異世界転移からの人質ライフ
私___天野 恵は10歳の頃、異世界に飛ばされた。別に猫を助けようとして道路に飛び出したわけでもなく、トラックに追突されたわけでもなく、夏の暑すぎる午後に限界を訴えていた膀胱をどうにかしようと最後の手段として公園のトイレに入った…ただそれだけだった。くっさいトイレに入る勇気を出しただけだったのだ。ただそれだけのことだったはずだったのに、トイレから出てみるとそこは異世界だった。慌ててトイレに戻ろうとしても、そこにトイレはおろかドアすらもすでになく、あるのは明け方のすんだ空気だけだった。
私が突然来てしまったその場所は、冷静に見まわしてみると時代劇でよく見るような景色だったから、最初はテレビ局かなにかのドッキリに巻き込まれたのかと思いしばらくじっと待ってみたりもした。でも、いつまでたっても「ドッキリ大成功!」と書かれた看板を持つ人間は現れず、明け方とは言えまだまだ暗い空と夏であったはずの東京にはありえない肌寒さに心細さがMaxに達した私は、「もう10歳だから大人だもん」と叫ぶ思春期のプライドを投げ捨て号泣した。
子供の泣き声というのは古今東西どこでも響くらしく、明け方にも関わらずわらわらと集まった島民たちはやっぱりなぜか時代劇で見るような恰好をしていて、さらにパニックになった私はまた泣いた。
明らかに不審な子供だったはずの私だが、彼らは必死であやし慰めてくれた。優しい声で「怖くないよ」といいながらみかんをくれたり、人形をくれたり。
そんな彼らの献身によって冷静さ…は取り戻せなかったが、なんとか涙だけは止めた私は、彼らからどこから来たのかと尋ねられ、小さな声で日本と答えると周りの人はどよめきつつもなぜか「やはり…」という反応をした。
その後、私は現在は第二の祖母として慕っているこの国の巫女・痲臥日のもとへと預けられた。巫女というと聞こえはいいが、悪いことすると箒持って追いかけてくる系の普通のばあちゃんなので期待はしないでほしい。彼女の元で私は…まぁ色々あったがそれなりに楽しく暮らした。そして、この世界のこと、この国のことを少しずつではあるが理解していった。
まず、この世界のこと。
この世界は正真正銘の「ものがたりの世界」で、世界中のありとあらゆる物語の登場人物が平然と闊歩してるような場所だった。…ただし、どの物語もバッドエンドで終了する悪夢のような世界。どこの国も悪逆非道の王によって支配され、悪役どもが悪役であるというだけで特権を持ち好き勝手する最高のディストピア。
正直どれも私にはよくわからなかった。私が暮らしているこの国には悪役なんているように思えなかったし、みんな平和に暮らしていてむしろここは万人の想像する理想郷に見えた。実際、これは私にとっては理解する必要もないことだった。___少し前までは。
そして、この国のこと。
この国はワークや幸福の島と呼ばれる、私がこの国に抱いた感想通り理想郷と呼ばれる場所だった。どこかの物語に出てくる小さな島で、その小ささとあくまで「伝説」としての扱いのために、悪役も主人公もこの美しい島にはいなかった。伝説の島にありがちな設定どおり、黄金やら黒檀がたくさんとれるとても豊かで美しい国だ。
そしてこの島国ワークは代々同じ家の巫女が長として君臨する国だ。長とは言うが、小さな国ゆえ巫女と国民の距離はかなり近く…なんというか「困ったときに頼れる人」のような感じだ。実際、私の育ての親であり巫女であった痲臥庇も村の長老みたいな感じと言えるだろう。
ここでアレ?と思った人もいるかもしれない。なぜ、怪しげなガキを国のトップになど預けたのか、と。答えは簡単で「過去にもこの国にはニホンから来たという人物がいて、その人物の子孫が巫女だから」だ。昔ここに突然現れたその人物はこの国に言語、技術などの様々なものをこの国にもたらした。ゆえに、この国では日本語が使われ、日本のような建築物があり、日本のようなものに溢れ、日本から来たという怪しげな人物を大事に保護する。これまでその人物以外にも日本人が来たらしいが、この国に多かれ少なかれ恩恵をもたらしたらしい。ま、私には…なにもできなかったけど。
この美しい理想郷は、これまでとても…とてもとても幸運なことにどこの悪党にも支配されたことはなかった。なかったのだ。でも、日常はいつだって案外簡単に破壊される。
明るい朝だった。
あの朝から、その朝日の美しい国は永久の闇に包まれた。太陽の女神を信仰していた太陽の国は夜の王の支配下に堕ちたのだ。抵抗はもちろんした。だが、彼の国の圧倒的な力の前ではそれはほぼ無力だったと言えよう。
国が支配された直後、私は村の長たる巫女の娘として夜の国の人質になった。夜の国の者たちに私が連れ去られる前、メガヒは私を一度強く抱きしめて額にキスをして小さく囁いた。
「太陽のご加護があなたにありますように。」
…と。
そして、メガヒの額にあった太陽のような光り輝く紋様があの時から私の額にひっついた。
それから…夜の国に行ってからは毎日が地獄だった。夜の王は躾と称して私を嬲り、私の体と心をめちゃくちゃにした。
夜の王__彼は…彼は間違いなく悪役であった。彼に悪意がなくとも彼は悪だった。彼の下で、私は悪役がどういった存在で、この世界が一体どういうものなのか…初めて言葉としてではなく、現実のこととして受け止めた。彼の下で暮らした日々は私に現実を教える素晴らしい教師となったが、いい思い出とは口が裂けても言えないだろう。
思い出、そう、思い出といった。つまり、これは全部過去のことだ。つい1週間前までそうだったとしても、過去のことであるのは間違いない。
とはいっても、私が人質生活から解放されたわけではない。人生1度あることは2度あるらしく、私は現在夜の国とはまた別の国に人質として保護されている。詳しいことはよくわからないが、夜の王はこの国の王との戦争に負けて、この国に私と私たちの島を差し出すことになったらしい。
そして人質とはいえ、私は一応一国の主の娘(と、いうことになっている)ので私はこの国の王に謁見する権利があるらしく、現在私は「この国のあまりの眩さに目がくらむから」と緑の眼鏡を強制的につけさせられ、王から合図とやらが来るまで玉座の間の外で待たされている。当然だが、私は王様に会いたいなんて言った覚えはないので、これはこの国が企画したおままごとだ。それにしてもこの国の人々はみんな眼鏡をかけているが、王様は眼鏡フェチかなにかなのだろうか。彼らが言う通り、眩すぎて目がくらむからなんていうのはあまりにも非現実的すぎるし。
カラン、カラン
私を見て物珍しそうにコソコソと話すこの国の貴族らしき人々(全員眼鏡)にいい加減うんざりとし始めた頃、鐘の音が響いた。
「どうぞ、玉座の間へ。我らが主が呼んでいます。」
私の横に立っていた使用人の少女(この子も眼鏡)が小さなドアを開けたので、投げやりな気分でそこを通る。通った後に少女もついてくると思ってドアを押さえておいたが、なぜか少女はなかなかやってこない。
「…来ないんですか?」
「はい。謁見はあなた様しか許されておりませんので。」
「はぁ…?」
気の抜けた返答をすると、私が納得したと判断したのか、さっさと行けということなのか、扉はパタンと閉められた。
よくよく見てみるとこの部屋には騎士などの姿は見えない。いや、それどころか私以外の人間が見つけられない。警備ががばがば過ぎやしないだろうか。私が王を殺そうとしたらどうなるんだろう。わからないが、なんだかイケる気がする。
『こちらに来い、太陽の巫女よ。』
私がぼんやりと突っ立っていると地から湧き出るような声が響く。
巫女はおそらく私だと思う。が、こちらとは言うが、こちらとはいったいどこなのだろうか。残念ながら、この部屋に私以外の人間は見つけられない。
