8.月輝く夜に (1)
「ちょっと待って下さい」
頭痛を起こしかけている頭を押さえ、エンナは片手を挙げた。
前国王陛下の息女ってつまり……王女? お姫様?
しかもエイブラム前国王と言えば、悪名高い王様ではないか。とどのつまり、その娘ということになる。
誰が? 私が?
意味がわからない。どうしてそういうことになるのか。
「あの、それってわたしがこの国の元王女、ということになってしまうんですが」
「えぇ、まさしくその通りに御座います」
「何故そんなことになるんですか? 全然納得できないんですが……」
にわかには信じがたい事実だ。疑惑の視線をベンドールに送ると、彼は頬に流れた汗をハンカチで拭った。
「いえいえ、これは真です。嘘偽りでは御座いません。エンナ様は正真正銘、エイブラム前国王陛下の御息女であらせられます」
ベンドールは順を追って説明し出した。
約十六年前、フェアデルフィアでは大きな内乱が巻き起こっていた。“国内戦争”と言っても過言ではない程、かつてのフェアデルフィアは酷い有様だったらしい。
その話なら、エンナも育ててくれた神父様から聞いていたので知っていた。前国王のエイブラムは歴代国王の中でも暴君と名高く、彼が国を治めていた当時、国民は圧政に苦しんでいたという。それに耐えられなくなった国民は乱を起こし、エイブラムの弟であるアラディンがとうとう自ら軍を率いて、血の繋がった兄である彼を討ち取った。そのおかげで、この国はエイブラムの恐怖政治から脱することができたのだ。
そして、現在ここフェアデルフィアの王は国王討伐に立ち上がったあのエイブラムの弟、アラディン国王陛下である。
彼の統率力は兄エイブラムを超え、優れた王としての素質を持っていた。彼が治めてから徐々にこの国は平和を取り戻し、豊かになっていったのだ。
しかし、ベンドールの話ではエンナが今まで聞いていたのとは整合性が合わない。
何故なら、彼は逐一エイブラム前国王のことを持ち上げてくるのだ。エンナがいる手前なのかは知らないが、どんなにご聡明で素晴らしく勇ましかった。また優れた才能の持ち主であったかと褒め称えてくる。
一方、アラディン現国王の名前が出る度に、直接的ではないにしても貶しているとしか思えない発言をするのだ。
まぁ、兎に角彼が言いたいことを簡単に要約すると
「要するに、わたしはその乱世真っ直中に生まれて、わたしの命が危ないと思った当時王の側室として王宮にいた母がまだ赤子だったわたしを人知れず教会へ引き渡すようにしたと……」
長々とまだ説明を続けようとするベンドールを遮ってエンナは言った。
「えぇ、えぇ、まさしくその通りに御座います。いやはや、流石はエイブラム前国王陛下の王女様。お父上様に似てご聡明でいらっしゃる」
何言ってんだこのおっさんは。
褒め言葉にもなっていないベンドールのお世辞に、エンナは呆れてしまって何も言えなかった。スラッツまでも「へっ」と馬鹿にしたような一笑を溢している。
「当時は本当に酷い荒れようでした。エンナ様の異母兄弟に当たる兄君様や姉君様方は全員あの反乱で殺害され、正室のレオノーラ様も……」
ベンドールはうっと言葉を詰まらせて、身も世もないように溜まった涙を流れないようにハンカチで押さえる。その芝居がかった仕草にエンナは唇をへの字に曲げた。
「兎に角、エンナ様の母君様、エメリナ様は貧困層の救済運動など国民への援助を惜しみなく執り行っておられた方で、国民からも慕われておりました。この方は助けてくれという声が大きかったので助かりましたが……エイブラム様が討たれ政権がアラディン様に移っても、反乱分子が動いておりましたので、何年かは予断を許さない状況が続いておりました」
「成る程ね〜」
エンナは腕を組み背もたれに身を預けると天井を仰ぎ見た。シャンデリアの光が色々な形を作って天井の壁に映っている。
そういう事情があって、自分は教会へ捨てられたのか。
しかし、そんな風に告げられても自分のことなのだとは到底思えなかった。違う誰かの話のようだ。
大体いきなり、自分は王女様でしたぁ、テヘ。なんて、そんなもん信じられるか。
あまりにも現実からかけ離れすぎている。
それにしてもこのベンドールという男。
「随分詳しいんですね。エメリナ様はご自分の腹心で側近の方にしか、わたしを教会へ預けるということはお伝えしていなかったとそう言ってたのに。ベンドールさんはエメリナ様の側近だったんですか?」
「私目はそのような立場ではありませんでしたが、調べていけばわかることです」
エンナの指摘にベンドールは額に浮かんだ汗を手に持っているハンカチで拭き取った。そんなに汗が出る程熱いかここは?
