62-C 兄上の婚約者
「シリウスが婚約者を連れてくるから、お前も会いなさい」
僕は何を言っているのか咄嗟には理解出来なくて、思わず聞き返してしまった。
「ち、父上…?何と仰いましたか?兄上が、婚約者を……?」
「そうだ、やっと決める事が出来た」
珍しく嬉しそうに告げる父上だったが、僕はそれどころではなかった。
あの兄上が婚約!?そうだよな、理屈では分かる。一国の王子として、婚約者がいるのは何もおかしくない。ただ、いつも僕と遊んでくれていた兄上と婚約が上手く結びつかない。真面目で、頭も良い兄上。分からない事があれば、優しく教えてくれる兄上。魔術も上手に使いこなし、学院で令嬢に囲まれるのがうんざりだと言っていたのに。
「兄上は、嫌がってませんでしたか?」
「シリウスが嫌がる?とんでもない。寧ろ自ら婚約を申し込んだのだ」
「自ら!?」
信じられない。婚約者は一体どんな子なんだろう。あの兄上を虜にするなんて。
そして、父上はもう一つ重要な事を言っていた気がする。確か、『お前も会いなさい』……
「父上、僕も会うのですか?」
「そうだ。将来王家に入るのならば、お前の事も知っていてもらわないと困る」
「ですが、呪いは……」
僕が一番気にしている事に触れると、父上は複雑な顔つきになった。深くため息をつくと、迷いつつ口を開く。
「僕もそれは悩んだ。だが、シリウスや父上に聞いた話では、その子なら大丈夫だろうという事だった。会った事がないから僕としては何とも言えないが」
「そうですか……」
祖父上が言うのなら、大丈夫な気がした。それに、レオンハルトの事もある。少なくとも一人は味方がいる、大丈夫、怖がる事なんてない。漸く僕は覚悟を決めた。
「分かりました、お会い致します」
「ありがとう」
会うと告げると、父上は辛そうな顔になった。そして、僕の頭に手を載せる。今まで父上にそんな事をされた事などなかったので、僕はかなり驚いて、思わず父上の顔をじっと見てしまった。
「ごめんなクラウス、辛い思いをさせる事になるかもしれない」
確かに、どうなるか、どんな反応をされるか分からないのは不安だ。だが、それ以上に父上に撫でられている、心配してもらっているという安心感の方が大きかった。
そしてついに、兄上が婚約者を連れてくる日になった。久しぶりに自分の部屋から出た僕は、父上に連れられて父上の休憩室に向かった。もちろん呪いのせいで途中誰にも会う事はなかった。
休憩室に入り、言われるままそこのソファに座る。すると父上はしっかり僕を見つめて大丈夫かと問いかけてきた。
「大丈夫です」
「……では、連れてくるから少し待っていろ」
それだけ言い残して部屋を出て行った。残された僕は部屋を見回す。僕の部屋よりも数段豪華なその部屋では、シャンデリアが煌めいている。足元には僕ら王族の印である銀色のふかふかのカーペット。壁に備え付けの本棚には政治に関する本がたくさん入っている。
父上を待つ間、僕は落ち着かなかった。期待と不安が入り交じる。レオンハルトみたいな人だったら良いな。だがアイリスがいない以上、それは無理な願いだろう。常にアイリスと一緒に会いに来るレオンハルトは、呪いがかかっている僕には会っていないから。
いい加減待ちくたびれてきた頃、ドアを叩く音がした。
「入るぞ」
一声かけてドアが開けられる。僕は素早く立ち上がって皆が入ってくるのを待った。
「待たせたな。クラウス、連れてきたぞ。シリウスの婚約者、アイリーナだ。アイリーナ、これが私の次男、クラウスだ」
「初めまして、アイルクス王国第二王子、クラウス·サン·アイルクスです」
「お初にお目にかかります、セイレンベルク公爵家長女、アイリーナ·フォン·セイレンベルクと申します」
兄上の横でしっかりした礼をとった後、滑らかなピンクがかった金髪を揺らして顔を上げた兄上の婚約者。黄色いドレスが良く似合う美しい彼女が僕を見て、その空色の瞳に怯えの色が見えた。僕は落胆する。
ああ、やっぱり期待なんてしない方が良い。彼女は今、セイレンベルク公爵家長女と名乗ったから、レオンハルトの姉だろう。そんな彼女でも僕を見て逃げていくんだ、やっぱり会わない方が良かった。
いつの間にか俯いていた僕に、誰かが歩み寄ってくる気配がした。だが僕は顔を上げる気にはなれなかった。少なからず期待していた自分が嫌になる。こうなる事は分かっていたはずなのに、逃げられるのはいつもの事なのに。涙が溢れてきた。