仕方ないので、一番なにかが居そうな玉座の方へと足を進める。現在私の目には見えないが、もしかしたら蟻レベルのサイズのなにかが玉座にいるのかもしれない。蟻が王なんて!と思うかもしれないが、このおとぎの世界だったらありえない話ではない。蟻のサイズでこんなでかい声をだそうとしたら、肺の膨らみで体が爆発しそうな気がしなくもないが。
『よろしい。我こそはこの国の支配者にして魔法使いの長、オズだ。』
どうやら玉座であっていたらしい。
だが、王様は本当に見つからない。もしや王はダニか?まぁ、ダニだろうがなんだろうが私は彼に挨拶をしなきゃいけないし、彼に傅くことは決まっているけれど。
「お目にかかれて光栄です、陛下。私はワークの国の巫女の娘のメグミ・ヒノです。どうぞよろしくお願いします。」
日本での苗字は「天野」だったが、こっちに来てからはずっと巫女の一族の苗字である「日之」を名乗っている。苗字が奇跡的に「ノ」で終わるという共通点があると痲臥庇に報告したが、「どうでもいい」と一刀両断されたのはいい思い出だ。
__本当に、帰りたいな。
『うむ。__して、そなたは___
王様はつらつらとなにかを語っているが、ふと、私は見覚えのあるものを玉座の陰に発見してしまった。
「…スピーカー?」
私の呟きに王様の声は、ピタリと止まった。
緑の眼鏡のせいでよくわからないが、おそらくアレはスピーカーだ。または謎に網目のある独特すぎる家具。とりあえずスピーカーと仮定すると、この世界にあの形状のスピーカーがあるのは少し違和感がある。夜の王にこの世界のありとあらゆる場所へと散々連れまわされたが、現代日本で使われていたようなスピーカーを見たことはない。同じような用途のものであっても、もっと違う見た目をしていた。
『…よく知ってるね。』
王の口調と雰囲気が…いや、それどころか声が変わった。これまでのおどろおどろしい化け物のような声ではなく、張りのある若い青年の声に。
『もしかして君って___
時が止まったのではないかと思うほどの静けさが一瞬あたりを包み込む。今すぐ踊りだしてしまいたいような、今すぐ泣き出したいようななんとも言えない緊張感。
きっと、きっと彼は…
『__異世界人?』
予想通りであったような、想定外すぎたようなその言葉に、私はまるで赤べこのように必死で首を振りながら、乾いた唇でその言葉を肯定する。
『本当かい!?初めて会った!!ちょっとそこで待っててね!!』
ドクドクと早くなる心臓の脈を押さえつける。彼は、おそらく。いや、たぶん。きっと。いや、でも期待はしないに限る。もしかしたら、ちょっとそういう情報に詳しいだけの人かもしれない。いや、それはそれで嬉しい。
「えっと…うーん、さっきまで一応話してはいたけど__初めまして。俺はオズ。よろしく」
横にスライドした玉座の下から出てきた青年はサングラスをその顔に装着しながら、爽やかな笑顔で私に握手を求めてきた。
はやる心臓をなだめながらその手を握ると、彼はぎゅっと私の手を強く握って「会えて本当にうれしいよ」とその精悍な顔に満面の笑みを浮かべる。
「あの、その…
「うん!たぶん君が想像している通り俺も異世界人さ!5年ぐらい前にこっちの世界に来たんだけど、なんかいつの間にか王様とかやってるよ。まいっちゃうね!」
「は、はぁ…。すごいですね…。」
「まぁね!ところで君は___
初めて出会った異世界人は__とんでもなく押しの強い人だった。
+ + + +
オズを名乗る押しの強すぎる異世界人の彼は宇宙人だった。
冗談とかではない。本当だ。彼は私にまず「どこの星出身?」と尋ねてきたのだから。もちろん私はほかの答えがあるのかと思いつつ「地球」と答えた。すると彼は大変驚いていたので、なにをそんなに驚いているのかと問うと、彼が存在していた時代には地球の生命体はもう存在していないはず…らしい。
だったら彼はなぜスピーカーを持っているのか?これに関しては、彼は亡星である地球の熱心なファンで地球の遺物を集めたり、自分で作ることが好きだからというのがアンサーだ。だから彼は地球の話をとても聞きたがった。
まぁ、これらのことからオズと私は「同じ世界線から来てはいるが、時代などもろもろのことがズレているのではないか」という結論にいたった。
彼__オズは金髪に緑の瞳といういかにも西洋人な特徴をもっていたが、やっぱり私たち地球人とはだいぶ体の構造とか、常識とかが違った。
というのも、彼は全身がサイボーク化している。これが生まれつきなのか、それとも後天的なものなのかは地球人たる私にはちょっとよくわからないが、彼は全身に埋め込まれた(?)機械やら工具やらを自らの手足のように使う。ちなみにこの言葉は比喩ではない。彼の手は用途に応じて変形する。不思議な光に包まれて…という感じではなく、先ほどまで普通の肌だったはずのものに升目のような切れ目が入り、ぐるんと金属質のなにかに入れ替わりその後様々な工具に再編されていく…という感じだ。正直ちょっとグロかった。また、彼が常に身に着けている緑の眼鏡は超高性能なスーパーサングラスで、色々機能を紹介してもらったが私にはよくわからなかった。小学生みたいな感想だが、ズームができるのは便利だなと思った。ついでに言うと、国民全員に緑の眼鏡をかけさせているのは、やっぱり国が眩すぎるからではなく彼が眼鏡フェチだかららしい。変態め。もちろん、彼が使っているテクノロジーの数々を魔法として誤魔化すためという実用的な理由もあるらしいが。
まぁ、つまり偉大なる魔法使いは魔法など一切使えず、むしろその逆の科学の申し子のような存在だったというわけだ。
「おはよう!!」
「どうも」
そして、そんな彼は私をまるで友人のように扱う。
「ちょっと君!また眼鏡はずしてる!何度もダメだっていってるよね?」
「別にいいじゃないですか。本当に全てが輝いているわけでもないんだし」
「いーや、ダメだね!」
「なんでですか?」
「いつ他の人が来るのかもわからないんだから、この国のルールは守ってもらわないと」
「本音は?」
「眼鏡ってよくない?」
「そんな好きだったらあなたが眼鏡と結婚でもすればいいじゃないですか」
そう眼鏡を指さしながら言えば、オズはむ~っ!と頬を膨らませる。
大変良くしてもらっている中で申し訳ないとは思うが、私は眼鏡の着用をしばしば拒否させていただいている。だって、別に目が悪いわけでもないのに眼鏡って邪魔じゃない?人前に出るときには一応ちゃんとつけてあげているのだから許してほしい。
「というか、朝からなんの用ですか?」
私が普段生活している所はオズの城から少し離れた森の中にある。なので、朝からここにわざわざ来るのはそれなりの理由があるのではないだろうか。まぁ、彼はしょっちゅうここに来るので、城からここまでの距離なんざ気にしていないのかもだが…。
本来、王族の留学生(という名の人質)は城の中で暮らすのが通例らしいのだが、私の「城か…人いっぱいいてめんどいな…」という呟きの結果、オズの一声で私はここで暮らすことになった。私にだけそんな特例を許していいのか、という私の問いにオズは「友達なんだから当然だろ!」と明るい笑顔でサムズアップを返してくれた。友達って便利だね。
「ああ、大した理由はなくて。ちょっと一緒に森の中を歩きたいなって!」
「えっ…」
「なんだい?その嫌そうな顔は?」
しっかりと筋肉のついた腕が伸びてきて私の両頬をつねる。
嫌そうな顔というか、実際私は嫌だ。なにが悲しくて朝から森の散歩をしなければならないのだろう。そういった趣味は定年後に始めるから今はまだ許してほしい。あ、でもオズは確か247歳だと言っていたし、本来はもう定年している感じなのかもしれない。異世界でのダイナミック再就職、お疲れっす。
「…だめ?」
「別に…いいですけど」
一緒に行くからその顔はやめてほしい。その、なんていうの?捨てられた子犬みたいな顔。
「イェーイ!!!」
「急に元気になりましたね!?」
さっきの子犬のクゥーン的なアレは演技だったのか!?
