一緒にソロキャンプ 〜冬の焚き火と出世肉〜
キャンプといえばソロ。
そして肉と酒。
そんな夜の焚き火メシに水を差されたのは、幸か不幸か。
二月のキャンプ場は、どこも貸し切り状態。
夏は家族連れで賑わう無料の黒川キャンプ場も同様で、この季節に二日もテント泊をする酔狂な奴は俺くらいらしい。
人がいないのは、良い。
ソロキャンプ好きにはうってつけの環境だ。
早い日没に備えて早々に車から荷を降ろしてテントを張り終えた俺は、焚き火の準備を始める。
白い息を吐きながら麻縄をほぐす。
細くなった麻糸目がけてファイアースターターの火花を飛ばすと、一発で着火した。
弱く煙る麻糸を焚き火台へと移し、羽根のように削り出した細い薪を置く。
頼りない火種に息を吹くと、無事に薪へと燃え移った。
火を育てる。
俺はこの行為が好きだ。
しっかりと丁寧に手順を踏んでいけば、火種はやがて炎に育つ。
人間を育てるよりもずっと確実だし、頑張っただけの結果が出る。
もちろん、炎に育ったあとも手は抜けない。
細く割った薪を少しずつ焚べて、徐々に火を大きくする。
大きく太い薪は、それからだ。
宵闇の川辺に、炎の花が咲く。
焚き火台の上の炎は、冷えた体にじんわりと熱をもたらしてくれる。
小瓶のウイスキーをちびりと含んで、喉を焼く。
これで中も外も、あたたかい。
「さて……初日はやっぱりこれだな」
燃え盛る焚き火台の上に焼き網を置き、その上に鉄板を載せ、無骨なホーロー製のケトルは遠火で温める。
ケトルの中身は赤ワイン。
普段は焼酎専門だが、冬のキャンプではホットワインが飲みたくなる。
充分に鉄板を熱したところで、牛脂を落とす。
ジュワッという、そそる音とともに、白い煙が上がる。
さあ、ここで肉の出番だ。
キャンプ場に来る途中で仕入れた、安いサーロイン。
こいつを、焼く。
俺ひとりならば、味付けなんて塩コショウで充分だ。
ついでに付け合わせの櫛切り馬鈴薯とブロッコリーを、スキレットで焼いていく。
肉の香りが顔全体を覆う。
これは絶対に美味い。思わず唾液の分泌が活発になる。
待て、まあ待てよ俺。
慎重に鉄板の肉をひっくり返して、追い塩コショウ。
両面が充分に焼けたところで、鉄板ごと火から遠ざけて少し肉を休ませる。
よし、そろそろだ。
野菜を切ったあとの、拭っただけのナイフで肉を切り分ける。
うん、まだ中心はほんのりピンク。ミディアムだ。
そろそろ付け合わせも良い頃合いだな。
それでは、冬のひとり肉祭りといきますか。
「いただきます」
まずは肉から行こう。
なんせ肉祭りだから。
チタン製のフォークを肉に突き刺し、でかい口を開けた。
奥歯で肉を噛み締めると、ジュワッと肉汁が溢れてくる。
想像以上に柔らかく、美味い。
すかさずホットワインを呷ると、口の中で旨みの化学反応が起きた。
どれ、もう一切れ。
次は真ん中からいってやろうと、肉にフォークを突き立てた。
「……あの」
不意の声に、びくんと肩が跳ねる。
うっかり落としそうになったフォークを握り直して、声の方へと振り返る。
「あの、少しだけ火に当たらせてもらえませんか」
若い女性だ。
怪しい。すごく怪しい。
ふと、足を見る。
よかった。足はちゃんとあるようだ。
「あの……」
「あ、ああ、すまない。どうぞ暖まってください」
予備に持って来たアウトドア用の椅子を展開し、焚き火台のそばに置く。
「……すみません、失礼します」
深々と頭を下げた女性は、静かに椅子に座った。
そのまま、しばらく無言の時間が続いた。
パチパチと、焚き火だけが雄弁に語る。
手には、すでに冷めたであろう肉が刺さったフォーク。
それを口に運ぶことが出来ない。
元来、食事は一人でする質だ。
誰かに見られての食事なんて、プライベートでは久々なのである。
いや、厳密には女性はこちらを見ていないし、なんなら俯いている。
だが、自分一人だけ食べるという行為は、どうもバツが悪い。
溜息をひとつ。
予備のシェラカップを引っ張り出す。
半分くらいまでホットワインを注ぎ、女性に差し出した。
「温まりますよ」
顔を上げた女性は、呆気に取られて俺を見る。
当然だ。
見ず知らずの男に勧められた酒なんて、簡単に飲める訳がない。
行く先を失いかけたシェラカップを引き戻そうとした瞬間、女性のお腹がキュウと鳴った。
思わず笑ってしまった。
緊張の静寂は霧散し、弛緩した夜の闇が辺りを包み込む。
「無理にとは言いませんが……食べますか?」
身を縮こまらせて再び俯いてしまった女性に、別のシェラカップを差し出す。
肉と、付け合わせの野菜を入れたものだ。
「味は保証出来ませんよ。なんせ野郎のキャンプ飯ですから」
「……ありがとうございます」
