終わりと眠り
・のこされたひと
用事を済ませた私は、地下の病室のドアを叩く。返事がないのはわかっているのでそのまま中に入る。
シュー、シュー、と呼吸器の音が響く部屋で、先生は白いベッドに寝ていた。一日のうちのほとんどを、先生はこうして過ごしている。
私は血に濡れた両手を水道で洗う。すぐに赤色は見えなくなったが、まだ鉄のにおいが残っていた。白衣の袖が少し汚れている。
ハルカ。先生はか細い声で私を呼んだ。そしてすぐにむせてしまう。
その手に握っているボタン一つで駆け付けるというのに、なぜわざわざ名前など呼ぶのだろう。何度か進言したのだけれど、先生は変わらずに私の名前を呼ぶ。
この名前というのも不思議なものだ。先生が作った私の兄弟たちは全員管理ナンバーで呼ばれているのに、私だけがハルカと名付けられた。
「あの子はもう行ったかい」
どこへですか、と言おうとして、先生の言う「行った」というのが、死んでしまったのかという意味だと気づいた。婉曲な表現を理解するのは難しい。
「はい」
ちゃんと言われたとおりに私が殺した。コーヒーにしびれ薬を入れて、苦しまないように大きめのナイフで胸を刺した。
先生は眠っていたから、大きな音を立てて起こしてしまわないように苦労した。人間の体は想定していたよりもやわらかくて、ナイフは簡単に心臓まで届いた。
死ぬ前に彼は「せんせい、なぜですか」といった。私は先生ではないが、彼には見分けがつかなかったらしい。私は先生と同じ顔をしている。
「僕のすべてを君にあげるよ、はるか」
物をあげるという行為は好意を表すものだと知っている。先生は優しい人だ。いつも私に何かあげられるものはないかと探していた。先生の読んだ本はすべて僕の本棚にあるし、お揃いだと言って白衣ももらった。
僕が殺したあの人は、先生のことをあまり好きではなかったようだ。よく、「あいつは狂っている、おかしい」と言っていた。
何がおかしいのか私にはわからないが、もしも本当に先生が狂っているのだとしても、先生は優しい人だ。だからそのことを、私は彼にきちんと説明してあげればよかったのかもしれない。
「多分あの人は、あなたのやさしさを知らないままで死にました。私が何も言わなかったから」
そう告げると、病床のあなたは微笑んだ。
「それでいいんだ」
そしてあなたは死にました。私は先生の研究所の裏にあなたを埋めました。
私はあなたになって、長い長い人生を生きました。
・機械人形と少年のはなし
小さな女の子は私の膝の上でお話をねだりました。私はとある寂しがりの優しい少年と、彼の作った機械人形の話をしました。
「ねえ、それでその子はどうなったの?」
「長い長い旅をしたんです。……だけど、もうすぐそれも終わるでしょう」
「終わっちゃうの?」
「終わるんです。そうやって次に続いていくんですよ」
「終わるのに、続くの?」
「ええ」
小さな女の子は、これから大人になって、たくさんのことを知るでしょう。
機械人形よりももっともっと長い旅をするのかもしれません。
そう考えると、なぜだか泣いてしまいそうな気がするのでした。
先生、あなたのかわいい娘は私を慕ってくれました。その子供も、こうして笑っています。
そして誰も、私があなたの願いをかなえなかったことを知りません。
先生の日誌は残してあるので、もしかしたら、いつかは知ることになるのかもしれませんが。
・僕の罪の話
「はるか」
水音で目を覚ました。室内に取り付けられている水道で白衣の人物が手を洗っていた。
僕は白いベッドの上で細い息を吐いた。普通の人間ならば聞こえないようなささやきだが、彼は振り返った。
「あの子はもう行ったかい」
「……はい」
あの子、というのは彼以外にはただ一人、僕の罪を知る人だ。だから僕は、はるかにあの子を殺すように言った。
彼が遅れて返事をした、その間は罪の意識からのためらいではない。機械人形である彼には良心など存在しないからだ。あれはきっと、「行った」という私の言葉の意味が分からなかったのだ。訂正しようかと思ったが、してもしなくても彼の返事は変わらないだろう。いわれたことはきちんとやる子だ。
「僕のすべてを君にあげるよ、はるか」
はるか。僕と同じ顔の、もう一人の僕。君を見るたびに思う。こんなはずじゃなかった。
思い返せば、もう20年も前のことになる。弟が死んだ、その日から僕の罪が始まった。
双子の弟、遥。僕の半身。欠けてしまった自分。なんとかそれを埋めようと、僕は遥を作ろうとした。そうしていくつも作った機械人形の中で一番遥に似ていたのがはるかだ。
双子といえど僕らは少し違うところもあった。僕はその違いをはるかに教え込もうとした。
だけど時を経るごとに、はるかは遥ではなく、僕に似てくるのだった。それは当然のことだった。はるかは遥を知らないのだから。
「多分あの人は、あなたのやさしさを知らないままで死にました。私が何も言わなかったから」
はるかが淡々とそう告げた。僕が優しいなどとは決して思わないが、そんな風に言うということははるかにとっての僕は「優しい」のだろう。遥はよく僕を「いじわる」だと言って泣いていたが。