僕の前で立ち止まった人影は、そっと僕の方に手を伸ばして頬に触れた。温かい手。きっと兄上が慰めに来てくれたんだな。
「傷つけてしまったみたいで、ごめんなさい」
だが、すぐ側から聞こえてきた声は、兄上の物でも父上の物でもなかった。嘘だ、そんな事あるはずがない。半信半疑で顔を上げた僕の目に、眩い金色の光が飛び込んできた。
「そ、んな、どうして……」
「貴方は何も悪くありませんわ。それなのに見捨てて逃げる事なんて出来ませんわ」
僕より頭一つ分だけ高い彼女は、少し身を屈めて僕と視線の高さを合わせてくれていた。溢れてくる涙を手で拭ってくれる。
「……実は、シリウス様も、わたしが初めてお会いした時はこうして泣いていたんですよ」
彼女はまるで内緒話をするように、懐かしそうに囁く。僕には信じられなかった。だってあの兄上が今の僕みたいに泣いていたなんて、想像もつかない。兄上の秘密を知ったみたいで、少しだけ気が楽になった。それが伝わったのか、彼女も微笑んだ。
その微笑みを見て、僕の頭の中で何かが繋がった。あの日見た金髪の女の子、その飼い猫を連れているレオンハルト、そしてその姉の目の前の彼女。
そうか、この人は、あの時の女の子だ。
その後の事は正直あまり覚えていない。ただ父上が良かったなと言ってくれた事と、兄上にリリーは僕のだからなと釘を刺された事は朧気ながら覚えていた。それだけ衝撃が大きかった。僕から逃げるどころか、近づいて来た人は初めてだ。それも、呪いが効いていながらなんて、他にいないのではないか。
そんな彼女、アイリーナ嬢はもう一度僕に会いに来た。それも、特大の贈り物を持って。
その日は兄上達のデビュタントの日で、王宮全体が騒がしかった。ただ、僕らの私室、寝室は少し離れた所に作られていて、相変わらず騒がしさとは無縁の生活だった。
そこに、兄上がタキシード姿で現れた。白地が基本で、そこに所々銀糸で刺繍が入っていた。その後ろから、アイリーナ嬢が入ってきた。今日は滑らかな髪を軽く巻き、瞳の色に似合う淡い水色のドレスに身を包んでいた。胸元には大きなサファイアのブローチが輝いていて、それが華やかさを際立てていた。
「クラウス、急に来てごめんな」
「いえ、それより何かあったんですか?」
「わたしがお願いしましたの」
僕の部屋には、華やかな二人はそぐわない。それに、これからダンスパーティーが始まるという時に、わざわざ来るような所では決してない。
混乱気味の僕の目の前で、彼女の瞳が金色に輝いた。
「……"強大なる光の精霊よ、我、その力を以って、かの者にあらん限りの祝福を与えん、『天女祝福』"」
彼女が唱えるのは、光属性最上級魔術。命の輝きが失われていない限り、あらゆる病気、怪我、果ては呪いまで治してしまうという、伝説級の魔術。
僕の頭がそれを理解する前に、眩い光が僕を包み込む。眩しさに目を閉じたが、そこには全てを包むような安心感があった。
光が収まって目を開ければ、満足気に微笑む彼女と、呆然と口を開けたままの兄上がいた。普段決して見せない兄上の姿に、笑いが込み上げてくる。それに、心も体も軽くなった気がした。
「クラウス、お前、その顔……」
兄上がやっとの事で呟いた。顔がどうしたんだ、どうせいつも通り焼け爛れた頬の男の子がくすんだ目で見てくるだけだ。だが、兄上がそこまで驚いている事に興味を持って、引き出しから取り出した鏡を覗き込んだ。
「!?なっ、まさか………」
見つめ返してきたのは、しっかりと輝きを取り戻した薄緑の瞳。頬の跡もきれいさっぱり消えていて、青白かった肌はほんのりピンクに染まっていた。くすんだ灰色の髪も、王族である証の輝く銀色を取り戻している。顔立ちは兄上とは違って母上に似ていて、そして兄上と同じように口を開けていた。
これは、夢なのか?こんな、呪いが解けるなんて都合の良い事が現実に起こるはずがない。そっと頬に触れれば、もっちりしている。そのまま思い切り抓った。
「……痛い………なら、これは……」
呆然と呟く。つまり、これは現実で、僕にかけられていた呪いは、解けた?何をしても決して解けなかったあの呪いが?
まだ混乱したまま、僕は顔を上げた。優しく僕を見てくる彼女は、まるで光り輝いているように見えた。