益々怪しい。あの答えに窮するような締まりのない作り笑顔といい。怪しすぎる。
疑心暗鬼を隠そうともせずエンナは目を据えた。すると、それを感じ取った途端にベンドールは当惑して必死に言い募る。
「ほ、本当に御座います! エンナ様は正真正銘、エイブラム様の」
「それはわかりました」
エンナはベンドールの言葉を切り捨てるように突っぱねる。
そう、それはもうわかった。多分それは本当のことなのだろう。でも、やはりエンナにはピンとこない話だった。突然この国の元お姫様だったとか、どこぞの小説じゃあるまいし。
それにエンナはこの話を受け入れられないもう一つの理由がある。
それは、エイブラムの娘であるということ。
正直、あの悪王とまで詠われるあのエイブラムの実の娘だなんて信じられない。信じたくない。
「そうですか、おわかりになって頂けて嬉しい限りです」
ベンドールは脂ぎった頬と額をキラリと光らせた。かなりご満悦のようだ。
「長旅でお疲れでしょうから、お話はこのくらいにして今日はもうお休み下さいませ。また明日、詳しいことをお話しさせて頂きます」
ベンドールは手を鳴らして侍女を呼ぶと、部屋まで案内しエンナを世話するように言いつける。エンナは納得できず顔を顰めていたが、視界にスラッツがちらりと入った。気になってそちらへ注目する。スラッツは相変わらず壁に寄り掛かって天井を見ていた。
一体これはどういうことなの?
エンナはドレススカートの裾をぎゅっと握る。
彼にこの場で問い詰めたかった。でも、それはできなかった。
聞いたらもうそれで終わりのような気がして、怖くて彼に駆け寄ることすら足が竦んでできなかったのだ。
やがてエンナの視線に気付いたスラッツは、こちらへ目線を向けると……
口端を吊り上げて皮肉っぽく笑った。
* * *
やっとあの息苦しい拷問に使われる道具のような下着から解放され、ドレスからゆったりとしたネグリジェに着替えたエンナは、案内された一人用にしては随分広い部屋で、一人ぽつんと椅子に腰掛け考えに耽っていた。
自分の出生のこと。両親のこと。教会へ捨てられたわけ。ようやっとそれがわかった。
そしてエンナの母のこと。
エメリナは決してエンナをいらなくなって教会へ置いていったわけではなかった。寧ろ、エンナの身を案じての行動だったのだ。それがわかっただけでも、エンナは少し救われたような気がした。
ずっとずっと、自分はいらない子だから捨てられたのだと思って生きてきた。でもそれは大きな勘違いで、逆にずっとずっと守られていたのだ。
お母さんごめんなさい。
心の中で、もうこの世にはいない母に向かって謝る。
恨んで、ごめんなさい……
エンナはその時、ルージュが「最後に一目で良いから会いたかった」と言っていたことを思い出す。そうだ。会いたかったと言葉を残してくれていたではないか。エンナはそのことを失念していたことを酷く後悔し、もう一度エメリナに向かって深く謝った。
しかし、そこでわからないことがある。
「どうして迎えに来てくれなかったんだろう」
国勢が落ち着いてきたのなら来てくれても良かったはずだ。でも彼女はそうしなかった。
やはり自分が暴君の娘だからだろうか?
それにリューリ達のことも引っかかる。彼らは決してエンナに彼女の素性を明かそうとはしなかった。頑なだったと言ってもいいかもしれない。
話す機会がなかったとか?
いや、ないにしてもこんな大切な話を時間がなかったからといって後回しにするだろうか。普通ならそんなことはしないだろう。
では生い立ちが生い立ちなので明かしにくかったのだろうか?
でも、それもどうもしっくりこない。
考えても考えても疑問が思い浮かぶばかりだ。
「さっぱりわからないわ……」
エンナはお手上げとテーブルに肘を乗せ、両の掌に顔を預ける。窓から入る月光が頼りの暗い部屋にエンナの溜め息が虚しく霧散した。
それにしても、こんな状況にも関わらず随分と肝っ玉がすわったものである。自分でも感心してしまうくらいだ。リューリ達とのデンジャラスな冒険が肥やしになっているのかもしれない。そう思うと、ある意味感謝の念すら抱く。
いやしかし、あの屋上から飛び降りるのはどうかと思うが。
エンナは深く深〜く息を吐いた。
「思いの外落ち着いてるな〜、吃驚。もっと慌てふためいて頭ん中ぐるぐるさせてるもんかと思ったけど」
エンナがこれからのことを憂えていると、いきなり後方から声を掛けられる。ぎょっとなって勢いよく振り返れば、そこにはスラッツが窓際の壁に寄り掛かっていた。
「流石はエイブラムの娘ってか?」
スラッツは嗤笑をエンナへ向ける。
「スラッツ、アンタ……」
思わず椅子から立ち上がってエンナは数歩後退った。
どうやってここへ入ってきたの?
