6.先見 (3)
でも、その他は? リューリ達は精霊騎士だ。城に仕える者の中でもエリートな人達がどうしてルージュをあんなに敬って従っているのか。国一の占い師、というからルージュも城に仕え、リューリ達より身分が高いのかもしれない。が、それにしても腑に落ちない。
エンナが難しい顔をして考えに耽っていると、足下で「キュゥキュゥ」という甲高い声が聞こえる。そちらを見やると、先程の精霊が花壇から抜け出してエンナの隣にちょこんと座っていた。
花達に囲まれてわからなかったが、この精霊の耳は随分と長く、垂れ耳の兎みたいな形をしていた。尻尾は狐のようなフサフサもっふりな白い毛で覆われて、何故か先端だけ虹色だ。
益々不思議な動物の姿だったか、可愛さは満点だった。これで尻尾をふりふり振りながら首を傾げて見上げてくるんだから殺人級である。
くっ、これで触れないだなんて……!!
あまりの悔しさにエンナは拳を握り締めた。
「あぁ、こちらにいらしたのね」
エンナが口惜しさに身を焦がしていると、ローズがやってきた。彼女の側にはニコンの姿が見える。
ローズの変わらずハキハキとした態度にエンナは若干安心した。どうにもここへ来てから、ローズの元気がないような気がしていたのだ。
エンナのそんな心配には気付きもせず、ローズは彼女の近くに来ると「あら」っとあの白い精霊の姿を目にして瞬いた。
「珍しいですわね、この花の精がルージュ様以外に懐くなんて」
「花の精。この子、花の精霊なの?」
「そうですわ。この精霊はとても気難しくて、ルージュ様以外全然心を開こうとしませんの。同じ花属性のわたくしやニコンにでさえ、威嚇して近づけさせようとしませんのよ」
「そうなのそうなの!」
ニコンがローズの周りを飛び回りながら頷いている。
それは意外だった。エンナが近付いた時には、全然そのような態度を取らなかったので驚きだ。
「……まさか貴女、この花精の名を聞いたりなんてしていませんわよね?」
神妙な面持ちでローズは唐突に聞いてくる。この子の名前? とエンナは何のことかわからず首を捻った。
「そんなの聞いた覚えはないけど……」
「そう、なら良いですわ」
ローズは肩の力を抜いてほっと胸を撫で下ろした。
「あっ、そうですわ。貴女、リューリ様がお呼びですわよ」
「リューリが?」
「えぇ、これからのことをお話ししたいみたいですわ」
「わかった、今行く。それじゃあね、花の精霊さん」
エンナは立ち上がると、非常に名残惜しいが花の精霊に別れを告げる。すると、花の精霊は行かないで、と言っているみたいに尻尾を地に着け上目遣いでエンナを見た。エンナは「うっ」と詰まったが、今歩き出さないとずっとここに居座ることになりそうだ。
後ろ髪を引かれるようにエンナはローズの後を追う。
花精は一匹、立ち去っていくエンナ達の後ろ姿を見送りながら、「キュルル」と寂しそうに鳴いた。
* * *
白い花の精霊と別れた後、ローズの案内でエンナはダイニングルームへ来た。既にリューリ達は席に座っている。だが、そこにマリアベルの姿はない。彼女はルージュの側に付き添っているのだろう。
エンナ達が姿を現すと、リューリは適当に席へ座るよう二人を促した。
言われた通り、エンナはリューリの向かいの席へ、ローズは彼女の隣の席に着く。そこを見計らったかのように、アンではない侍女がエンナ達に紅茶の入ったカップを配ってしずしずと控えた。
「さて」
リューリは紅茶を一口飲んでから、話を切り出した。
「今後のことをエンナに話しておこうと思ってね。こんな風にゆっくりできるのも今の内だから」
エンナは重々しく頷いた。エンナもそれについては気になって仕方なかったのだ。追っ手から逃げ惑ってはいるが、ずっとこのまま逃亡するのは些か無理がありすぎる。彼らがどのように考えているのか確認しておく必要があった。そして自分自身にも、場合によっては覚悟を決めなければならない。
リューリはカップをソーサーに置いた。音もあまり立たないような置き方だったのに、陶器がぶつかり合う硬い音が静まりかえった部屋に響き渡ったような気がする。
「ここから出発したら、エンナを国外へ逃がす」
ぎゅっと、エンナは手を握った。
やはり、この国には止まれないのか。
「隣国のライジニアにいる僕の知り合いに匿って貰う算段になってるんだ。もし、何かあってもそこならそう簡単には手出しできないから」
ライジニアは、フェアデルフィアと友好関係を結んではいるものの、あまり仲が良いとは言えない国だ。それにはお隣同士、いざこざが絶えず、言い合いも絶え間ない故、政治家同士、国民同士もお互い好敵手視している。言わば、良くも悪くも競争相手という関係なのである。
「知り合いっていうのは?」
「クリスっていう僕とシェルの昔馴染みでね。こう言えばわかるかな。リッツェ商会会長の実子なんだ」
少し心を落ち着けようと、エンナは出された紅茶に口を付けた瞬間噴きそうになった。
「リッツェ商会って、あの大商会の!?」
「うん、あの大商会の」
爽やかな笑みを浮かべてリューリは首を縦に振った。
エンナが驚くのも無理はない。リッツェ商会と言えば、ライジニアの大手商会だ。ライジニアは勿論のこと、フェアデルフィアのみならず近隣諸国にもその名が知れ渡り、幅広く事業を展開している。
エンナはあんぐりと口を開けて愕然となった。本当にリューリ、そしてシェルは一体何者なのだ。精霊騎士とはいえ凄すぎる知り合いではないか?
