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小品 あをによし

作者: 西園寺琴音

普段は全体公開としては投稿しないのですが、話していたらなろうに投稿してほしいと要望があったので短い小品とはなりますが投稿してみた次第です。普段は漢籍の読解や漢詩和歌をTwitterに投げる程度なのですが頑張って散文にも挑戦してみました。稚拙な部分が点在していて読みにくいのは承知の上ですがお楽しみいただければ幸いです。

 「澄まず 濁らず 出ず入れず (かわず)はわかず 藻は生えず 魚七分に水三分」

 奈良市中、猿沢池にはかつてこんな伝承があったという。市中の人工池といえどもその起源は聖武帝の御時(おおんとき)、天平の時より古都奈良を見守ってきたこの池は数々の民間伝承の舞台となってきた。そんな由緒正しき池も近年になってアオコが繁茂するようになって、夏に濁らないことはめっきり減ってしまったという。そんな猿沢池がほとり、澄んだ夏空に積雲がかかって陰りが見え始めた盛夏の昼下がり、汗も止まらぬ熱気の中物好きな少女が一人。澄んだ栗色の瞳に真っ白のブラウス、(からす)の濡れ羽のごとく美しい黒髪に丹赤色(たんせきしょく)の口をした不吉なほど美しいその子は、暑いなどとは微塵も思わせぬそぶりでちょこんと座って分厚い本を読んでいた。

 夏休みの唯一の登校日であった高校の帰り、アーケードのある商店街で涼んで帰ろうと思っていた私は、息をのむほど婀娜(あだ)にたおやかなその姿を見て同性であるというのに思わず歩みを止めてしまった。そして声をかけた。だが、不思議なことに数瞬ののちすうっと彼女は消えてしまっていた。本来なら背筋に寒い感じを覚えてもいいような体験であるはずが不思議とそういう類の心持は感じられなかった。ただ喟然(きぜん)たる嘆息が漏れ出すのみであった。ぬるく熱された鉄の風が身体にまとわりつく。まだ日差しは雲の合間からときおり差し込むというのに大粒の雨が降り出す。我に返った私はアーケードへ急ぐ。観光客もまばらになって久しい池の周りは、走っても人とぶつかるなどという心配はしなくてよかった。雨も本降りになってくるとアスファルトがみしゅみしゅと音を立て、水たまりができるのに必死に抗っているように感じられて新鮮だった。アーケードに入るといよいよ雨は強くなり、石畳にもアスファルトにも等しく水たまりを作っていた。

 人もまばらな猿沢池とは違って、アーケードの中はいろいろな買い物客や通行人でにぎわっていた。その波に流されていくようにして窓越しに楽しそうな店を追っていると、ブリキでできたカエルの置物が目に留まった。なよやかで愛らしい田にいる緑のアマガエルとは違って、ごつごつとして金属の色がそのままにされているその置物は、なぜ私の気を引いたのかわからないほど無機質だった。立ち止まるわけにもいかないのでそのまま店内に入ると、すでに先客が、しかも物好きなことで名の知れた同級生の小岩君がいた。彼は私に気付くと驚いたような顔をして「青崎やんか、珍しいな」

 と挨拶よりも先にこう声をかけてきた。私は彼に特段の感情も抱いていなかったので「まあね、小岩君はここにはよく来るんや」

 無難な受け答えをしてその場をしのごうとする。「いいや、家遠いしバス無くなってしまうしあんまり来いひん」

「家当尾(とうの)や言うてたもんなぁ」

「せや、バスなんて一時間に二本あるだけやし暑い中待つくらいならさっさと帰ってしまいたいわ」

 話を続ける気などなかったのに会話は続いていく。

「そうやんなぁ。今雨降ってるけど」

 彼はびっくりしてこっちを見る。天気予報は一日快晴という予報だったので傘を持ってきていないのだろう。

「そんな顔しても一本しか持ってないし貸せる傘あらへんで」

 そこから彼はずっと棒立ちになって喋ろうとしなかったので気まずい沈黙が流れた。私は店内を見る気もなくなってさっさと店を後にする。まだ何か気配を感じるので振り返ってみると彼もまた店を後にして歩いてきているのだった。彼のことを考えないようにした私は、さっきのみどりの黒髪の少女のことを考えた。あんな不気味なことがあって自分の心がちっとも恐怖を感じないことにあれこれと思考を巡らせてみたが、やがて考えない方が身のためだと思ったので考えるのをやめた。

 いつの間にこんなに歩いたのだろうかというほど早く、アーケードの終わりまで来てしまった。近鉄奈良駅前の行基像にいる托鉢(たくはつ)僧たちは雨だというのに傘も差さず蓑も着ず――と思っていたがこちらの方に来ないうちに屋根が作られていたらしく、僧侶たちが濡れているというわけではなかった。電車で帰ってもよいのだが夏休みで帰宅部は学校に行く用事もほとんどなく、定期券はすでに月初で有効期限が切れてしまっていたので仕方なくバス乗り場へ向かう。ほんの15分前まで晴れ間があった空も鉛色の雲が立ち込め、生ぬるい風も幾分か雨に冷やされて涼しい風になっていた。勢いの弱まらぬ雨に小岩君をふと思い出して、そういえば彼の乗るバスの乗り場は屋根もなかったなとちょっとだけ気の毒に思ってバスに乗り込んで家へと帰った。

