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僕は夏の暑さにぐったりしながら、自宅の玄関を開けた。 「ただいま」「おかえりなさい。達哉」と、返事が帰ってきた。
返事を返したのは、僕の母。専業主婦をしている。トントンと、台所の方から包丁のリズミカルな音を立てていた。今日の夕飯はなんだろう?
靴を脱ぎ捨てて、自分の部屋に移動。汗だくの服を選択かごに放り込み、Tシャツとハーフパンツのラフの格好に、急いで、 台所に直行し、冷蔵庫の麦茶のボトルに手を伸ばした。やっぱり、夏と言えば麦茶!これこそが日本の夏である。
麦茶のボトルを左手に持ち、コップに麦茶をそそぐ。(あー生き返る!) キンキンに冷えた氷の入った麦茶を飲んで満足した。一杯では、物足りないので二杯目、三杯の飲み干した。飲み干した分だけ、額からすぐに汗が流れたが、その汗が心地良いので、気にはしなかった。
「あらあら、お父さんがビール飲む時みたいな事を言っちゃって、おじさん臭いわよ」 振り向くと、両手一杯のそーめん盛りを持った、 母が立っていた。(夕飯はそーめんなんだ…)僕の視線は山盛りのそーめんに夢中になっていた。
母が作ってくれた、そーめんをズルズルと食べながら、母と話をした。
「あんた、勉強とかは大丈夫? 」
「うーん、何とか普通に勉強はしてるけど…つーか、毎回この話だよね? 」
「心配してるのよ!お父さんはあまり刺激をするなって言われるけど、私は心配なの!」
「わかってるよ!勉強頑張ってるから大丈夫!」
毎回の夕食になると、このやりとりをしてる。この年頃ならどこの家庭でもあるのではないだろうか?
「あ!そー言えば、百合子ちゃんのこと聞いた?」
ズルズッ! 僕は、食べていたそーめんを途中で止めた。そして、目線だけを母に返した。
百合子とは、僕の家の二軒隣に住む幼馴染みである。百合子の母と僕の母が、物凄く仲が良い。たぶん、同い年の息子娘がいるので自然と仲が良くなったのかもしれない。幼稚園から小学校低学年までは、お互いの家で泊まりあったり、一緒に風呂に入ったりしていた。本当に男女の幼馴染みのテンプレを再現したような関係であった。 いつからだろうか?小学校の高学年ぐらいから、あまり話をしなくなり、中学校では、全く話をしなくなった。勿論、「一緒に帰ろうっ! 」的なイベントもない。クラスも1年生から3年生まで、同じになることはなかった。【その接点がなくなったのも疎遠の原因かも……】
「百合子ちゃんがね!聖女高校を受けるんだって!凄いわよねぇ!! 」
母は話をした。
聖女高校は、この地元にある私立女子高で、そこそこの中流家庭かその上流家庭の女子が通う事で有名である。(すべての女子生徒が物凄いお金持ちではない、普通の家庭の女子もいるはず)
所謂、お嬢様学校である。しかし、ただのお嬢様学校ではなく、偏差値もそこそこ高い事も有名である。(校風も文武両道的な事を聞いた。)
……
「へぇ……すごいね」
僕は興奮した母とは反比例するように、冷静にそーめんを食べることを再開した。
「だから、達哉!百合子ちゃんに頑張れって言ってやりなさいよ!百合子ちゃんきっと喜んで頑張るわよっ!」
…正直、いらん迷惑だと思う。時々、廊下ですれ違う時があるけど、「百合子!頑張れよ!」って声をかけたら「うわ、なんなの…この人おかしいよ」って思われるに違いない。交流なんて何十年もしてないから、余計に思われる。
「うん… 学校であったら言っとくヨ」
僕は、今年の夏に初めての嘘をついた。母を傷つけないような【やさしい嘘】である。僕も大人になったなぁ……
「だから、あんたも頑張んなさいよ!百合子にふさわしい男になるようにさ! 」
母は何を考えてるの?付き合ってると思ってるの?そーめん茹ですぎておかしくなったの?
「はは……頑張るヨ」
神様ごめんなさい。僕は、また今年の夏に二度目の嘘をついてしまいました。愛想笑いも同時に……
そして、話を終わったタイミングで、僕は麦茶を飲んだ。嘘をついてしまった心を冷静にするためでもあるし、単純に喉が乾いた。
やはり、氷入りの麦茶はうまい。この冷たさが、僕の体に染み渡っていった…
飲み干した麦茶入りのコップを見て、母が声をかけてきた。
「あんた、いつ麦茶に氷いれたの?」
変なことを聞いてきた。
氷? いついれた? は?
確かに、氷はコップに入れてある。僕が無意識に冷凍庫の棚から、キューブアイスを入れたのだと思う。【無意識って怖いね】
「いや、多分、僕が入れたんだよ。冷凍庫開けてさ」
「でも、私はずっとそーめん茹でるために台所にいたけど、あんたは麦茶しか取ってなかったわよ」
「…… そうだよね。…… 細かいことはいいんじゃないの?僕が無意識に氷入れたんだよ!そうだよ!きっとそうだ! 」
突然の『何故氷が? 事件』始まった。家の母は、細かいとこに目が届く。「歯を磨くときは水道出しっぱなしにしないの? 」とか「ちゃんと、靴下履きなさい」とか言われる。はいはい。と、言いながら、僕は従っている。「うるさいな」と思ったことは何回もある。だけど、蔑ろには出来ないと思っているので、きちんと守ってるが……今回の麦茶の氷は、どうでも良い様なことだ。
だが、母は食べ終わったそーめんざるに指をさして、こう言った。
「だって、私がそーめん作る為に冷凍庫の氷を全部使っちゃったのよ。冷ます為とか、暑くならないようにそーめんの上にまぶしたんだから!」
確かに……そうだっ……
また、新しく氷を作るのだったら、直ぐには水は凍らない。というか、アイスキューブの容器は流し台にあったな!【視線を母の後ろ側移すとアイスキューブの容器が洗浄待ちの状態であるのが見えた】
……
テーブルで向かい合っていた親子に沈黙が訪れた。
僕は、冷静にコップに残された氷を眺めた。何の変哲もない一口大のキューブアイスが3個…何処から?いや、どうやって氷を手にいれた? 僕の頭の中は、氷、氷と一杯になった。
それは、強く念じる様に、頭の中をぐるぐると回っていった。
ジャラジャラジャラッ。
その時、右手の掌から妙な音が響き。そして、フローリングの床に大量の氷がぶち巻かれた。
「「ええっ!」」
母と僕は同時に声を上げた。
母は震えながら
「あ……あんた、氷……氷がでてっできたわよっ!」
僕は、床に散らばる氷を見つめることしかできなかった。