5-I 夢と記憶
その日の夜、部屋にお父様がやって来た。
「紋章の力を練習しようか。だけど、その前に一つ話がある」
「なんでしょう?」
「リーナの悪夢のことだ」
言われて少し震える。夢のあの威圧感、そして魔術は決して消えない恐怖だろう。
「夢が何か…?」
「実は、それは夢じゃないんだ」
お父様から衝撃の事実が明かされ、わたしは目を見開く。あれが、夢じゃない……?
「昔、僕たちは王都で暮らしていた。だが、リーナが二歳になったある日、僕がいない時にある一人の男が家に侵入した。彼の名は、ヴィレヒト·マイド·ヴァイス。別名闇の邪王といって、世界中で恐れられていた。そいつはシシーを倒し、リーナの部屋に……」
聞いているうちに、体の震えが大きくなっていく。気づいたお父様が一度言葉を切り、右手を握って優しく頭を撫でる。
「ごめんなリーナ、知っておいて欲しいんだ」
わたしが小さく頷くと、お父様は話を続けた。
「僕が家に着いた頃、リーナの部屋にたどり着いたそいつは、リーナに魔術を……相手を殺す『死の紋章』をかけた」
思わずギュッと目を瞑ったわたしの頭の中に、ある光景が浮かぶ。
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『おじさん、だれ…?』
夜遅くにドアを開ける音が聞こえて起きたわたしは、部屋に入ってきた男に問いかけた。
『我は魔王、ヴィレヒト·マイド·ヴァイス。闇の邪王と呼ばれている』
『まおうさま……?』
『そうだ。お前を殺しに来た』
『どうして…?』
『邪魔だからだ』
不敵な笑みを浮かべる彼に、わたしは恐怖で動けなかった。彼は呪文を唱え、ゆっくりと紋章を紡いでいく。わたしは恐怖で目を見開いたまま。
『邪魔者は消えてしまえ!『死の紋章』っ!』
彼が叫んだ瞬間、お父様が部屋に飛び込んできた。
『リーナ!!なっ、そ、そんな!?』
お父様の顔が青を通り越して白褪め、ヘナヘナと崩れ落ちる。それを見た彼は、ニヤリと笑い、お父様にも魔術をかけようとした。
『やめてっ!!』
言った瞬間、わたしは白い光に包まれた。
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「リーナ、ごめんな、大丈夫か?」
気がつくとわたしはお父様にしっかりしがみついて、震えながら泣いていた。
(お父様、いなくならないで)
「僕はここにいるよ、何も怖くないから」
優しく宥めるお父様にしがみついたまま、しばらく泣き続けた。
「アイリーナ様、起きてください、朝です」
「……ぅえ?あさ……?」
気がつくと、いつの間にかわたしはベッドで寝ていたらしい。いつ寝たんだっけ、お父様が部屋に来て、あの夢が現実だったと言われたのは覚えているけど……
「お風呂を用意してございます」
ミルに連れられ、お風呂に入る。体を洗ってもらうと、湯船に浸かった。ちょうど気持ちいい温度のお湯は、乳白色でほんのり良い香りがする。
「アイリーナ様、こちらを目にお当てください」
ミルに冷たいタオルを渡された。目を閉じてタオルをのせる。
湯船に浸かりながら昨日言われたことを思い出す。あれが現実だったなんて、いまだに信じられないわ。でも、頭の中で見たあの光景は、夢よりずっとハッキリしていた。
(本当にあったのね………)
そこでふと気づく。
(あれ、今までより怖くない?)
昨日までは夢に見るたび、思い出すたび、震えていたのに、今は震えない。もちろん怖いけれど。
(お父様のおかげね、きっと)
目に当てたタオルが温かくなってきた頃、わたしはお風呂からあがった。体も心も芯から温まっている。
「アイリーナ様、今日は昼過ぎからダンスのレッスンです」
わたしを着替えさせ、髪を結いながらミルが今日の予定を告げる。
「それと、テオドール様がお呼びです。出来るだけすぐ来るように、と」
「お父様が?わかったわ」
準備が終わって部屋を出ようとドアを開けると、目の前に背の高い人が立っていた。
「ジル兄さん?」
ミルが疑問の声を上げる。目の前にいたのは、ミルのお兄さんのジル。ミルと同じ茶色の髪と灰色の瞳を持つ彼は、お父様の執事をしている。
「テオドール様に言われて、アイリーナ様を迎えに来たんだ」
ジルはミルにそう言うと、こちらを向いて微笑む。
「テオドール様のところへお連れいたします」
「うん、よろしくねジル」
ゆっくり歩くジルについて行くと、今まで来たことがないところに入った。
「ジル、ここはどこ?」
「テオドール様の執務室の近くでございます。ここにいらっしゃるのは初めてですか?」
「うん、初めて来たわ」
あたりにはきれいに花が生けられている大きな花瓶が等間隔に並べられている。興味津々で見回しながら歩いていると、ジルがあるドアの前で立ち止まった。
「テオドール様、ジルでございます」
「入りなさい」
ジルにドアを開けてもらい、部屋に入る。そっとドアを閉める音がした。お父様は書類がたくさん積まれた大きな木机の後ろで書類を手にしている。その顔は真剣そのもので、街で魔術を使った時と似ている。
(お父様、お仕事する時はこんな顔をするのね)
少ししても顔を上げないので、わたしは部屋の中を見回す。壁に取り付けられた大きな黒い本棚には政治や法律、魔術などの難しい本がずらっと並んでいる。わたしの白い本棚とは比べ物にならないくらいたくさんの本。いつか読んでみたいと思う。
足元には暗めの赤色の絨毯。全体的に落ち着いた雰囲気のこの部屋にぴったりね。ちょっと歩いても全然足音が聞こえない。
わたしがある程度部屋を見回した頃、お父様が口を開いた。
「ジル、何の……リーナ?」
顔を上げたお父様は目の前のわたしを見て目を瞬いた。
「いつからここにいた?」
「さっきジルに入れてもらいました」
「そ、そうか。待たせてごめんな」
立ち上がったお父様は、ついておいでと言って隣の部屋に移動した。お父様に続いて部屋に入る。そこは、元いた部屋と同じような雰囲気だったけれど、本棚と机の代わりに黒革のソファーがあった。お父様の目の前に座る。
「昨日のことはもう大丈夫か?」
「はい、お風呂でいろいろ考えたけど、大丈夫です」
「よかった、目も腫れがひいてるな。温泉のおかげかな」
「目が腫れて……?」
「うん、泣き腫らしてたからね、僕とシシーの魔術で温泉を用意したんだ」
「お風呂気持ちよかったです」
よかったと微笑んだお父様は、それでね、と続けた。
「僕と魔術の練習するって約束したよな」
「魔術の先生が見つかるまでですよね」
「そう、それなんだが、父上にリーナのことを伝えたんだ。そうしたら、一度自分と国王陛下、魔導師長に会わせてくれって言われてな」
「お祖父様と国王陛下と魔導師長さまに?」
「ああ、どちらにしろ魔導師長様には会うんだけどな」
魔力測定の時にな、そう言ったお父様はため息をつく。
「王都に行ったら、王宮で魔力測定をする。その時にその三人に会うことになった」
「会うだけでいいの?」
「何か聞かれるかもしれないけど、それは心配しなくていい」
「わかりました」
わたしが頷くと、お父様はごめんなと言って頭を撫でた。