「エンナ、良い子だね」
彼女はにっこりと笑うと、エンナを褒めた。まるで、小さい子を褒めるような感じだ。
そうして、少女はふっと息を吹き付けて蝋燭の火を消す。一瞬のうちに、この通路を闇が支配した。
その間も足音は近付いてきて、エンナの心臓は爆発寸前だ。心臓が今にも胸から飛び出してきそうな程。
暗くて何も見えないせいか、耳だけが嫌に周りの音を拾ってくれる。男達の足音だけは特に目立って聞こえた。
あの子はちゃんとここにいるのだろうか。
まるで自分一人だけ、ここに取り残された錯覚を覚える。
色々な不安がのし掛かって、エンナは手をぎゅっと握り生唾を飲んだ。
大丈夫、大丈夫……何かあった時はあった時。その時は自分の本能のままに動けば怖くないわ。上手くいく、きっと。
そうやって自分を気丈に奮い立たせて、いつもの勝ち気な自分を保つので精一杯。
あぁっ、もう奴らがそこまで来てる!
ドアが勢いよく開かれて、真っ暗だった通路に光が差し込んだ。
男は二人、どちらとも体格はがっちりとしている。
ドアを開けた男が目の前の少女を見て眉を潜めた。
「女?」
「今晩は」
美少女は極上の笑みを浮かべて、夜の挨拶を男達にする。
少女の笑顔に男達は魅了され、固まってしまった。
その隙を少女は見逃さなかった。少女の瞳が鋭く光る。
少女は素早く飛び上がると、身体を捻ってドアを開けた男の上顎の部分に思いっきり蹴りを食らわせた。
いきなりの先制攻撃。
何が起こったのかわからなかっただろう男は、倒れてそのまま気絶した。気の抜けた表情のまま横っ面が潰れて変形してしまっている。
後ろにいた男も展開についていけず、只呆然と目の前の男が倒れるのを眺めているのみ。
少女は着地するとその勢いのまま、今度は呆然とする男に飛び込んで拳を腹に打ち込んだ。
「ごはっ」
男はお腹を押さえて蹲る。そこを容赦なく少女は蹴り倒した。
「エンナ!!」
事の成り行き只見ていたエンナは、自分の名を呼ぶ声にハッとなる。
一人は気絶し、もう一人は苦痛に動けない状態。
今ならここから抜け出せる。
少女はエンナの腕を掴むと、通路から廊下へ出て走り出した。
廊下には室内灯が等間隔に設置してありとても明るい。エンナ達が通ってきた通路とはえらい違いだ。しかも、赤い絨毯のお陰で足も冷たくならないから助かる。
「侵入者だ……! 侵入者だぞー!!」
エンナは走りながらその声を聞いて後ろを振り返った。床に這い蹲り苦痛に顔が歪んだまま男は力の限り叫んでいる。
これでは見付かるのも時間の問題だ。
「そうそう、しっかり仲間を呼んでくれよ」
「アンタ何言ってんの!?」
聞き捨てならない言葉だ。
自分達は今まさに逃げているのだ。
少女の言葉は、自分達を追い込む言葉である。
それをこの少女は笑顔で言っている。しかも、若干楽しそうに。遊びと勘違いをしているのではないかと思う程だ。
「いたっ、やつらだ!!」
案の定見付かった。
仲間の声を聞きつけた男達が前から突進してくる。
エンナはそれを見て立ち止まりそうになったが、少女がそれを許してくれず、引っ張られるまま走る。
このまま突っ込むつもりだ!
そして、少女は空いている手を翳して叫んだ。
「<発火せよ!>」
すると、なんということか。
室内灯の幾つかがパンッと弾けたのだ。
そこから小さな炎がちろちろと溢れ出るように燃え、火の粉が男達へ襲いかかる。
「うわ、あちっ、あちちちちちっ!」
「くそっ、なんだこれは!」
男達は驚いて立ち止まり、自分達の髪や服に燃え移る火を必死で消している。
しかし、消しても消しても壊れた室内灯の中から火の粉が舞い出て、男達へまとわりついていく。なんだか不思議な光景だ。
二人は、慌てて火を消す隙に男達の間を擦り抜けて疾走した。
だが、ここを突破しても次から次へと組織の連中が沸いて出てくる。何処からと言いたくなる程だ。
それでも迫り来る男達を少女がちぎっては投げちぎっては投げ、たまに不可思議な力で連中を退けどうにか逃げている。
見た目は可憐な少女なのに、それに反して随分と腕っ節が良い。
一体、この少女は何者なのだろうか。
わかるとすれば、徒者ではないということと、エンナでは到底この少女には敵わないということくらいだ。
少女に導かれるまま走り続けると、いつの間にか屋上へと出ていた。夜空に浮かぶ月と星々が二人を出迎える。
「どうするの。これじゃ逃げられないじゃないっ」
エンナは肩で息をして、乱れた呼吸を落ち着かせてから少女に訴えた。
改めて周囲を見渡しても見晴らしが良いという以外は何もない。
少女は、う〜んと少し考える素振りを見せたが、その顔には不適な笑顔が広がっている。どう見ても真剣に考えているようには見えない。
「取り敢えず、こうするかな」
少女は手を翳し唱え始めた。