「騙される方が悪いのさ☆」
「この野郎!」
私の憎しみの視線をにっこりと明るい笑顔で受け止めた彼は、眼鏡を半ば投げつけるように私に装着させると、私の最近ちょっぴりぜい肉が気になるようになった二の腕を鷲掴みにしてズルズルとそのまま家から引きずり出した。
「あ゛あ゛…とける…」
「太陽の巫女なのに…。ちょっとは健康のためにも外に出るべきだよ」
「太陽の巫女って言ったって名前だけですよ…。ドイツ村だってドイツじゃないどころか、東京ですらないじゃないですか…。それみたいなものですよ」
「ドイツ?それって地球にあった地域の名前じゃなかった?」
「あ~なんでもないです」
ああ、よくないよくない。うっかり誰にも伝わらない話をしてしまった。ドイツを知ってるのは驚きだけど、まぁ地球オタクの彼だからこそだろう。ただこの話は例えドイツを知っていてもややこしい話なのだ。聞かなかったことにしてほしい。
もちろん、そんな願いがKわ…ごほんごほん…ちょっぴり自我が強めのオズくんに届くわけはなく、オズのドイツ村に対する執拗な質問攻撃は永遠と続いた。
これならもはや部屋で話しているのと変わらないレベルで森を一切見ずにただ喋りまくって歩いていた私たちだったが、そんなお喋りはオズの沈黙で突然終了した。私の腕を突然掴んで足までも止める。いきなり後ろに引っ張られてつんのめった私は文句を言おうと振り向いたが、オズの真剣な瞳と「しーっ」と口に添えられた一本指によって口を閉じた。
「いる…」
小さくつぶやいたオズに「なにが?」と私が問うまでもなくその答えは出現した。
シャーッと威嚇するような音とズルズルと重い体を引きずるような音…それは不気味な細長い巨体に暗闇をひきつれ私たちのすぐ前に現れた。
その体長はおよそ20m…明らかにこんな森にいていいものじゃないし、蛇のサイズではない。黒い霧を纏いながら不気味にその巨体をうねらせる巨大な蛇らしきものは、残念ながらどうやらとっくのとうに私をロックオンしていたらしく、その真っ黒な瞳でこちらを睨みつけ威嚇していた。
「お、オズ…」
思わず助けを求めるように名前を呼んだ私に、彼は大蛇から目を離さないまま、安心させるように私の肩をポンポンと優しく二回叩くと「ちょっと離れててね」と言って私を後ろに下がらせた。
…彼がなにをするつもりかは知らないが、私が彼より前に立っていてなにかの役にたつことは億に一つもないだろう。
「大丈夫、君のことは俺が守るから。すぐ終わらせるよ」
彼がグーの形にした左手を突き出し右手でそれを支える何かの構えのようなポーズをする。ギュイーンと何かを吸い込んでいくような音が響き、その音が段々大きくなっていくと同時に謎の輝きが彼の左腕に集まっていく。
「じゃあね☆」
語尾についた星が宙に浮かんだ瞬間、それは真っ赤な炎と爆風とともに発射されオズの身体はズザーッと私の方まで下がってくる。咄嗟にその背中を支えるが問題はそんなことではない。
「う、うで~~!!!?」
そう、オズの左腕が爆発とともにミサイルのように大蛇に向かって吹っ飛んでいった。オズの左腕は火を噴きながら真っすぐと蛇に向かっていくと、その体のど真ん中に風穴を開けてそのままどこかへと吹っ飛んでいく。もちろん、大蛇は天変地異を思わせるような轟音を立てながらその強大な体を地に伏した。
「う、うで????」
「腕☆」
振り向いた彼はなぜか自信満々な笑顔でウィンクとかしちゃいながら、こちらに向けて無事な右腕でサムズアップしてくる。いや、その腕が私に向かって吹っ飛んできたりしないよな???そんなことされたら普通に死ぬからな?
「ェ…左腕、生えてくる…?」
「生えてこないと思うけど」
「え…???」
「常識的に考えて腕って普通生えてくるものなのかい?」
いや、常識的に考えれば腕はミサイルみたいに飛んでいかないと思うが。いや、生えてこないとしたら、左腕を吹っ飛ばしてなぜ平然としていられるんだ…?
「え、どうするの…?」
「どうするたって、
見覚えのある大きな影がぬっとオズの後ろから私たちを包んだ。まずい、大蛇はまだ、
「オ、
ズドーン!!!!!
なにかが大蛇の頭を後ろから粉砕すると、そのなにかは私たちの間に落ちてきて、当然のようにオズの左肩に装着された。
そしてそれはまた腕だった。
「…腕???」
「腕」
「え、腕って意思あるんですか?」
「常識的に考えてないと思うけど、さっきから君はどうしちゃったんだい?」
これは私がおかしいのか??腕ってしばらくしたら自動で戻ってくるものなのか?自分の常識がわからない。この世界に来てから魔法は実在するし、おとぎ話の世界だしでどんどんと追加される新常識に日々呆然とする日々だったが、何度経験しても新常識にはなれない。いや、こういう時は「そういうものなんだ」とあるがままを受け止めることが大事だ。難しいことは考えずにそういうものなんだと思おう。オズの腕は吹っ飛ぶしミサイルになるし、自分で戻ってくる…そういうものなんだ。
「あ…うん、えっと…とにかくありがとうございました」
「なんてことないよ。それより君は大丈夫?」
「え?…ああ、全然大丈夫ですよ」
「へぇ~~!やっぱ君はすごいね」
「いや、あなたの方がすごいと思いますけど…」
嫌味か?嫌味なのか?なんにもせずに人にだけ戦わせてよく平気でいられるな?みたいな?…まぁ、オズなのでおそらく違うと思うが…。普通にこれは「怖がらなくて偉いね!」みたいな素直なお褒めのお言葉なのだろう。こっちとしてはわけがわからないが。
「それにしても…気づいたかい?」
「腕の秘密に?」
「さっきから君やたら腕にこだわるね」
「あれで気にならない人はあんまりいないと思いますけど…」
宇宙人界では腕が吹っ飛ぶのが常識なのだろうか?オズがサイボーグ(っぽいなにか)であることは知っていたが、まさかあんな離れ業ができるとは思わなかった。せいぜい日曜大工めちゃ楽だわ~~!程度だと思っていた。今回のこれは完全にロボットバトル世界の技だ。
「そうじゃなくてさ、ほら…さっきのヘビ」
オズの指の先を見れば、先ほどの大蛇はどす黒い霧となり徐々に木の陰に溶けていっていた。
「逃げられてるっぽいですけど大丈夫ですかね?」
「もともと実体なんかあってないようなものだし、大したことじゃないよ」
「へぇ~」
よくわからないけど、オズがいいって言ってるからいいのだろう。私には残念ながらムズカシイことはよくわからない。さきほども言った通り、「そういうものなんだ」と受け止めよう。
「…え、だから、気づいてるよね?」
「マジでわからないです」
「え、本気?」
「本気と書いてマジと読みます」
「えぇ…」
なんだよその馬鹿を見る視線。私は本気の本気でわからないのだ。デカい蛇がいた、オズがロケットパンチした、蛇が陰に帰っていく…それだけのことじゃないか。一体私になにに気づけというのだ。あの蛇が誰かに仕組まれたものだとでも…
ふとフラッシュバックした闇にドクリ、心臓が冷たさに包まれる。
冷たい指先、冷たい頬、冷たい唇…どこもかしこもが冷たくてまるで人間味のない体。美しい氷のような邪悪。愛、憎悪、愛玩、暴力、冷徹、混濁、無情、執着…私のオカアサマ。いや、もうあの人はただの赤の他人だ。本来は憎むべきなのだろうが、そんな繋がりすら持っていたくない道端にある吐瀉物のような他人。
「…夜の王の仕業だとでも?」
「それ以外のなにがあると思うんだい?」
「なぜ今更こちらに関わりを持ってこようとするのかがわかりません」
たしかに夜の王が闇を自由に操れるのは知っている。だが、だからといって、それを今の私たちに仕掛けてくる意味がわからない。オズに対してなら負けたことへの復讐だとわかるが、あの蛇は…おそらくだが私を狙っていた。ずっと視線をこちらに向けていた。さっさと手放し敵国に売っぱらった敗戦国の巫女ごときに今更何の用だというのだ。
「そりゃあ、君には特別な力があるんだからね」
「…なんですか、それ?」
私の至極当然な疑問に、オズははたと口を閉ざした。その顔には「やってしまった」とありありと浮かんでいて、ああきっとこれは彼にとって知ってほしくなかったことなのだろうなぁと他人事のように思う。
しばしの沈黙のあと、オズは観念したのか「…そのおでこの紋様」といかにも渋々といった感じで口にした。「これですか?」と額で輝く太陽のような謎の紋様を指させば、「そう」と投げやりにうなずく。
…そういえば、夜の王はこの紋様が好きだった。彼はふとした瞬間に私のこの額の紋様に触れるのだが、彼の冷たく真っ白な細い指先が私の額をなぞる度、いつかその指が額を貫ぬくのではないかと戦々恐々としていた。
「それを持つ人間は…」
「人間は?」
「…ごめん、やっぱり言えない」
悪いとは思うけど…とオズは口を閉ざした。
「…そうですか。まぁ、言えないんだったら仕方ないですよ」
その力を使って好き勝手されても困るのだろう。私が私の利益のために動いているように、彼は彼の利益になるように動いてるのだ。
「…問い詰めないの?」
「問い詰めたら教えてくれるんですか?」
「それは…」