はるかははるかだ。彼はもう、だれの身代わりでもない。
僕がはるかに残してあげられるものはそう多くないけれど、彼が残りの時間を笑って過ごせればいい。そのための準備はちゃんとしてある。
「それでいいんだ」
不安そうな顔をしているはるかにそう言ってやる。そう、これでいいのだ。
「もう疲れたから、おやすみ」
さようなら。
・旅の終わり
これはとある機械人形の、旅の終わりの話です。
最近よく視界がちかちかします。頭が痛くなります。ものを覚えられません。歩くのが遅くなりました。体があちこちきしんだ音を立てています。
だからここに帰ってきました。
先生。
お願いですから、私もあなたと同じ場所で眠らせてください。
・少女と祖父の対面
祖父の使っていたその古い研究施設には秘密の地下室がある。
そんな話を昔祖父が言っていた。
そんなにだれもかれもに話していては秘密ではないのではないかと今は思うのだけど、当時は胸を高鳴らせて聞いていたことを思い出す。
その地下室が出てくるのは、「少年と機械人形の話」だ。
機械人形というのは、祖父が作ったコミュニケーション・ロボットのことだ。特別なAIが搭載されていて、生活の補助をしてくれたり、話し相手になってくれる。
機械人形がほかのロボットと違うのは、彼らの能力が「人間を越えない」ように作られていることだそうだ。しかし祖父はある時自分の研究資料の一切を焼き捨ててしまって、今はもう何も残っていない。研究所にも自室にもメモ一枚残っていない徹底ぶりだ。いくつかの機械人形は研究所の外に出たが、あるものは壊れ、あるものは改造され、祖父が作ったままの機械人形は存在しないらしい。
祖父が失踪してから今日で十年がたつ。いなくなった当初にこの研究所の中も調べたのだが、何の手掛かりもなかったと聞いている。私は地下室は探したのかと母にいったそうだが、覚えていない。もちろん地下室などなかったそうだ。今日私がここにやってきたのはその地下室を探すためだ。今更祖父が見つかるとは思っていないが、一度自分の目で確かめておきたかった。
祖父といえば、よくリビングで本を見ている彼の膝に縋り付いて物語をねだったことを覚えている。祖父が話してくれたのはたいていはよくある昔話だったが、「少年と機械人形の話」は違った。機械人形が出てくることから考えると、これだけは祖父のオリジナルか、何かの話をもとにアレンジしたものだったのだと思う。
母は祖父の言っていた地下室のことは覚えていたようだったが、肝心の「少年と機械人形の話」についてはほとんど覚えていなかった。
地下室に入るには、パソコンからロックを解除すればいいだけだ。ただし、特別なパスワードが必要だった。祖父の部屋から持ってきた骨董のようなパソコンをつなぎ、電源を入れる。私はあることを見つけていた。
ユーザーを切り替える。このパソコンは祖父しか使っていなかったし、母は機械音痴だから気づかなかったのだろう。ご丁寧にユーザーアイコンは初期設定のまま、ユーザーネームは空白になっている。
地下室に入るパスワードは機械人形の名前だったはずだ。
私の名前は祖父がつけたらしい。祖父の大事な人の名前だと言っていたが、祖母の名前とは違った。「少年と機械人形の話」がオリジナルならば、これであっているはずだ。
『HARUKA』
そう入力しエンターキーを叩くと、ピー、という高い音がした。間違っていたのかと焦ったが、そうではないようだ。風で木の揺れるアニメーションが始まる。やがてスタート画面に切り替わった。
壁紙は二人の少年の写真だった。
「これが、機械人形?」
写真の人物の下にはそれぞれ名前がローマ字で記されていた。片方には「MADOKA」、もう片方は「HARUKA」だ。円というのは祖父の名前だ。
スタート画面にはフォルダーがひとつピン止めされている。中のファイルは壁紙と同じような写真のようだった。そっくりな二人の少年が並んで写っているものがほとんどだ。
「あれ?」
引っかかりを覚え、首を傾げる。祖父が機械人形を作りだしたのは彼が30になったばかりのときだときいている。写真の少年の片方が祖父ならば、もう一人はいったい誰なのだろう。
飛ばしながらファイルを見ていくと、最後に「地下室」と名前の付いたファイルがあった。それをクリックすると、背後でガタン、という重い音が響く。
振り向くと、作り付けの本棚が動き出したところだった。ぽっかりと黒い四角が口を開ける。恐る恐る踏み込むと、センサーが反応して明かりがついた。
かなり急で狭い階段を、壁に手をついて慎重に降りる。ひんやりとした空間の空気は侵入者を拒むかのように重たかった。
小さな部屋には不自然に盛り上がった白いベッドと、付き添うように椅子に座った黄色くくすんだ白衣の後ろ姿。その背格好が記憶の中にあるものとぴたりと重なる。
「……おじいちゃん?」
返事はなかった。
そっと近寄る。椅子に座った人物が息をしていないことはすぐにわかった。それは人ではなかった。
「これが、機械人形?」
固く冷たい肌に触れると、シリコンの感触が私の指を押し返した。懐かしい感触だった。人形の目じりから漏れたオイルが流れ、涙のような跡を残していた。