いや、いやいや、精霊騎士ならば貴族や王族との交流だってあるだろうし、あり得ないことではない。きっと、多分。
「なんかこの話をしたら本人がかなり乗り気でさ。そういうことなら任せなさいって言ってくれたんだ。僕らとしても、クリスのところなら安心してエンナを預けられるんだけど」
どうかな? とリューリは聞いてくる。どうかなもそうかなもない。
「いやあの、寧ろこちらが恐れ多いんですけれども……ていうかわたしが行って迷惑かけちゃわないの、それ?」
「あぁ、大丈夫大丈夫。万が一エンナがリッツェに匿っているってのがばれても、国外な上にライジニアってのが大きな障害になるからね。それだけで手が出しにくくなる。それに、なんて言ったってあの天下のリッツェ商会。下手な手出しをすることは命取りだ。あそこを敵に回したらどうなるか、考えただけでも恐ろしい」
「そんなに?」
「うん、リッツェは自国にかなり貢献しているからね。あそこがあんなに発展して裕福な国になったのもリッツェの力が大きい。だから、ライジニア王家もリッツェ家をかなり気に入っているんだ。もしリッツェ家に何かあって、それが王家に伝わったらライジニアの国王陛下、怒るだろうな〜。それじゃなくても王家云々以前に外交問題に発展することは必至だろうね」
そこで一旦紅茶を飲んで喉を潤すと、リューリはそれにと話を続けた。
リッツェはかなりの情報通のようで、それこそ色んな話を知っているらしい。国内外の情勢に関わらず、取引先の内輪話に王族貴族連中の黒い裏話まで色々と。エンナ達を追っている先方の、それこそ外には知られたくない情報をリッツェ家が掴んでいるという可能性もなくはないだろう。
「そ、そうなの……?」
リッツェ家のあまりの大物っぷりにエンナは思わず聞き返してしまった。
「うん。そりゃ、色んな国を股に掛けちゃってるから当たり前なことに違いないけど、流石にお客さんの個人情報までは知る由もないでしょ? でも、彼らは何処から仕入れてくるんだか、掴んでいるんだよね〜。だからまぁ、僕達の国だって例外じゃないよ」
何そのヤバそうな組織。
エンナは一抹の不安を覚えて身体を震わせた。
「あぁ、そんなに怖がらなくても平気だよ。今の話だけだとかなり危ないところに聞こえるかもしれないけど、単純に人望が熱いだけだから」
「嘘。だってなんかすんごい真っ黒な何かが渦巻いてそうじゃない」
「それは否定しないけど。彼らは商業を営んでいるわけだし、そういうこともなくはないよ」
エンナは益々怯えて固まってしまう。エンナの震え上がる様子にリューリは可笑しそうに笑った。
「本当、そんなに怖がる必要ないって。リッツェ家の当主は気持ちの良い程快活なお人だ。その嫡子であるクリスとクレスも良い奴だよ。それは保証する。決してエンナを悪いようにはしないさ。まぁ、クリスはちょっとばかり問題あるかもしれないけど、面白くて楽しいよ」
涼しい顔で言ってくれるリューリ。エンナは思わず頭を抱えた。
ちょっとばかり問題があるって、どんな問題を抱えているというのだ。全然何処も楽しくない。大問題過ぎる。
「あぁもうなんでわたし、こんな大変なことに巻き込まれてるのよ〜」
「あはは、それは仕方ない。そもそもこれはエンナの問題だから、エンナが中心、全てエンナに繋がっているのは必然だよ」
エンナは恨めしさのあまりキッとリューリを睨んだ。が、それもすぐに萎んでしまい、諦めに似た深い溜め息をついた。
リューリにそんなことをしたって意味がないし、それで彼が心苦しく感じることなんて絶対にないと思うからだ。
案の定、リューリに目を向けると、彼は何にも悪びれた風もなく口元を綻ばせている。どう見たってこの状況を楽しんでいるようにしか見えない。シェルに色々と悪態をついてしまったエンナだったが、リューリを目の前にすると真摯に受け止めてくれた彼の方が幾分かマシだったかもしれないとさえ思った。
「そんなわけで、ここから出たらまずリッツェ商会の拠点があるイリコットへ向かう。イリコット支店からライジニアへ向けて定期的に出ている荷馬車があるんだけど、それに同伴させて貰って、ライジニアへ向かう手筈になってるんだ」