無理だけど…と口ごもるオズ。だったらなんで聞いたんだ。
「それに…私のことはあなたが守ってくれるんですよね?」
言葉を紡ぎながら、自分の発する声に媚びが紛れ込んでいることに気づき、口の端がゆるく自嘲の形に持ち上がる。
オズはそんな私を訝し気に見つめながらも「もちろん」とその首を縦に振る。
「だったらもういいんです。私はもうここから動くつもりなんかないですし、別に今更特別な力とかどうでもいいです」
元の世界に戻るのは…きっともう無理だろう。ワークに戻るのもきっと難しい。夜の国にいた頃よりは可能性はあるかもしれないが、オズだって優しいけど甘い人間ではない。戻れるとしてもきっとそれはメガヒが死にそうな時とかだ。
だったら、もうここでいい。ここであれば、夜の国みたいに日々怯えて過ごす必要もない。元の世界を知る人間だっている。ここにはそれなりの幸せと安定があるから…もうこれでいいのだ。
「そりゃあ、俺としては都合がいいけどね…」
そう呟きつつも、納得できませんと顔には描いてある。
まぁ、普通に考えて、「守るよ」なんて軽い口約束をそんなあっさり信じるのか?という話だろう。私の人生はオズの一声で一瞬で変わる。今はその言葉が本気だとしても、私がオズのことをハゲなんて言った暁にはどっか別の国にオサラバかもしれない。その可能性があるのに、自分の能力を知ろうとしないのはリスクでしかないだろう。でも…まぁ、
「信じていますから」
オズの体がかちりと固まった。
「…えっと、なにを?」
「あなたのことを」
もう一度オズは硬直した。
しばらくして彼は何度か瞬きを繰り返した後、本気…?とサングラスをずらしながら私に問いかける。下から現れた彼の鮮やかな緑の瞳を見つめながら「はい」と答えれば、オズはふらふらと視線を彷徨わせ始めた。
「どうしたんですか?」と尋ねると、こちらをじぃーっと見つめやがて「わぁ~っ!」と頭を抱え込んでしまった。突然のオズの奇行に体調不良かと私が慌てていると、彼はこちらをまっすぐ見つめながら「ごめん!」とその頭を深く下げた。
「そうだよね、友達って信じあうものだよね…」
「俺、こっちの世界に来てすっかり疑り深くなっちゃったみたいだ…。友達のことも信じられないなんて、友達失格だよね…!」
ちょっとよくわからないが、なにか勘違いされているような気がする。
「やっぱり俺は君に君の力のことを話すよ」
「え、いいんですか?」
「うん!さっきは…ごめんね!!!友達は疑うものじゃなくて信じるものだよね☆」
そういって差し出された輝く笑顔と右手に、私は曖昧な笑顔と右手で応答した。
+ + + +
冷たいぬくもりが私を包み込み、何度も何度も繰り返し冷え切った荒い息が私の息を呑みこむ。上を見上げれば、夜の空の闇と煌めきそのまま氷漬けにしたような瞳がドロリとその瞳の中の氷を溶かしならこちらを見下ろす。ゆらゆらと揺れる長い髪は私を夜の帳のように包み込み、私にさらなる憂鬱を捧げてくれる。
「諢帙@縺ヲ繧」
大好きだったはずの声から温度を奪ったような声が、その声には全く似合わぬ情熱をもって私に突き刺さる。だが、その声は雑音に阻まれよく聞き取れない。
「遘√%縺昴′縺ゅ↑縺溘?蜈ィ縺ヲ縺?縺ィ隱薙▲縺ヲ」
…ああ、不快だ。いくら触れ合わせても温まらない肌も、奪い去るだけでなにも与えてはくれない唇も、冷めた感情しか生まぬこの行為も。
___消えたい。
一切の混じりけなく浮かんだその感情とともに意識は浮上し、視界は暗闇から明るさに包み込まれていく。
明るくなった視界を左右に巡らせれば、そこはいつも通りのオズに与えられた家の中だった。当然だ。今更ここでの生活は全部夢で、お前はまだ夜の国にいると言われても困る。
体を起こし、眼鏡を付けずとも自然な緑に彩られた窓の外を見つめて一つため息をつく。
__私の心はまだ夜の国にとらわれているのか。
最近はあの頃の夢は見なくなったと思っていたが、先日のあの大蛇騒動がよくなかったのだろう。オズは夜の王の仕業だと言っていたが、できればそうであって欲しくない。
…それにしても、先日はオズになにか勘違いをさせたような気がする。
でも、誰が言えるんだろう。「別にあなたのことを信じてるのはあなたが友達だからってわけじゃないですよ」だなんて。
私はただ自分の悲惨なルートを深く考えるのが嫌だから「彼だったらそんなことしないだろう」という無責任な願望にも似た信用の押し付けをしているだけだ。そこに友人だからという理由は別にない。嫌な事は考えたくない、だからオズを信じている…ただそれだけだ。
…ああ、今日はあんな夢を見たせいか気分が重たい。もう一度布団にくるまり、ぎゅっと体を丸めて目を閉じる。なにも考えたくないと眠りに意識を沈めようとした瞬間、コンコンというどこか素朴な温かさを感じる音が部屋に響いた。
「オズ…」
この森の中の小さな家に尋ねて来るのはオズしかいない。
今はできることならこの心のもやもやを誰かに癒してほしい。例えば、私のことをよくわかってくれるような親友や親のような人に。それ以外であればなるべく一人で過ごしたい。__つまり、オズには悪いが帰ってほしい。
「やぁ!」
…やぁ?
「って、なに勝手に入ってきてるんですか!」
「ノックしても応答がなかったからね!倒れてるかもと思って!」
「着替え中とかだったらどうしてくれるんですか!」
「もしそうだったら着替え中だってことを教えてくれるだろ?」
なんだよそれ。なんだよそれ。たしかにそうかもだけど、ノックしてから勝手に入るまでの時間が短すぎるんだよ。別に今回は着替えたりとか変なことしてなかったからよかったけど。そういって反論すると、またオズもあーだこーだと言ってくる。明らかにアホっぽい性格なのに、微妙に理論的っぽい反論をしてきたりするのが腹立つ。
ちなみに、オズがどうやって入ってきたかは愚問だ。そもそもこの家と私の持ち主はオズなのだから。
「…で、結局なんの用なんですか?」
しばらく無意味な言い争いをした後、私たちは若干疲れた顔で本題に入った。結局お互いなにも譲らなかったのでなんの進展もなかった。これぞ、ザ・無意味。
「俺の秘密を教えようと思ってさ!」
嬉しそうに、でも少しだけ緊張した面持ちのオズに「秘密?」と返してみても「とりあえずついてきてよ!」とニコニコするばかりでなかなか口を割らない。今日は無理です…と言っても、オズがそんな話を聞くわけもなく、歩かなくていいから!…とズルズルと私を部屋から引きずり出した。せめてパジャマから普通の洋服に…というのもスルーされて「うん!じゃあ、行くよ!」と、なにが「うん」なんだとういうセリフと共に抱えあげられて、そのまま猛ダッシュされるという憂き目にあったのだった。猛ダッシュと簡単にいうが、オズの猛ダッシュは普通の人とはレベルが違う猛っぷりだ。そりゃもうエンジンと言うかロケットを使って走るからね。人類には不可能なレベルのヤツだ。
そしてとんでもない速さと揺れに、オズの胸元での嘔吐を考え始めたころにその足はぴたりと止まった。「見て…!」という声にいざなわれ胸元からそっと頭を上げれば、そこは大きな工場だった。
「気球…?」
工場の中央には大きな気球らしきなにかが一つあり、その周りではロボットたちがせわしなく動き回り、機材を運んだりしている。
その光景は圧巻といえば圧巻だが、シュールといえばシュールだ。ここはまるで気球らしきなにかのためだけの工場に見える。いやでもそれはちょっと…違和感が…。この規模で?このメカメカしい中で?
「…えっと、ここは?」
気球をつくる工場じゃないよね?まさかこれを見せるためだけに嫌がる私をここに連れてきたわけじゃないよね??ともはや祈るような気持ちでオズに尋ねると、「元の世界に帰るためのヒミツ兵器を開発する俺の秘密基地!」という予想外の回答が返ってきた。
「秘密兵器…?え、まさかあの気球が秘密兵器とは言いませんよね?」
「キキュー?…ああ、あれって地球のものだったんだね」
やっぱり俺たちが想定してたよりも地球はずっと発展してたんだ!とオズはなぜか興奮し始めたが、私にはなにがなんなのかさっぱりわからない。なぜこいつは気球で元の世界に帰れると思ったんだ?
「えっと、なぜ気球を秘密兵器だと?」
「ずっと記録を探っていったらね…あったんだよ!コレで元の世界に帰ったっぽい過去のオズの記録が!」
「過去のオズ?」
「ああ、ここの国の人たちは知らないけどオズは本当は何回も変わってる。代々オズは外国とかこの国ではないところからやってきたヤツが引き継ぐんだ。ま、引き継ぐっていうか押し付けられるんだけど。で、俺以外にも異世界からやってきたオズはいるんじゃないかな~と思って探してたらさ…いたんだよ!やっぱり!」
「へ、へぇ~…」
そもそも新情報が多すぎてよくわからない。オズは一人じゃなくて代々その名前を引き継いでいた?たしかに、オズに会う前に「オズ様はうん千歳で~」とかって情報を聞いてた割にオズは五年前にここに来たと言っていて、たしかにちょっとおかしいなとは思っていた。でもだからって襲名していく方式だとは思わないだろう。ん、襲名?