女性は少しだけ躊躇して、肉と野菜の盛られたシェラカップを受け取ってくれた。
非常用の割り箸を渡すと、女性は肉を一欠片、恐る恐る口へ運ぶ。
「──おいしい」
目を見開く女性に、俺の気分は高揚した。
社交辞令かもしれない。
たとえ本当に美味かったとしても、それは肉と焚き火と塩コショウの手柄であって、俺の手柄ではない。
なのに、高揚してしまった。
もっと肉を焼いてしまおう。
気を良くした俺は、禁断の方法を選択した。
悪いな、明日の俺よ。
焼けた肉を女性のシェラカップに移し、鉄板を焚き火台に戻す。
そして、新たな肉を投入する。
余程空腹だったのだろうか、その間にも女性は夢中で肉と野菜を食べ進めていた。
だが、肉だけでは寂し過ぎる。
ワインあってこその、肉だ。
「飲み物、これしか無いですけど、どうぞ」
あらためてホットワインを差し出すと、女性は少し笑いながら「ありがとうございます」と呟いた。
シェラカップに口をつけた女性は、そのままワインを飲み干した。
「あたたかい」
ふう、と息を吐いた女性は、人心地ついたのか、箸を止めて下を向いてしまった。
三たび俯いた女性から、微かな水音が聞こえてくる。
泣いている。
やはり、何かあったのだ。
そうでなければ、この寒い季節の夜に、山の中のキャンプ場に一人で来る訳がない。
とはいえ、俺に出来る事は何もない。
理由を尋ねようにも、初対面の部外者が不用意に踏み込んで良い訳はない。
声を押し殺して泣いている女性を気にしつつ、俺は肉を焼く。
その準備しかしていない俺には、それしか出来ない。
あっという間に肉は焼けた。
再び香ばしい肉の匂いが、食欲を刺激する。
切り分けて、一口。
美味い。
何度か肉を噛み締めて、すかさずホットワインを流し込む。
非常に美味い。
「……あの、まだ肉ありますから、食べてくださいね」
女性にもひと声掛けると、俯いたまま頷いた。
明日の分の肉まで食べ終える頃には、女性は泣き止んでいた。
肉の美味さのせいか、はたまたホットワインの効用か、来た時よりも幾らか表情が柔和になっている。
焚き火に照らされた女性の顔に、少し幼さを感じた。
この子、未成年なのかもしれない。
「お酒は、まずかったかな」
「い、いえ。美味しいですよ」
そうじゃない。
そうじゃないけれど、飲酒経験はあるようだ。
「ほんと、美味しいです。体の芯まで温かくなって、もう悩んでるのが馬鹿馬鹿しくなっちゃいました」
女性は、天を見上げる。
つられて空を仰ぐと、満天の星空だった。
「私、捨てられたんです」
彼女は、市内にある大学の学生だという。
一学年先輩と付き合っていたのだが、その先輩の就職を機に別れ話を切り出されたのが、数時間前。
別れたくないと縋る彼女を、その先輩はこの山の中に一人置き去りにしたと云う。
ひどい話だ。
見れば彼女は、コートも着ていない。
靴も土で汚れている。
きっと彼女は、失意と孤独を抱えたまま、一人で寒い夜の山の中を歩いたのだ。
「私って、男運が悪いんですよ」
それに対する返答は、生憎だが持ち合わせてはいなかった。
その代わり、新しく注いだホットワインに砂糖を落としてやった。
「甘い、です。でも、これはこれでアリ、ですね」
微笑みながら飲むところを見るに、彼女は甘いホットワインを楽しんでいるようだ。
ふと気づく。
ここで彼女に朝を迎えさせる事だけは、避けなくてはいけない。
冬用の寝袋は一つしかない。
俺は、女性にスマートフォンを差し出した。
「誰かに迎えに来てもらうといい」
「ありがとうございます。でも両親は明日まで不在なのです」
なるほど、地元の子だったか。
それなら話は早い。
「タクシーを呼ぶ。それで帰るといい」
彼女は、寂しそうに焚き火を見つめながら、そうですねと呟いた。
次の朝。
朝食は軽くトーストとベーコンエッグで済ませた。
さて、今日の食料を何とかしなければ。
駐車場の車に戻って、非常用の食糧を見る。
お、パスタがある。
何とかなりそうだ。
昼をパスタで済ませたあとも、俺は相変わらず焚き火の番人をしていた。
時折小瓶のウイスキーをちびりと飲んでは、焚き火で炙ったウインナーを囓る。
ソロキャンプの醍醐味だ。
だか、少しだけ寂しく思う自分もいる。
昨夜、数時間だけ一緒に焚き火を囲んた彼女。
ちゃんと無事に帰れただろうか。
内緒でタクシーの運転手に握らせた一万円で、足りただろうか。
突然、可笑しさが込み上げる。
俺は一人が好きなんだ。
だからこそ、ソロキャンプを楽しんでいる。
なのに何故、他人に思考を割いているのか。
もう会う事はない、名前も知らない、赤の他人に。
日没近くなると、山の空気は急激に冷たさを増す。
さて、夕食の材料は、と。
クーラーボックスを開けて、中身のチェックだ。
「……ハムしかない」