部屋のドアからではない。彼女はずっとそちらの方面を向いて座っていたし、誰かが来たらすぐに気付く。だとすると窓から? しかし、ここの部屋は四階にあるため、そう易々と侵入できるところではないはずだ。
「ウけるな〜その反応。如何にもどうやってここに? って顔に出てるよ」
壁に預けていた身体を起こして、スラッツは薄ら寒い笑みを浮かべながらこちらへ近付いてくる。背筋に寒気が走るような感覚がエンナを襲って、彼女は一歩後ろへ下がった。
「答えは簡単。エンナ、オレとはじめて会った時のこと覚えてる?」
「えぇ、とてつもなく印象的だったからよく覚えてるわ」
「なら話は早い。やったことはあの時と全く同じだよ」
話しながらスラッツはどんどん近付いてきて、とうとう二人の距離は人一人分の間合いになる。
エンナはスラッツと距離を置きたかったが、今ここで後に引くのも負ける気がして嫌だったので歯を噛み締めてぐっと堪えた。
「スラッツ、これは一体どういうことなの? アンタ、ここでリューリ達と落ち合う約束だって言ってたわよね。随分と話が違う気がしてならないんだけど」
「それはそうだ。だって、それはオレの真っ赤な嘘だから」
「嘘……?」
「そう、嘘」
スラッツはにっこりと笑った。いつもだったら人懐っこく見える表情も、今では返って薄気味悪くて怖い。
「ソードさんが裏切り者だったんじゃない。オレが裏切り者だったんだよ、エンナ」
何処までも屈託のない、笑顔。
どくんと心臓が大きく波打つ。スラッツが裏切り者……?
「何それ、どういうこと? ソードが裏切り者じゃなくてスラッツって……」
ハッキリと告げられたせいなのか、急に足下がグラグラした。目もグルグルした。
一体、どちらのせいで身体の平衡感覚がなくなっているのかすらわからない。
どこもかしこも回ってて、床が揺らいでいる気がする。
「その言葉通りだよ。あの時ソードさんはエンナに斬り掛かろうとしたんじゃない。オレだったんだ」
ただ驚きと衝撃でエンナはスラッツから目線を逸らすどころか、身体を動かすことさえできなかった。
「まだわかんないの? エンナって結構頭が回る方だと思ってたけど、意外とショックに弱いんだな」
「だってそんな……」
「なんか必死で信じてくれようとしてくれてるみたいだけどさぁ、それ、無駄だよ。オレが裏切り者ってのは事実だし、ここまでエンナを導いたのも紛れもなくオレだから。大体、ソードさんが裏切り者だって言った辺りから怪しいと思わなかったのか?」
ってあの時はそんなこと考えられなかったかとスラッツは笑う。
一瞬、足の力が抜けそうになった。胸も針で引っ掻かれているみたいに痛くなる。
しっかりしろ、わたし。
エンナは頽れそうになる己を叱咤し、足に力を入れて踏ん張った。
「それじゃここは」
「あぁ安心してよ。ウルさん達と違ってこっちはエンナを殺そうとは決してしないから」
「こっち? どういう意味よそれ」
訝しげに片眉を吊り上げる。スラッツはニコリと作ったような笑みを顔に貼り付けた。
「エンナには詳しくまだ話されてないけど、今王宮では大きく三つの派閥に別れてるんだ。前国王派と現国王派、そのどちらの派閥にも属さない中立派。前国王派も現国王派も、名の通りそれぞれの国王を支持している。で、ベンドールは前国王派の一人、ウルさんらは現国王派なんだ」
「そういうこと。でも、そこでどうしてわたしがこんな目に遭わされなきゃならないのよ」
「ここまで言ってわかんない?」
馬鹿にしたようにスラッツは鼻で嘲笑う。エンナはスラッツの不快な態度にむかっと腹が立ってキッときつく睨め付けた。しかし、彼は怯むこともなく、寧ろエンナの強気な目を面白そうに見つめ返して話を続ける。
「前国王派にとっては、エンナという存在はまさに神様から与えられた賜物。利用価値は色々ある。だから現国王派からしてみれば、アラディン国王陛下並びにその一族の驚異的な弊害にしかならないエンナは、邪魔な存在に他ならないんだよ」
そこまで聞いてエンナはやっと気付いた。いつの間にか握り締めていた掌に嫌な汗がじわっと滲む。
「まさか、前国王派はわたしを盾に何かするつもりなの?」
「ご明察。前国王派は欲深な奴らの集まりだ。だから、エンナを前国王派の傀儡にして女王にすることができれば、自分達の将来が約束されたも同然。でもこの国の王になるためにはある条件が必要なんだ。その条件を満たしていなければ、王族であっても継承権は得られない」
「条件?」
「なぁエンナ、不思議に思わなかった? どうして急に精霊が見えるようになったのか」
エンナは自分の問いとは違うもの、寧ろ問いに問いが返ってきて片眉を吊り上げる。それは一体どういう意味だろう。エンナは自分が目覚めたのは自然に目覚めたのだと思っていた。
しかし、スラッツの口ぶりからエンナが目覚めたのには実は何か裏でもあったのだろうか。
「エンナが精霊を見えるようにしたのはオレなんだ」
「スラッツが? そんなまさか、どうやって」
覚醒させるのにそんな故意的なことが可能なのだろうか?