「えっと…あれ?オズっていう名前は引き継いだ名前なんですよね?」
「うん!」
「だったら、あなたは本当はなんて名前なんですか?」
もとから偶然オズって名前だったのか?それとも…
私が想像を巡らせる前にオズの顔色はサーッと青ざめていった。サングラスの向こう側にある瞳はしきりにまばたきを繰り返し、落ち着きなく視線が四方八方に動いている。
「大丈夫ですか…?」
「う、うん…!俺はノープロブレム!うん!」
明らかに大丈夫という顔ではない。視線は合うどころの話ではないし、精一杯浮かべたのであろうその笑顔も明らかに引き攣っている。
「…本当に大丈夫ならそれでいいですけど…その、無理はしないでくださいね。私にできることがあればなんでもいってください。せっかく友達なんですし…」
これはめったに動揺しないオズの動揺に対する好奇心半分、普通に優しさ半分からきた言葉だ。もちろんKYすぎてムカつくこともあるが、彼は彼の利益を損なわない範囲でとても優しいし、悪い人間ではない。だからまぁ…私もゴマをするついでに、優しくしようかな…ぐらいには思うのだ。
「…ともだち…」
そう一言つぶやくと、彼は直立不動のままドヴァっと大量の涙を零し始めた。
あまり見ない泣き方に一瞬ギョッとしたが、一応聞くといったからにはちゃんと聞こうと、慣れないながらも優しく背中を撫でたりなどしてみる。
しばらくそうしていると、やがて掠れた声で小さく彼は告げた。自分の本当の名前が思い出せないのだと。これまでずっとオズと以外名乗る必要もなかったし、自分の名前なんて当然のように思い出せるものだと思っていた。でも、さっき私に聞かれたときに、自分の本当の名前が思い出せないことに気付いたと。焦って他のことを思い出してみようとしても、どうでもいいことは思い出せるのに、家族、友人、近所のおじさん、故郷の星…そういったことが全く思い出せない。そもそも彼の記憶はデータ化されているから忘れるなんてほぼありえないのに忘れている。もしかしたらどこかのタイミングで記憶がいじられていて、自分が覚えているつもりのこと以外ももしかしたらなにか改竄されているかもしれない、そもそも自分が異世界から来たと思っているのも全部嘘かもしれない…と彼は開いた自らの掌を呆然と見つめながらつぶやいた。
「オズ…」
私は元の世界で持っていた名前を失ってしまったとか、家族や友人、故郷のことが何も思い出せないなんてこともない。でも、彼の苦しみと恐怖の半分程度はわかる。私もこの世界に来てもともとの苗字を捨てた、新しい家族が出来た、新しい友人ができた、新しい故郷ができた___そうやっているうちに少しずつ元の世界の記憶が少しずつ薄れていく。元の世界にいた年数と同じぐらいの年数をこちらで過ごしたのだ。実際に、友人や両親の顔は年々おぼろげになり、声に関しては母を除いてほとんど完全に忘れかけている。それがとても怖い。時々住所なんてものを呟いてみたりするが、それが合ってるかも確認できない。おぼろけな過去の記憶が全部嘘だったのではいかという果てしない不安。このおぼろけななにかすらオズは消えている。自分がつくりあげてきたはずの、自分をつくりあげてきたはずのなにかに対する確信が少しもない…。それはきっと…すごく恐ろしくて心細いことだ。
これまで正直、オズを自分と同じ人間だとは思っていなかった。もちろん今でも生物学的に同じだとは思っていないが…私と同じように悲しんだり苦しんだりするような存在だとは思っていなかった。身体と同じように心も鋼でできているのだと。でも今、彼は目の前で苦しんでいる。これまでにないぐらいに彼が身近な存在になっている。今だったら…同じ種類のものだと、仲間だと、友人だと認められる。
私は今___心の底から彼に同情している。
「…少なくとも、地球という星はありました。地球という星にスピーカーというものもありました。ドイツもありました。それを知っていたオズ…いえ、あなたは間違いなく異世界人だし、ここではない世界は…私たちがいた世界は存在しています。少なくとも、あなたが知る地球という範囲のことは私が証明できます」
彼は昔の、そして今の私だ。アイデンティティが揺らいでいるのだ。自分が生きてきたはずの過去や世界の存在があやふやになって、自分が信じてきた自分とやらが本当に自分なのかがわからなくなっている。
「あなたの過去は私が証明します。だから、あなたも私の過去を証明してください。お願いします」
少し背伸びをすると、名前を失ってしまった彼のサングラスをそっと外し、瑞々しい若葉から零れ落ちたようなその涙をパジャマの袖で優しく拭う。
「それに、本当のあなたはオズでも王様でもないかもしれませんが、私の友達であることに間違いはないですよ」
笑いかければ、潤んだ若草色は少しだけ柔らかくなってこちらを見つめ返してくる。こうやってみると、本当にやはりどう見ても私と同い年頃の普通の(ちょっとイケメンすぎる)青年だ。
「元の世界に戻ればきっと全部元通りになります。名前も、家族も、友達も、故郷も…全部思い出せます。だから必ず__私と一緒に元の世界に帰りましょう」
「…本当に思い出せるかな?」
「思い出せますよ。絶対に。__友達の言葉を信じないんですか?」
「そうだね。友達のことを一度ならず何度も疑うだなんて…俺はサイテー野郎だ。友達のことを疑ってばっかの俺と、君はまだ友達でいてくれるかい?」
冗談っぽく、でも少しだけ不安そうに問いかけた彼に私は当然だと笑って返すと、彼は安心したように小さく笑いを零した。そして、くるっと私に背を向けて大きく息を吐くと、両手で頬をバチーンと挟み込んで「よしっ」とつぶやきこちらへと向き直った。
「うじうじしちゃってごめんね!でも、今度こそは君のおかげで本当に大丈夫だから。本当はここに来て最初にするはずだった…もっと明るくて未来に向けた楽しい話をしよう!俺たちが、元の世界に帰るためのヒミツの計画をね☆」
そういって彼が語り始めた夢みたいな…でも、決して不可能ではないと予感させるような計画に私は胸を躍らせた。気球で元の世界に戻るなんてばからしいと思ったけれど、彼の科学の力とこの世界の魔法の力があればそれも不可能ではないと思わせてくれた。帰ることをもう半ば諦めかけていた私の心に希望の花を咲かせてくれた。
___なんていったってこの世界はおとぎの世界なのだから。そこで太陽の巫女と偉大なる魔法使いが友人になって手を組んでしまえば不可能などなにもない。
…そう信じられていたのだ。
+ + + +
あの時点でほぼ完成しているように見えた気球は、なんやかんやであれから半年程度で完成した。その間に彼に「オズ」以外の名前をつけてそれで呼んでくれと言われ、困った私はうっかり「アマノ」などと呟き彼に私の失った方の苗字をプレゼントすることになったり、特別にワークにこっそりと連れて行ってもらってメガヒと感動(?)の再会をしたりなど色々あったのだが、なんであれ気球は完成した。それは間違いなく気球としての役割を最初は果たした。しかし、元の世界に戻るのは失敗した。突然の突風により墜落してしまったのだ。
完全に壊れてしまった気球に「次こそは…」とこれまた半年かけて一から作り直した気球は鳥の大群が突っ込んできたことによりまたもや墜落。
なにかがおかしいのでは…と思いつつも以前よりは時間をかけずに作り直した気球は、途中でいきなり燃料不足になり墜落。
これはやっぱりおかしい…と気球を作り直した後に北の魔女とやらを連れてきて(これもまたとても大変だったし、なんやかんやあって彼女は「オズ」の正体を知る三人目の人となった)、気球を見せてみると…いや、見る以前に「あなたたちは帰れない」と告げられた。
いやいやそんなことはありえない…と、西、東の魔女を連れてきても(これもやっぱり大変だったし彼女たちをボコボコにする羽目になった)、無理なものは無理だと匙を投げられた。
そして、南の魔女をつれてきてもやはり無理だと告げられた。最後に試しに彼女の目の前で気球を飛ばしてみても、やっぱり気球は墜落した。今度は落雷というとんでもない理由で。その時に小さな火事が起きて、私はうっかり火傷などをしたのだが、その時の彼__アマノの顔は一生忘れられないだろう。ああ、絶望した人ってこういう顔をするんだな…と思った。それと同時に彼はもう気球づくりをしないだろうなという予感が私の胸の中に過った。それはつまり彼にとって「元の世界に戻ることをあきらめる」ということに他ならない。
その事件が起こったあともアマノは変わらなかった。不気味なぐらいにほとんどなにも。ただ、気球をつくっていたあの秘密の工場に行かなくなった。元の世界の話を振ってみれば、戻りたいねなんて笑いながらすぐに話をそらす。あんなに聞きたがった地球のことだってもうなにも聞いてこない。ワークのことを話そうとすれば顔をしかめる。森の中の私の家にやってくる回数は以前の比ではなくなり一日に数回来ることも増えた。そして__
「メグミ…君また書庫に行ったんだってね。行かないでって俺前に言わなかったっけ?あそこは危ない…というか、そもそもこの家から出ること自体が危険なんだからね」
アマノは私がこの家から出ることを酷く厭うようになった。曰く、この家以外はガードが薄いから出ないでほしいと。私には正直それの意味がわからないし、今更私を狙う人間がいるとも思えない。たしかにあの大蛇の事件もあったが、あの一回きりでそれ以降はなんの音沙汰もない。だから、私はそのことはあまり気にしていない。私が今気になっているのはただ一つのことだけだ。