「成る程ね、段取りはわかったわ。でもイリコットに入出するためには関所を通らないといけないでしょ? その辺り心配なんだけど」
「それについては僕らに考えがある。リッツェ商会も惜しみなく協力してくれるだろうから心配はいらないよ」
そこまで聞いて、エンナはまた溜め息をつきそうになった。リッツェ商会がかなり凄いところであると知ってはいたが、まさかここまでやっちゃうような組織とはてんで思いもよらなかった。
「まっ、今後の予定はこんな感じだよ。明日は日が昇らないうちにここを出発するから、エンナもそのつもりでいてね」
エンナは少し気怠さを感じて、生返事と捉えかねない返事を返した。
話を聞いただけなのにどっと疲れを感じる。
今後のことを憂えて、ついにエンナは溜め息をついたのだった。
* * *
日は沈んだが、明日のこともありまだ寝るには随分と早い時刻にエンナは就寝することにした。
なのだが。
「眠れない」
寝るには時間が早かったというのもある。しかし寝床に入ってから数時間、もう寝ていても可笑しくないのにエンナは眠れずにいた。明日のこと、それ以降のことが不安で眠れないのか、それとも興奮が冷め止まぬのか、よくわからない。
エンナは水を飲もうと寝床から起き出して、ナイトテーブルに設置されている魔法道具の一種、ベッドランプに光を灯した。そして、ベッドランプのすぐ側にある水の入った水差しからカップに水を注いで飲んだ。喉を水が通って少し安堵に息をつく。
そこでエンナはふと逃亡一日目の夜のことを思い出した。あの不安の最中にいた時に聞こえた声。誰かに似ている気がしてならないのだ。
答えが喉元まで迫り上がっているのにそこから抜け出せない。
最近、何処かで聞いたのだ。しかし、それがどうも思い出せない。コップを棚の上へ戻すと、エンナはベッドの上で胡座をかき、うーんと唸って腕を組んだ。
丁度その時、遠慮がちにドアが数回叩かれた。
「エンナお姉様。まだ起きていますか……?」
ドア越しに尋ねてくるソプラノの声は、ルージュのものに相違ない。
「ルージュ?」
どうしてこんな夜遅くに? もう身体は大丈夫なのだろうか?
エンナは急いでドアに近付いて開くと、思った通りネグリジェ姿のルージュがそこにいた。ルージュは申し訳なさそうに眉を下げて、エンナの様子を上目遣いで伺っている。
「お姉様、こんな夜更けにすみません」
「そんなこと別に良いわ。それよりルージュの方は大丈夫なの?」
「はい、大丈夫です。ご心配をおかけしてしまってすみません」
更に申し訳なさそうに縮こまるルージュの顔色は、薄暗くて判断できないがその雰囲気からあまりよくないような印象を受ける。まだ、本調子ではないだろうにどうしたというのだろう。
エンナはルージュの体調が心配になって、兎に角中へ入るよう促すと二人でベッドの縁に座った。
「駄目じゃない、倒れたのにこんな時間に出歩くなんて」
エンナは開口一番に窘めると、ルージュはしゅんとなってすみませんと呟いた。
「てか、マリアベルさん達は……」
「こっそり抜け出して来ちゃいました」
ぼそぼそと言うルージュにエンナは思わず額を押さえそうになった。内緒でここまで来てしまったのかこの子は。マリアベル達も随分心配していたのに、こんなことされてはたまったものではない。
「なんでそんなことしたの?」
とはいえ、ルージュがそれをわからないわけがないだろうし、軽はずみな行動はしないと思うのだ。きっと彼女なりの理由があるに違いない。
エンナは極力優しい声音で尋ねた。
「それは、その……」
ルージュは顔を俯かせたままもじもじと身動いだ。
「エンナお姉様と、一緒に寝たく、て……」
訥々と告げるルージュは、顔を上げられずもっと頭が垂れてしまう。エンナは「へ?」と気の抜けた声を発して目が点になった。
つまり、ルージュは自分と寝たいがために体調が優れないのを押し、マリアベル達に内緒でここまで来てしまったというのか?