「オレには力の動きがわかるって話したことあったよな。オレは動きがわかる他にできることがあるんだ」
「何よ、そのできることって」
「相手に触れることで自分の精霊力を送り込み、相手の力を強くしたり、弱めたりすること」
スラッツはニヤッと口端を上げる。ごくりとエンナは生唾を呑んだ。
「だから、相手に精霊使いの素質が備わっていれば、目覚めさせることもできるんだ」
ということはつまり。
「オレがエンナに会った時、エンナの背中を強く叩いたのを覚えてるか? あの時、オレはエンナに自分の精霊力を注ぎ込んだ。まぁエンナは元々それなりの精霊力を持っていたから、オレが手を加えようが加えまいがそのうち覚醒してただろうけど」
でもこの時期に覚醒する切っ掛けを作ったのは自分だとスラッツは告白する。
頭の頂点から足の付け根まで、エンナは電撃が走ったような感覚に陥った。
始めからスラッツは裏切るつもりだったのだ。それも計画的な犯行。
彼はよく自分の肩を叩いてきたりしていた。今までエンナは、人懐っこいスラッツの自然なスキンシップだと思っていたが、それもきっと違っていたのだ。スラッツは力の動きがわかるようだから、もしかしたらエンナの力の動向を観察し、その後もそうやって力を注いできていたのだろう。
そして、それの行き着く先は王になるための条件。
「もしかして条件って、精霊が見えること?」
エンナの導き出した答えにスラッツは満足気に頷いた。
「覚醒した今、王族のエンナにも王位継承権が発生することになる。そうすれば前国王派は、エンナを国王にと押すことができるんだ。そして、反対する奴らと前国王派は血の流れる戦争を起こすつもりだよ。そこでアラディン国王陛下の首を取って、事が円滑に進めばエンナは晴れてこの国の女王陛下に。前国王派は地位と財産を手に入れられると同時に、この国を自分達の手で動かす力をも手に入れることができる」
「そんな……!」
あまりのことにエンナは口元を覆った。
つまりここの連中は、自分達の欲のためにエンナを人形に仕立て上げ、利用しようとしているのだ。
しかも、それにより支払われる大きな代償を全く気にも掛けていない。この国にまたあの酷い反乱を巻き起こすつもりなのか。
なんて浅はかな。
エンナは怒りに打ち震えた。
「冗談じゃないわ!」
ネグリジェの裾を翻し、足を床に踏み締めながら部屋の戸へ駆け寄る。
そんなことのために一生操られ、苦しみの中で生きていかなければならないなんて絶対に嫌……!!
しかし、ドアノブを回そうとするのだが、手だけが回ろうと押すだけでビクともしない。まさか、鍵を掛けられている?
「無駄だよエンナ。折角捕らえた獲物をそう易々とベンドールが逃がすと思うか?」
スラッツの冷たい言葉にエンナは振り向いて思い切り睨んだ。
「アンタ、アンタって男は……!! このことを知っててわたしをここへ連れてきたの……どうしてこんなことを」
「そうだなぁ、まずは金かな。協力すれば多額の報酬が貰える約束だから」
「お金って、そんなもののために」
エンナは爪が掌に食い込む程拳を握った。そんな汚いお金のために自分が売られたのかと思うと屈辱的だった。
「それはオレにとっておまけみたいなもんだけど」
「おまけ?」
「そっ、本当の目的は他にある」
口元に冷笑を浮かべスラッツは近付いてきた。
「復讐だよ」