「…ワークの本が全部なくなっちゃったんですけど、何か知りませんか」
私の問いかけに、彼はすぐに「知らないよ。元から大した本もなかったと思うけど」と答えた。だが、私は気づいてしまった。彼の瞳が一瞬揺れたのを。間違いなく、私の質問に彼は動揺した。
いや、そもそもそれなりにあったはずのワークに関する本の数々が日に日に減っていって、それがつい先日ついに0冊となり、そのことを書庫の人間に質問しても目を逸らしながら曖昧に微笑まれた時点で、ほとんど確定していたようなものだ。ただ私が認めたくなかっただけで、シュレーディンガーの猫はとっくのとうに死んでいた。
「…私のことを友達と呼ぶならせめて嘘はやめてください」
彼はちらりとこちらを見てすぐに視線をそらすと、私が朝にいれてそのまま忘れて放置していたとっくに冷めきったホットミルクを一口飲んだ。そして、揺れる乳白色の水面をしばらく見つめると、吐き捨てるように言葉を紡いだ。
「燃やしたよ。全部」
しばらく、ただ呆然と彼の顔を見つめていた。せいぜいどこかに隠した程度だろうとタカをくくっていた…というよりは、当然のようにそうだと思っていたのだ。
なんで…と小さく零すと、アマノは痛みに耐えるようにその整った顔を歪めた。
「…あんなちっぽけな島のことなんかもう思い出さないでくれよ」
「俺たちの故郷はこの世界にはどこにもないんだから」
「この世界での唯一の理解者で友達じゃないか」
「俺には君しかいないし、君にも俺しかいない」
「俺たちはこの世界で2人ぼっちだけど、二人で生きていけばきっと寂しくないからさ」
「お願いだから、どこにも行かないでよ…」
血を吐くように言葉を羅列する彼は、いつもの彼ではなかった。オズでも、アマノでもなくて私が知らない誰かだった。まるで救済でも求めるかのように私に伸ばされた彼の腕は、ロケットにもなるはずなのに今は酷く頼りない。その腕は母を求める幼子のようでもあると同時に、地獄での共生を望む亡者のようでもある。
そして、彼の腕が私の肩に触れそうになるその時に、私は___逃げ出した。
気が付いたら、家のドアを開け放ち森の中をわけもわからず疾走していた。後ろからは「メグミ!」なんて悲鳴のような声が聞こえたけれど、そんなものは聞こえなかったものとしてそのままただひたすらに走った。
ただ、怖くて、不安でどうにかなってしまいそうだった。
運動不足の身体の全力疾走に右わき腹が悲鳴を上げ始めてよたよたと足を止めると、そこは書庫へと続く隠し扉の目の前だった。書庫はお城の地下にあるのだが、実はお城の中を通らずとも地下道を使えばこの隠し扉から書庫の中に入ることができる。
__どうやら私は本特有のあの紙とインクの匂いを嗅いで落ち着きたいらしい。
本のことで色々あったのに、わざわざここに来るなんて自分でもどうかと思うが、それでも来てしまったものは仕方ない。きっと心がここを求めているのだ。
隠し扉の細いのぞき穴を覗きこみあたりに誰もいないのを確認して、そっと扉を開けようとしてふと気づく。
___声が聞こえる。
囁きのように小さくてなにを言っているのかはよく聞き取れない。でも、どこか懐かしさを感じさせる声。
私は普段、書庫に向かう地下道しか使わない。だが、地下道や隠し道は本来の姿で出歩けない歴代オズのために城中に張り巡らされているらしく、書庫に向かう地下道からもたこ足のようにどこかの部屋へとつながる道が何本もある。恐らくはそのうちの一本から…声。
一度気になり始めると、どうしても気になって導かれるようにふらふらと声の聞こえる方に足が勝手に進む。徐々に大きくなる声と懐かしさに、「ありえない」とはやる気持ちを抑えながら進んでいくと、ちょっとした広間のような空間にたどり着いた。中央には豪奢な鏡があって、青白い光を発しぼんやりとあたりを照らしている。
「メグミ…メグミ…」
__その声は、鏡からだった。
最後に少しだけ残っていた理性も完全にふっとんで鏡へと駆けよる。
「…お母さん」
この声はまちがいなくお母さんの声なのだ。あの日、10歳の夏の日…私にちょっと適当で、でも思いやりのある「いってらっしゃい」の声を最後にずっと聞いていない声。ずっとずっと聞きたくてしょうがなかった。
気が付いたら、姿見を抱きしめながらワンワンと泣きわめていた。おかあさん、おかあさん…と舌足らずに繰り返していた。
涙にぼやける視界でなんとか鏡を見ると先ほどまでの光は消えていて、座り込んで涙を零しながらこちらを見つめる私の顔と、私の前に同じように座り込んで私を抱きしめる誰かの背中と長い髪の毛が映っていた。ハッとしてあたりを見渡しても、その姿はない。ただ鏡の中で私を抱きしめている。
「メグミ…」
もう一度優しく呼ばれた私の名前にまたもや涙が止まらなくなる。
「なぁに?おかあさん…」
「元気にしていましたか…?」
「うん…。大変なこともあったけど…でも、私は大丈夫」
私の声にそれはよかったと嬉しそうに答えると、おかあさんは様々なことを私に聞き始める。好き嫌いはしていないか、友人はできたか、ちゃんと毎日眠れているか、辛いことはないか…なんてことのない会話の連続に最初はひたすら喜びをかみしめていた。
だが、喜びと同時に段々と落ち着きと冷静さというものも私は取り戻していた。そこにあるのは、一つの疑念だった。
「…ねぇ、おかあさん…」
「なんですか?」
「もし帰れたらさ、私が好きなピーマンの肉詰めを作ってよ」
「もちろん。あなたのためならばいくらでもつくりますよ」
その答えに、胸がぎりりと締め付けられ目の前がゆったりと暗くなる。
…ああ、本当にどうしてこんなところに来てしまったんだろう。そうすればこんな苦しい思いもせずに済んだ。あまりの息苦しさに、このまま気づかないふりして流されちゃおうかな、なんて甘えた方向に流れそうになる思考を深く息を吸って振り払う。ここで逃げてもどこにも行けない。むしろ、その先にあるのは破滅だけだ。
「…おかあさんは、私がピーマンが大嫌いだったことすら忘れちゃったんだね」
おかあさんは動きを止めた。しばらく沈黙が薄暗い部屋の中に降り立ち、奇妙な緊張感が私たちを包み込む。
「…ごめんなさい。私、あなたがいなくなってから…
「私の母は私に敬語なんか使わないんですよ、おかあさま」
ついでに、「あなた」とも呼ばない。いつだって「メグミ」か「あんた」だ。
二度目の沈黙は先ほどよりも長く続いた。やがて、鏡の中の人物はすっと立ち上がり、ゆったりとこちらに振り返った。
「無理でしたか」
「…はい」
月のように青白い肌、深淵をそのまま溶かしこんだような長い黒髪、星々の散る夜空の瞳。黒のみをその身に纏う、全てが息を呑むほど美しいこの男は"夜の王"。その鋭く冷たい美しさによく似合う冷酷さと残酷さを持ち合わせた冷淡無情の王。
オズが言っていた通り、確かに彼は私の身柄を虎視眈々と狙っていたらしい。
「あなたが元の世界の母君と私の声がよく似ていると仰っていたので、もしかしたら…と思ったのですが」
「声だけですから…」
そう、彼の声と私の母はよく似ている。不気味なくらいに。だから、初めて彼の声を聞いた時に涙が止まらなくなった。それを見た夜の王は無表情にどうしたのかと尋ねてきて、渋々そのことを話した時には「ああ、死んだな…」と思った。だが、それを聞いた彼はたっぷり五分ほど私のことを無言で見つめると「…わかりました。これから私を母と思いなさい」などと言い出したのだ。わけがわからなかった。その時彼のことは女性だと思っていたから性別に関しては気にならなかったが、ただ母親に声が似ているだけの初対面の人間__しかもその人間は自分の住んでいた場所を外からやってきて占領した人間だ__をなぜいきなり母だと思えると思っているのかもわからないし、なんでそんなことを言い出したのかもわからなかった。正直、今もわからないし、「なんで?」は増えていくばかりで少しも減らない。彼を理解しようなど無駄なことなのだ。
「それで…何の用ですか?」
「端的に言います。この手を取りなさい。そうすればあなたはこの国に帰ってこられる」
「結構です」
彼の言葉にかぶせるように発された私の言葉に、ぴくりと眉毛を動かした鏡の中の彼は鋭い視線で半ば睨みつけるようにこちらを見つめる。空気を凍り付かせるような冷たい威圧感に思わずひるみそうになるが、ぐっと拳を握りしめて耐える。
「…あなたは、母の元に戻りたくないと?」
「はい」
「くだらない反抗はやめなさい。所詮は異世界人であるあなたの帰る場所は、この世界での母たる私のもと以外にどこにもないのですから」
「…私、あなたのことを母親だなんて思ったこと…一回もありません」
言い終わると同時に歯を食いしばる。彼は間違いなく激怒する。無表情で、淡々と怒り、そして私への罰を決定するだろう。彼の機嫌を損ねた者の末路はずっと横で見てきた。散々嬲られてそして殺される。でも、それでも、夜の国に行くよりはここで殺された方がずっとましだ。
だが予想に反して、私の言葉に微かに目を見開いた彼は小さく「なぜ…」と独り言のように呟くのみにとどまった。いつもは感情の籠らないその声には一滴の悲しみと困惑が滲み出ていて、まるでどうしてなのかが本当にわからないかのようだ。…まさか、本気でわからないのか?