なんとも幼い子供らしい考えというか、なんというか。
エンナは何だか可笑しくなってしまって、思わずぷっと吹き出してしまった。笑い事ではないのはわかっている。きっとここは怒るところなのだ。でも、それがとても微笑ましくて仕方ない。それに、たったそれだけのためにここへ来てくれたことが何だかくすぐったくて嬉しかった。
エンナがくすくす笑っていると、ルージュはやっと顔を上げる。多分、彼女は相当これを言うのが恥ずかしかったのだろう。暗くてよく見えないが、顔は相当真っ赤に違いない。
「わ、笑わないで下さい……!」
ルージュは少し拗ねたように訴えた。しかし、それが返ってエンナの笑いのツボを刺激してしまう。先程よりも肩を揺らして笑うエンナに、ルージュはついに両頬を膨らましてそっぽを向いてしまった。
「そんなに笑うだなんて酷いです」
「ごめっ、だって可笑しくて」
流石にこれ以上は不味いと思い、エンナは必死に笑いを収めようとした。
なんだろう。こんな風に笑ったのは久し振りな気がする。あの人身売買の裏組織に捕らわれて、逃亡してからまだ数日しか経っていないのに、お腹を抱える程笑うのは随分と昔のように感じられた。
「いいよ一緒に寝ても」
一頻り笑った後、目尻に溜まった涙を指で拭いながら返答を返した。教会にいた時もまだ小さい義兄弟達とよく一緒に寝ていたし、別に添い寝くらいどうってことはない。
ルージュは勢いよく顔を上げてエンナの方へ向いた。さっきまでふて腐れていたのに、エンナの一言で吹き飛んだようだ。拗ねた様子は微塵もなく、目をキラキラと輝かせている。
「本当ですか?」
「うん、勿論」
ルージュは、それはもう嬉しそうに笑った。まさにこちらが天に昇ってしまうような笑顔である。
ルージュが血の繋がった自分の妹という実感はまだ湧いていないが、もし本当にそうだとしたら、こんなに嬉しいことはないと思った。
でも、実感が湧く前にルージュとはこれで最後になるかもしれない。
エンナはこれから国外へ逃げるのだ。簡単に会うことはできない。いや、会うことすら一生叶わないだろう。
だからその前に、自分には血縁者がいて、それも可愛い妹がいるということを早く実感したかった。それを強く心に留めておきたかった。孤児にとってしてみれば、血の繋がった親戚がいるということがわかっただけでも幸せなことなのだ。
なのに、エンナは妹がいるということがわかった。それだけではない。こうして手を伸ばせば触れられるところにいて、この子がどういった子なのかほんの少しでも知ることができた。これ程までに幸運に恵まれるなんて、自分は幸せ者だとエンナは信じもしない神様に思わず感謝したくなる。
面識もないのにエンナの命を助けてくれたルージュ。
話したこともないのに自分を姉と慕ってくれるルージュ。
泣きたくなった。
そう思ったら無性に大声を上げて泣き出したくなった。
途端に涙腺に熱が帯び始めてくる。
エンナは咄嗟に泣きそうな顔を見られまいと手で顔を覆った。
「エンナお姉様?」
それを不審がって、ルージュが心配そうに声を掛けてくる。
「ごめん、なんでもないから。気にしないで」
心配かけまいと言ったエンナの声は寂しさと哀しさで震えていた。
あぁ……
折角、折角自分にはこんなに可愛い妹がいるとわかったのに、明日になればもうさよならだなんて嫌だ。色んな話をして、色んなことをして、本当はもっともっと一緒にいたい。血縁者がいるということがわかっただけでも幸運なのに、なんて我が儘なんだろう。頭ではわかっていても、心が願って止まなかった。
「大丈夫、大丈夫ですから……」
ルージュはそっとエンナを抱き締めた。エンナの不安も哀しみも、優しく包み込むように。
ルージュの温かさが伝わってきて、余計に激情の渦が目から雫となって流れ出そうになる。ぐっと堪え頑張って耐えようと努めたが、一粒二粒、エンナの頬を涙が伝った。
エンナはぎゅっとルージュの小さな肩を抱いた。そこでふと、心が哀哭に暮れている片隅で気付く。
逃亡一日目の夜に慰めてくれた声。
あれはきっとルージュだったのだ。どういう原理で聞こえたのかはわからないが、魔法の一種だったのだとしたら納得できる。あの時の声音も、抑揚も、ルージュのものと一致するのだ。間違いないだろう。
エンナは感謝の気持ちで一杯になった。言っても言い尽くせない程だ。ずっと自分のことを心配してくれていたのかと思うと、胸に熱いものが込み上げてきて、それが更なる涙へと変わりそうになる。
「ありがとう」
エンナは溢れ出しそうな気持ちを必死に抑えるように、ただ一言、言葉として吐き出した。ルージュへの感謝の思いをそこに全て乗せるように。