第四章 美麗VS
昨晩は、あれから大変だった。
まず、家に帰るなり魅麗に怒られた。『連絡もしないでこんなに遅くまでどこに行ってたの』って。ちょっと涙目だった。電話してくればいいのに、と思ってケータイを見たら、着信履歴と受信メールがすごいことになっていた。学校では着信音を切っていて、そのままにしていたのを忘れていた。土下座して謝った。
魅麗のお説教の次はライムだ。『それでサトキさま、お醤油は』って聞いてくる。公園に忘れてきた、って言ったら、こんなときどういう顔をしたらいいかわからないの、って感じの顔をしたので、公園まで走って取りに行った。醤油はベンチの上にあった。ルビーアイはもういなかった。すごく疲れた。
ベッドの上でぼんやりと昨晩の出来事を回想してから、聡樹はのっそりと起き上がった。
正直、寝起きは爽やかではない。外は憎らしいほどの五月晴れなのに、心の中はロンドンどんより曇り空だった。身体も筋肉痛で、主に脚がだるい。
「……よし」
だけどいつまでもどよどよしていても仕方がない。気持ちを入れ替えてベッドから抜け出し、学校の制服に着替える。着替え終わった頃に、ケータイの目覚ましが鳴った。
一階に降りて顔を洗ってからダイニングへ向かうと、すでに朝食の用意は完了していた。
作ったのはライムで、メニューは洋食だ。注文をしたのは魅麗で、なぜか魅麗はライムに和食を作らせない。魅麗は洋食好きで、今まで聡樹に合わせて和食を作ってくれていたのでその反動だろうか。
事実ライムの作る洋食は美味しいので夢中になるのもわかる。聡樹としてもまったく不満はない。
三人揃ってテーブルを囲み、みんなで一斉に「いただきます」をする。
朝食の品目は、小型の丸いパンと、澄んだ琥珀色のスープに、レタスとタマネギのサラダ。デザートには青リンゴソースのかかったヨーグルトがあった。
聡樹はまず、掌サイズの丸いパンを一つ手に取った。ほのかに温かくて、香ばしい匂いが漂ってくる。少し不思議に思いながら、パンをちぎって口に入れた。
「うまっ」
気が付いたときには、口から驚きと賛辞がこぼれていた。
ふんわりとした口当たりのパンは微かな甘みがあり、さながらわたあめのように舌の上でスッと溶けた。
うまい。このパンは明らかに普通のパンとは違うと、ロールパンとコッペパンの違いがわからない聡樹にもはっきりとわかった。
「ライム、このパンどうしたんだ?」
まるで超一流のパン職人が焼いたような美味しさだ。こんなパンを一体どこで手に入れたというのか。
聡樹の疑問にライムは手を合わせ、にっこり笑って答えた。
「はい、私が焼きました」
「え、マジで? こんなにうまいのを?」
「立派なオーブンがあったので、使ってみたくなってしまいまして。そんなに美味しかったですか? えへへ、褒めていただいて光栄です。おかわり、いっぱいありますよ」
聡樹は素直な感想を口にしただけだが、ライムはすっかり気をよくしたようだ。自分の分のパンを聡樹の皿にひょいひょいと移してくる。ライトな朝食がヘヴィな量になった。
(がんばれ、俺の胃袋。でも、ほんとに美味しいからこれくらいいけるかもな)
しかしそんな微笑ましいやりとりを、険悪な目付きで見つめる少女が一人。
「お兄ぃったら、デレデレしちゃってさ。あたしの料理だって、そんなに褒めてくれたことないじゃない……」
ぶつぶつと聞こえてくるそれは、まるで呪いの言葉のように聡樹の精神を蝕んでくる。
このままでは正気度を表すサニティの数値がゼロになり発狂しそうだったので、聡樹はぎこちない笑みを浮かべて妹の方を見た。
「あのー、なにかな、魅麗?」
「別にぃ~」
別にとは言うが、魅麗はゾンビのように濁った瞳で見てくるのをやめてくれない。
ライムも場に充満し始めた障気を察知してオロオロしている。
魅麗を御することができるのは、兄である自分しかいない。聡樹は使命感を胸に、伸るか反るかの賭けに出ることにした。
まずはできる限り明るい笑顔を作り魅麗に向ける。
「魅麗、お前も食べてみろよ。このパンすげーうまいぞ」
「あたし今そんなにお腹空いてないし」
長い髪を指先でもてあそびながら気だるそうに返してくる。
さすがに手強いが、ここで折れたら兄貴が廃る。聡樹は攻めの手を緩めない。
「いーから、一口食べてみろって。そしたら今の俺の気持ちがお前にも伝わると思うからさ」
魅麗の目を見ながら「な?」と最後の一押し。
「……わかった。お兄ぃがそこまで言うなら」
不満げに唇を尖らせながらも、魅麗は了承してくれた。こうなったら、後は魅麗次第だ。
魅麗はパンを手に取り、ちぎって口に運ぶ。
聡樹はその一挙一動を手に汗握りながら見守る。
魅麗はもぐもぐと小さく口を動かして、こくんと喉を鳴らした。
「どうだ?」
聡樹は恐る恐る、感想を尋ねてみる。
魅麗は形のいい眉をぐにゃりと歪ませ、唇を横一文字に結んで、なんとも言えない表情をしていた。
それから、もごもごと口を動かし、ぱくぱくと開けたり閉じたり。なにか言おうとして、でもやっぱりやめて、といった感じだ。
(がんばれ魅麗、お前なら言えるはずだ。素直な自分を見せるんだ)
生まれたての子馬が自分の足で立とうとしているのを見守るように、聡樹は魅麗の言葉を待った。
そして、ついに魅麗は観念したように口を開いた。
「……おいしい」
「みれ――」
「本当ですかミレイさんっっ」
聡樹がなにか言うよりも早く、ライムが喜びの声を上げた。
ライムは驚く魅麗の手を取って握りしめ、エメラルドの瞳を輝かせる。
「ちょ、ちょっとあんたなにする――」
「嬉しいですっ、ミレイさんに美味しいって言ってもらえるなんて。ミレイさん、なかなか感想を言ってくださらないから、お口に合っているかどうか不安で心配で……。美味しいって言ってもらえて本当に嬉しいです」
もうこれ以上は喜べないんじゃないかってくらい、ライムは嬉しそうだった。
魅麗は頬をリンゴ色に染め、恥ずかしそうにライムから視線を逸らし、口の中でもごもごと喋る。
「おいしかったわよ。今までの料理全部。あたし、洋食好きだし」
「ミレイさん……っ」
ライムは目をうるうるさせ感極まっているようだった。
魅麗はどうにもやりにくそうに、やっぱり口をもごもご動かす。
「あのね、ライム」
「はい、なんでしょうミレイさん」
「お兄ぃはさ、和食が好きなの。だから、今晩は和食にしてあげて」
「……! はいっ、任せてくださいっ」
「うおおおおおぉん、魅麗ぃぃ~っ」
「ちょっ、お兄ぃ、なんでいきなり泣き出すのっ?」
涙を噴水のごとく撒き散らす聡樹に魅麗は慌てふためき、ライムも目を丸くしている。
「い、妹のっ、成長をっ、ぐすっ。この目で見れたんだっ。俺、嬉しくって、嬉しくってさぁ……っ」
「もうっ、お兄ぃったら、大げさなんだから……」
苦笑いではあるが、ようやく笑顔を見せてくれた魅麗。
聡樹の『美味しい食べ物は人を笑顔にする大作戦』は、見事に二度目の大成功を収めたのであった。