「…意地悪を言わないでください」
「意地悪じゃありません。本当のことです」
「食事に温かい寝床、帰る場所、庇護、教育…母親が与えるべきものはなんでも与えました。未開な言語しか使えぬあなたに言語魔法をかけて、この世界のありとあらゆる言葉を与えたのも私です。私に一体なんの不足が?躾が少々厳しかったのは反省して
「母だというなら、なぜ私を抱いたんですか」
夜の王は口を閉ざし、その細い体を明らかに強張らせた。
「…母とは娘を抱擁するものです」
「そうじゃないってわかっていますよね」
そもそも、あなた私のことをそういう時以外で抱きしめたことなんかないじゃないですか。
続けた言葉は想定していたよりもずっと冷たく響いた。
彼は身じろぎせずにこちらを見下ろしている。無しかうつさないその表情から読み取れることはなにもないが、おそらく彼は動揺している。
「…恩愛です。母は娘を愛するものです。愛の表現として…行いました」
なにを言っているのか、こいつは。母親が「愛」という感情を子供に抱いたからと、子供を抱くわけがないじゃないか。
「…本気ですか?」
「はい」
「一方的で最低な愛ですね」
彼に教えてあげるつもりは一ミリもないが、そんなのは愛じゃない。そもそも、彼にあるのは支配欲と独占欲だけだ。でも、彼はそれを知らないし気づくこともないだろう。
彼はきっとなぜ私のことを抱いたのかを理解していないし、疑問に思ったこともなかった。だから彼は今、なぜ自分が私のことを抱いたのかのその理由を必死で探して、母の愛という高潔かつ最もらしい理由で誤魔化そうとしている。本当に…気持ち悪い。
「一方的、ですか…」
「そうですね。…ところで、もう帰っていいですか?もう私に用はないですよね?」
「待ちなさい」
「まだ何の用が…
「あなたに真実をお見せしましょう。これは母からの真心です」
その言葉と共に、暗い霧がゆらりと陽炎のように立ち昇り私と鏡を取り囲み始める。
逃げだそうと慌てて鏡に背を向けるが、暗い霧はまるで実体でもあるかのように私が鏡から離れることを許さない。やがて霧は私の全身に絡みつき、体を完全に壁に固定した。頭はまっすぐに鏡に向けられ、そこから視線を離すことは許されない。
「あなた、何を…!!!!私をこのまま攫うつもりですか!!!」
「いいえ。あなたの意思で私の元に帰ってきてもらいます」
蛇の威嚇のような音と共に鏡の中から夜の王の姿が消えて、代わりにどこかの風景が映し出される。
青くどこまでも透き通った海、鬱蒼とした森、均整のとれた形をしたてっぺんに雪を少々かぶった山___ここは…
「ワーク…」
「ええ、美しい島ですね」
耳元で突然夜の王の声がして、びくっと体が跳ねる。いつの間にか夜の王が私の隣に立っていた。ただ、その体は半透明で揺らいだり不安定に消えかけることを何度も繰り返しているので、どうやら実体ではなく映像のようなものらしい。
「私たちの島がなんだというんですか?帰してくれるとでも?」
「よくご覧なさい。すぐにわかりますから」
そう言われて改めて映像をよく見れば、すぐにわかった。
ありとあらゆる建物が倒壊し、瓦礫の山となっている。島民はどこにも見当たらず、ひたすらに瓦礫、瓦礫、瓦礫、瓦礫…
「…こ、こんなの…」
寒いわけでもないのに全身が震え、舌がうまく回らない。こんなの夜の王が作り出したフェイク動画だ。こんなの…こんなの、ありえるはずがない…!!
「これが今のワークです。魔法を使い、鏡に映し出しています」
「嘘つき!!こんなの全部…嘘に決まっています!!」
「そう思いたいならば思えばいい。ですがこれが現実です。この国は一か月ほど前に滅びました」
一か月前といえば…ワークに関する本が消え始めたころ…。頭を振っておかしな想像を打ち消し、映像に集中する。
映像は流れ続け、私がメガヒと共に住んでいた場所であった場所も映し出される。そこも、ただの瓦礫の山となり、紙垂が風にふかれて虚しく揺れている。
「…ちがう…ちがう…ちがう…」
「あなたの国は滅びた。さっさと認めなさい」
夜の王の声はどこまでも冷え切っていて、そこには同情も憐みもどんな感情ものせられることはない。しかし、その冷たさに少しだけ冷静さ取り戻した私は、この風景が本当のものなのかを見極めることにした。もしこれで…あれがあれば私は認めるしかない。
「…もう少し奥をみることはできますか?その、森の…方です」
ええ、と夜の王が答えると同時に、映像もメガヒと私の住処を超えて森へと進んでいく。
夜の王に進む方向を指示することを何度か繰り返すと、やがて小さな滝の裏側にたどり着く。ものを動かしたりなどはできるか?と尋ねれば、是と答えたのでちょっとした岩をどかしてもらう。この岩は途轍もなく大きくてとても重そうに見えるが、実は女子供でも動かせるようなとても軽いものだ。
「…あった…」
絶望と共に言葉が零れ落ちる。あってほしくなかった。いや、岩がある時点で…果てしなくリアリティのある風景の時点で薄々気づいてはいた。
鏡にうつる小さな祠は巫女だけが知る特別な祠。滝にたどり着くのも難しいので、滝の存在すら島民でも数人程度しか知らないだろう。祠の場所や存在は決して地図や文字に書かれることはなく、巫女から巫女へ口伝のみで伝えられる。ここにこの祠があるということはそれは…
「…それで、信じて頂けましたか?」
「…はい」
目の前が揺れる。膝から崩れ落ちてしまいたい気分だが、それも拘束により許されない。
…ああ、ああ…私は一体…なんで、どうしてこんなことに…
「…あなたの…仕業ですか…」
震える声を息とともに吐きだす。繰り返し何度も息を吸っているというのに、息が苦しくて頭がくらくらする。
「いいえ、違います」
「だったら誰が…!!!」
一瞬だけ脳裏に煌めいた新緑の色を打ち消して、叫ぶように尋ねる。彼がそんなことをするわけはない。彼は、彼は、彼は…
「この国の王、オズです」
今度こそ私は崩れ落ちた。全身を拘束していた黒い霧はいつの間にか消え、私はすでに自由に動けるようになっていた。だけど、ここから逃げ出す気にもなれなかった。
もしかしたら、とは思った。現在ワークを好きにできるのは、私とワークの権利を夜の王から奪い取ったアマノだし、ワークの話を聞くのを嫌がったり本を捨てたり…彼はきっとワークのことが…。でも、そんなことをするとは一番思えない人でもあった。彼はいい人ではなくても、普通の善性を持つ人だったから。だから…でも…だって…
「あなたがやったのをそう言っているだけじゃないんですか…」
「もしそうだとして、私があの国を壊すことをオズが許すと思いますか?」
許すわけがない。許したら許したでそれは許せない。夜の王を降した彼の目を欺いてその影響下にある国を破壊なんて…並大抵のものにできるわけない。もし"なにか"があったのだとしても彼が私に黙っているわけがない。なんであれ…彼は私を…
「なんで…」
「もとからそういう男だったのです。あなたはあの男の奸悪な本性に気づけずまんまと騙された。それだけのこと」
…友達だという言葉は、一緒に元の世界に戻ろうという言葉は、全部嘘だったのか。「秘密だよ」と、ワークにこっそりと連れて行ってメガヒに会わせてくれたのは…そうだ。メガヒ。メガヒや他の島民たちは…一体どこに?まさか、全員…!!!!
