リンゴの皮が
家庭科の時間は、調理実習だった。
ユキは、リンゴの皮をむいていた。
メイン料理は別にある。野菜炒めとポテトサラダとスープ。リンゴは単なるデザートだから、皮を奇麗にむこうがどうしようが、そこまでこだわることではない。
だが、ユキがリンゴの皮を二周むいたあたりで、同じ班のキララが急に
「ユキちゃん、すごーい!」
なんて言ったものだから、だれもが調理の手を止めていつの間にか周りに集まってきた。
キララの言い方はわざとらしかったが、集まってきたみんなは「ほんとすごいや」と感心しているし、麻衣先生も、うれしそうにのぞいている。
「村田さん、皮むきの名人だねえ」
ユキの手が急に汗ばんだ。ワックスでつややかなリンゴが滑って、つい取り落としそうになる。だが
「ユキちゃん、がんばれ!」
クラスの中でもすぐに感動して泣くミナミという子が大声でさけんだ。
わきにいた高津という男子がちょっと変な笑い声を上げそうになった。が、誰かのせきばらいであわてて笑い声をひっこめる。
その間に、ユキはぐっと手に力を入れて、ようやくリンゴを支え直した。
おおー、と周りがどよめく。
「落とさなくてよかった」
「続きもがんばってね、ユキちゃん」
「ユキ、器用だからな」
周りからの賞賛の声が、何となくむず痒い。
「皮の長さ、どのくらいになるんだろう?」
ふいに誰かがそうつぶやいて、あたりはいっしゅん、しん、となった。
もうだれも、調理なんかしていない。
ユキだけは真剣な目でリンゴを前にかかげ、くるくると皮をむき続けている。
「もしも一メートル以上の長さになったら」
麻衣先生がうれしそうに言った。
「この学校始まって以来の、新記録だよ」
すげえ、と男子のひとりがため息とともにつぶやいた。
皮の長さの新記録なんて聞いたことがない。
「いつからそんな記録があるんですか」
と聞いてみたくもあったが集中力が途切れるのが嫌で、ユキは手を止めることなく、リンゴを小刻みに回して皮をむいていく。
天然だろうがなんだろうが、このツヤが不快だ。普段は気にしたこともなかったのに、いやにツルツルする。
すぐ近くで息をつめて見守っていた、心配性のカナが悲鳴に近い声を出す。
「ねえちょっと! 少し皮が薄過ぎない?」
ユキの心拍が急激に早まる。あわてて包丁をわずかに内側に向け直してから、手を少しだけ休ませた。
言われた通り、皮がうすくなってすけて見える。
長さに気をつけようとしたばかりに、幅もかなり狭くなっていた。ちょうど手元から出ようとしていた皮は、すでに幅三リ程しかない。
「大変!」
後ろの方から誰かが叫んだが、もはや誰も笑わない。
そこにいる全員、ユキのリンゴに目がくぎ付けだ。
ユキは手にかいた汗をエプロンでふき取ろうとした、だけど、どうしても、包丁からもリンゴからも手が離せない。
片手ずつ持ちかえてエプロンでふけばいい。いつもならば普通にやっていることだ。なのに、なぜか今に限って、それができない。
どうしてこんなに重い包丁を使ってしまったんだろう、ユキはリンゴを切る前に、同じ班のミチエから包丁を受け取った時のことを思い出していた。
みっちゃん、「これでいい? 小さいの使ってるから」って言ってたけど、あの時何も切ってなかった。
みっちゃん、私にわざとこの包丁を渡したの?
最初は切り易いと思ったけど、でも重い。いつまでも皮をむき続けるには、これは重すぎる。
ユキは見物に徹している群れの中からミチエの姿を探そうと目を上げた。
「あぶない!」
また誰かが叫び、ユキはぎょっとなって眼を戻す。
「よかったー」すぐ前にいたワカナがつぶやいた。「今、途切れちゃうかと思った」
良かった、と言いながらもどこか他人事みたいな脳天気なコメントに、ユキはぎりりと奥歯を噛み合わせ、それでも重い包丁を構え直した。
すでにリンゴの半分以上まで皮むきが済んでいた。そして、テーブルにうずを巻いている皮は、今では、幅数ミリ程度だ。
細い皮の帯が少しずつ高く積み重なっていく。
ユキは皮が重みや衝撃で千切れないよう、かつ、包丁の柄がテーブル面にふれて手元がくるわないようにリンゴを絶妙な位置で支え、自分は前かがみになって手元だけを見つめる。
手先が、いやひざまでもが小刻みにふるえているのが、自分でもわかる。
「がんばれ!」まわりの声援はすでに泣き声に近かった。先生まで涙目のようだ。
「村田さん、途中で切らないでね」
はい、と答えたつもりだったが、声が出なかった。ユキは咳払いもあきらめ、目の前に集中する。
ユキに突き刺さるいくつもの視線に、肌が焼けるようだ。
「もし切れたらどうなるんですか、先生」
後ろの列でのぞいていた学級委員長の谷が訊いた。
冷静な口調だが、緊張だろうか、言葉じりがかすれている。
先生は返事をしない。ミナミが早口で
「どうなっちゃうんですか? 先生!」
ねえ、ねえ、と先生の肩をゆさぶっているようだ。
揺さぶっている振動らしきものが、ユキの左頬に波のように当たる。かすかなそよぎにも近いが、ユキはそちら側の頬をぴくりとひきつらせた。
日がかげり急に教室がうす暗くなる。雷が遠くで鳴った。すぐに灯りがともされた。
カナが激しく泣き出した。「こわい」
カナの熱い息がユキの手に当たり、ユキは思わず身をよじった。
「お願い、ユキちゃん。もういいから、止めて、おねがい」
「やめろよカナ、ジャマすんな!」
乱暴な腕がいくつも、カナをユキの近くから引きはがし、後ろにつき飛ばした。
がつん、と大きな音が響いてユキはびくりと身をふるわせた。ポテトサラダのジャガイモを潰すのよりももっと激しく、柔らかい何かを叩き潰す音が止まず、合い間に激しい息づかいが聞こえる。ユキは、気づかぬふりをして手元に全神経を集中させる。
「村田さん……切っちゃだめだよ、絶対に」
先生の囁きすら、がんがんと頭に響く。
目に入った汗もふけず、手元から目をはなせず、ユキはようやく質問を声に出した。
「何が……起こるんですか?」
すでに変色しかかったリンゴの肌色と、包丁の鋼色と、細く紡ぎだされる赤。
すべてが形をとどめず、滲んだように融けあう、焦点が合わせられない。見えない。
もしかして私の声も聴こえていない? ユキは声を振りしぼる。
「何、が、起こ……」
「集中しろ!」怒声がユキに浴びせられる。
ようやく、麻衣先生の声が届いた。
「何が、起こるんだろうね……」
「たいへん!」大声が重なった。「……皮が」
あと少しですべてむき終わるというところで、ぷつり。皮はとぎれ、そして。
周囲の灯りがいっせいに消えた。ユキが包丁を振りかざしたのと同時に。
(了)