 翌朝、妙に騒がしいスズメの声に目が覚めると、昨日のことが頭から離れなかったので自然と足は奈良市中に向いていた。昨日の快晴予報から雨が降ったのとうって変わって、今日は雲一つない正真正銘の快晴だった。朝八時だというのに気温も三十度を超えている。昨日の少女がいた場所にまた来てみると、なぜか小岩君がいた。さすがに昨日のことが申し訳ないので話しかけられず遠くから見ていたが、どうも様子がおかしい。怪訝に思って少し近寄って見ると、やはり何もない空間をじっと見つめたまま動かない。おそるおそるどうしたのかと尋ねると昨日ここで女の子を見なかったかと言われたので背筋に寒いものを感じて言葉に詰まる。昨日のような気まずい沈黙が流れたかと思うと、彼は一瞬だけ険しい顔をして話し始めた。

「ちょうど去年の昨日のことやったか、一つ上の姉が熊野に行く言うたまま帰って来いひんのや。それで去年は今日に登校日あったやろう? 悪い結末しか考えられんようになって猿沢池を夜までずっとぐるぐると歩いとったんや。ほな姉が履いて出て行った靴が池に浮かんでるんや。気味悪くなったさかい一目散に逃げかえって親に全部話したし捜索願も出したんやけど今日まで一年見つかっとらん」

「もしかしてそのお姉さんって長い黒髪の綺麗な本好きのお姉さんやったりする?」

「お前見たことないはずなのになんで知っとるんや」

「昨日見かけて綺麗やな思うて声をかけたら消えてたんよ」

 そう私が言い終わると彼はその場に崩れ落ちて大声で泣き出し始めた。仕方のないことだろう。丸一年消息がないのにようやくありつけた姉の情報がそんなものだったというのなら。我ながら言いすぎてしまったと(にが)めた顔をしていると、彼の肩を昨日の少女がぽんぽんと叩く。私は昨日のようなことが起こると思い、事の顛末を見ていられないとその場を後にした。ナラの木が青丹(あおに)色をして夏にしては似合わぬ葉の色をしていたことがなぜか頭に焼き付いて離れなかった。

 それから一年半後、私は高校を出て東京の大学に行くために上京し、そのまま卒業後に東京で仕事を見つけて働き始めた。あれから彼とは一言も話さなかったし、高校を卒業しての六年来連絡を取ることも行事ごとで会うことも一切しなかった。奇しくもあの日からちょうど七年経った今日、高校の時にお世話になった恩師の葬儀の垣内(かいと)を務めるために奈良へと帰郷したのであるが、葬儀に小岩君がお姉さんと一緒に来ていることに気が付いて久しぶりに声をかける。すると彼は聞いてもいなかったがあの日のことを語り始めた。「最初は信じられなかった。いなくなったあの日と靴以外全く同じ格好のままの姉がいたんだからさ。靴だけ履かずに裸足で、一年経っていることを理解せんでな。声を掛けたら消えたなんか青崎が言うさかい、姉の名前呼んだら消えへんかったから家に連れて帰ったんや」

「それで気持ち悪うなったさかいまた同じことあったらあかん思うて、父の地元の山口に高校出てすぐ一家ともども越していったんや。何も喋らん無口な姉やったのに帰ってきてからは人が変わったみたいにわがまま言うようになってな。今日こっち帰ってきてるのも姉の恩師がって言うから嫌々帰って来たわ」

あの日思っていたようになっていなかったので驚きと申し訳なさで言葉が喉から出てこない。相変わらずやなと言って彼は微笑んでいた。彼の言葉に反して葬儀の席でのお姉さんは寡黙で最後まで泣き顔を見せることはなかった。

 葬儀が終わった翌日、東京に帰る前に猿沢池を当時を思い出しながら歩いていると、相変わらずの美貌を保った彼のお姉さんが座って本を読んでいた。どんな人なのだろうかと気になっていたのだが、さすがに読書の邪魔をするわけにはいかないので横にちょこんと座って眺めていた。しかし、やはりこの人が喋っている姿は想像できない。それからしばらくして彼女が青丹(あおに)色のしおりを取り出し本を閉じるとあの丹赤色(たんせきしょく)の口でこちらを向いて微笑みかけて、「えらい堪忍(かんにん)な」

 と一言だけ言ってまた彼女は本を読み始めるのであった。

私は生まれてこの方奈良に住んだという経験はないのですが、奈良の猿沢池にまつわる小品をひとつ書いてみました。文化圏的にはほとんど奈良市中の方言と変わらないと認識しておりますので普段使っているような話し口調をを心掛けました。さて垣内をご存じない方も多いと思うのでそのお話ですが、奈良市中のうちでも旧町に当たる区域では、祖父の若かりし頃には垣内と呼ばれる言うならば葬儀の結に近い地域集団が存在していました。現在もこの風習が残っている地域があるのかは甚だ疑問ですが、作中では使わせていただきました。最後になりましたが、お題をTwitterで投げてくださった方々へ感謝いたしまして、短いながらもあとがきとさせていただきます。

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[良い点] 要望した者ですヽ(・∀・)ノワーイ 私がなろうを利用しているのでなろうに誘ってしまいましたが、本当に対応していただけるとは、感謝感謝でございます。 さておき、オカルト記事をよく見てる身と…
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