そのことに気づいた私が半狂乱でそのことを尋ねると、夜の王は「落ち着きなさい」と私を無表情で宥めつつ、オズの国の中で適当に様々な町にバラバラと送られてそれぞれ暮らしていると教えてくれた。
「メガヒは…一体どこに…?」
「彼女はこの城の最深部に隠されています」
「え…?」
呆然と口を開く私に構わず、監禁という言葉が正確かもしれない…などと夜の王は続ける。
「その、それは…なんというか…ちゃんと食事とか…環境というか…そういうのは…」
「そこまではわかりません。私も万能ではないのですから」
正直彼のことは信じきれない。でも、ここで彼が嘘をつく意味もわからない。それはつまり…。
…このことをオズに問い詰めたい。でも、彼にこれを聞いても無意味なことは馬鹿な私にも十分にわかる。むしろそんなことをしたらメガヒの命が危ないかもしれないし、違う場所に連れていかれてしまうかもしれない。彼は過去間違いなく私の友人だったが、今の彼は…とても信用できない。
これから、私はどうにかしてこの城の中からメガヒを見つけだし、見つけ出し…見つけ出してどうするんだろう…?逃げ出す?どこへ?どうやって?私なんぞに彼の目を欺けるとでも?私にそんな力があるとでも?
__私にできることなんてあるのか?
ダメだ。そういうことは考えちゃいけない。まずはメガヒを見つけよう。話はそれからだ。メガヒだったらきっとなんとかしてくれる。メガヒのいる位置の特定は…
「…彼女を救い出したいですか」
ダラダラと脂汗を流しながら考え込む私に夜の王が声をかける。助けたくないわけがないと首を縦にふると、彼は私が手を貸しましょうと夜の瞳をこちらに向けた。
「え…」
「手を貸しましょうと言っています」
「な、なんで…」
「あなたが私の娘だからです」
ただし、と夜の王は続ける。ただし、代わりに私に夜の国に戻ってこい…と。こんな信用のならない男の国にいつまでいるのか?今度はもっと躾も優しくするし、部屋ももっと豪奢なものにする。メガヒの生活の保障ももちろんする…だから戻ってこいと。
「あなたの代わりなどいくらでもいると思っていました。でも、あなたをオズの国に送ってからなにかが足りないような気がして、ありとあらゆる年齢の女や男を…時には人間以外も娘として受け入れました。ですが、どれも私の娘たりえなかった。私の心は満たされませんでした」
__あなたが、あなただけが私の娘です。
告解のように告げられたその言葉は妙に重々しく響いた。
…娘ではないとされた彼らは、今はどうなっているのだろう。きっと碌な目にはあってない。生きているかどうかも怪しいだろう。この人の娘にされるだけでも不幸なことなのに…本当に哀れという他ない。躾と称して手慰みに嬲って、愛と称して夜な夜な抱いて…これの一体どこが母なのか。獣の母でももっとましだ。
そんなお母さまの下に自ら行く…地獄まで自分の足で行けと言われているようなものだ。
__そう、あそこは地獄だ。いうことに従わなかった罰だと適当な理由をつけて、いくらかの水だけのある掘立小屋に何日間も閉じ込められたことなど何度もある。どんなに泣き叫んでも出してもらえなくて、あまりの寒さと空腹に意識が遠のいた時にやっと出してもらえた。拷問魔法をかけられたことも何度もあった。指を折られたままずっと生活したこともあった。全身に虫の這いまわる幻覚をずっと見させられたこともある。…何度も心も体も壊れかけて、でもそのたびに魔法によって無理やりこちら側の世界に戻された。狂うことも、死すらも許されない地獄なのだ。
それに不安は…これだけではない。
「…ちょっと、聞いてもいいですか」
もしかしたらこれは墓穴を掘る行為かもしれない。でも、聞かずにはいられない。
「ええ。なんでもどうぞ」
「まだ、私の記憶…奪うつもりですか?」
私は覚えている。彼は私の元の世界の記憶を奪い去ろうとしていた。…言われたのだ。オズとの戦いが始まったばかりの頃に。"特定の事象についての記憶を全て消す方法が見つかった。お前の脳の足りない容量を確保するために元の世界の記憶を消そうと思う。でも、それには時間がかかるから、この戦争が終わった後にやろうと思う"…と。戦争の終わりと同時に私はオズの国に送られたから、結局それが果たされることはなかった。でも、もし今夜の国に行ったら…
「もちろん」
一寸の迷いもなく彼は頷いた。そして逆にこちらに「なにか問題が?」と尋ねた。
…問題しかない。嫌に決まっている。でも、「嫌だ」と答えても彼の中でそれは問題に入らないのはよく知っている。そもそもどんな問題を提示しても、この問いかけをするときに彼の中で「やる」ということは確定しているからそれが変わることはない。やってから解決する必要のある問題が彼の中で増えるだけだ。
「あなたは元の世界に戻れることもないし、母親は二人も必要ない。元の世界の記憶など邪魔なだけでしょう」
__やはり、彼はなに一つ変わっていない。合理主義者に見せかけたただの利己主義者。今彼は私を取り戻そうとしているから、穏やかを装っているだけ。
「…あなたが望むなら、ワークを立て直すことも協力いたしましょう。瓦礫の山を元の建築物に、荒れ果てた草地を田畑に、散り散りにされた島民たちを皆この島に…あなたが望む限りなんでも」
夜の王は指の腹で額の紋様にそっと触れる。
「…いいんですか?下手したらオズと戦争になりますよ」
「あなたを取り戻すと決意した時点でその覚悟はとうにできています」
なんという出血大サービスだ。彼は私のために戦争までしてくれるつもりらしい。しかも、一度負けた相手に。ただ、彼は自分の出血した分だけ、私も同じように血を流すことを求めるだろう。
「それで、あなたはいったいどうするのですか?」
私は…
「……ミ!!!…グミ!!!」
…声が聞こえる。
よく聞きなれた光の気配に満ちた青年の声が、必死になにかを呼んでいる。この声は…
「オズ…!!!!」
忌々し気に…しかし、静かに夜の王がその名前を呼ぶ。
おそらく、彼はこの地下道のどこかにいる。今、私が彼の名前を大きな声で呼べば、おそらく彼はすぐに気づいて飛んでやってくる。私は…間違いなく助かるし、夜の王は追い払われ、夜の国に連れ去られるなんてこともない。
彼は私のことをきっと大切にしてくれる。怪我なんか一つもさせないように大事に大事にあの家に囲われて、時々私たちの故郷であった世界の話をして…。まるでおとぎ話の世界のプリンセスだ。でも、その足元には私のこの世界の故郷の屍と人知れず監禁されたこの世界の祖母がいる。
「早く決めなさい。もう時間がありません」
お母さんとよく似た声に焦燥を滲ませるお母さまはその逆で、私のことなんかきっと一ミリも大切にしてくれない。大切にしてるといいながら、平気で嬲り平気で私を痛めつけるだろう。さらには記憶も奪われて、別の世界の故郷があったことも私に本当の母がいたことも忘れて、死ぬことも狂うことも許されないまま苦しみながら生き続ける。でも、彼は私以外の全てを救ってくれるという。自分を犠牲にしてでも他者を救うなんて、まるで物語の中の勇者様か王子様みたいだ。果てしなく美しい、でも果てしなく苦しい。
__私は今問われている。我が身が大事か、メガヒや島のみんなが大事か。そして、元の世界という故郷か、今のこの世界での故郷…どちらが大切かを。
「私、私は___
__口から零れ落ちた答えに、幸福の気配など少しもなかった。
どうもお久しぶりです。