これで今夜の晩餐は、ハムとパスタのみと決まった。
焚き火に薪をくべて、火勢を強くする。
深いコッフェルに水を張り、焚き火台に置く。
「……米くらい持ってくればよかったな」
ほんの少しだけ後悔するが、不自由を楽しむのもキャンプの醍醐味なのだと自分に言い聞かせる。
湯が沸いた。
とりあえずコーヒーを淹れ、心を落ち着ける。
すっかり暗くなった空は、昨日と同じ満天の星。
「独り占めするのは、少しもったいないな……」
思わずごちる。
「では、今夜も一緒に見ましょう」
不意の声に、肩が跳ねる。
振り向くと、昨日の彼女が白い息を吐きながら立っていた。
ダウンジャケットを着込み、パンツスタイル。
両手にスーパーの袋を提げた彼女は、少しだけ笑みを浮かべながら歩いてくる。
それだけで、胸が躍った。
「私も一緒にソロキャンプしに来ました」
「いやいや、ソロキャンプって一人でやるものだけど」
「良いじゃないですか。ほら、寝袋も持参したし、昨日のタクシー代のぶん、全部食材にして持ってきたんですよ」
「……ここまでどうやって?」
「パパが送ってくれました。ほら、あそこに」
河原から上がったキャンプ場の駐車場で、男性らしき影が両手を振っていた。
「……マジか」
若い子の思い切りというか、行動は理解できない。
彼女は二十歳で、俺は三十路。十歳も離れているのだから当然だ。
生まれた時代も、聴いてきた音楽も違う。
もしかしたら、義務教育のカリキュラムすら違うかもしれないのだ。
「あれ、なんで笑ってるんですか?」
「え」
どうやら俺は笑っていたらしい。無理やり口角を横に伸ばして、顔を引き締める。
「では、とりあえずやる事を済ませますね」
スーパーの袋を置いた彼女は、気をつけの姿勢で俺に向き直る。
「昨夜は、本当にありがとうございました。おかげで私はこうして無事におります」
「いや、そんな大したことしてないから……」
深く腰を折り、彼女は頭を下げ続けている。
「いいえ、貴方の優しさで、私は救われました。明らかに不審な私に何も聞かず、温かいワインや美味しいお肉を振舞ってくれて、さらにタクシー代まで内緒で払ってくれるなんて。なかなか出来る事では無いと思います」
……ん?
だいぶ良い方に誤解されてる気が。
肉を焼いたのは、彼女が美味そうに食べていたから。
タクシー代は、保護責任者なんたらに抵触しないように、社会人としての最低限の義務を果たしたに過ぎない。
「それに私、けっこうお肉食べちゃいましたし」
スーパーの袋から引っ張り出したのは、牛肉だ。
しかも。
「特選……黒毛和牛?」
なんてこった。
スーパーの安売り肉が、黒毛和牛になって戻ってきた。
出世肉だ。わらしべ長者だ。
これはさぞかしワインと合う、じゃない。
「はい、パパからです。お礼は後日あらためて日取りを決めて」
「ちょ、ちょっと待って」
「はい?」
黒毛和牛のステーキ肉を開封しながら、彼女はきょとんと俺を見る。
「お父さんは、何も言わなかったの?」
「何を、ですか」
何をって。
そんなの決まっている。
「得体の知れない男がキャンプしてる場所に来ることを、だよ」
「そんな男の人、ここにはいません。私は、私を助けてくれた優しいキャンパーさんに会いに来たんです」
真顔で返された。
いや、真顔じゃないな。俺の反応を見て、笑いたいのを堪えてる顔だ。
なんだ。
なんだこの感情は。
久しく忘れていた。
いい歳して恥ずかしいけれど、これはもしや。
「それに私、貴方にときめいちゃいましたから……」
「は?」
「そ、そんなコトはどうでも良いんです。それより鉄板貸してください。あと椅子も」
いやいや。
どうでもよくないよ。
てか、そういうコトを言いながら恥じらわないで。
勘違いするから。
おっさんって、そういう生き物だから。
いろいろと腑に落ちないが、結果俺は黒毛和牛と彼女の弁舌に負けた。
そうとなれば、やる事は決まった。
鉄板を焚き火にかけて、彼女の分の椅子を展開する。
「……こんなおっさんをからかっても、楽しくないと思うけど」
「からかってなんかいません。マジです。本気と書いて、マジです」
どうも昨日とキャラが違い過ぎる。
というよりも、これがこの子の本当の姿なのだろう。
「さあ、今夜も一緒に焚き火を囲みましょう」
次第に嬉しさが込み上げてくる。
年甲斐もなく、心が躍る。
だけど、ひとつだけ。
言わなければならない。
「そのダウンジャケット、あんまり焚き火に近寄ると火の粉で穴が開くぞ」
「ええっ!?」
そんなぁ、という彼女の嘆きが、二月の夜空に木霊した。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
……キャンプ行きたい。