第9話
「・・・で、女に置いてきぼりを食らったと、古賀裕一が」
迎えに来た秘書、もとい弟は明らかに肩が震えていた。
「・・・うるさい」
「最高だね、義姉さん」
弟の言うとおりである。
女を置いて帰ったことはあっても、おいて帰られたという経験は初めてだった。
「にしても、兄さんが結婚したい相手がいるって聞いたときは一体どうしたのかと思ったけど、まさか、深山さんに惚れてるなんて思わなかったよ」
「知ってるのか?」
「知ってるも何も有名だよ彼女。あれ、兄さん知らないの?」
寝耳に水、というか、弟が秋穂のことを知っていること自体今、初めて知った。
「んー、深山さんってさあ、叔父さんの秘書してるせいか本社にも来るんだけど他の会社にもよく行くみたいなんだよね。しかも、あの優秀さに本人無自覚みたいだけどあの綺麗さでしょ、狙ってる連中は多いみたいだよ。秘書としても女性としても」
「そうか」
「けど、彼女にしたいって連中はみんな撃沈。叔父さんの所よりも好待遇で雇うっていう会社も断ってるみたいで、叔父さんとできてるんじゃないかって噂もあるくらいだよ」
「・・・」
なんともおもしろくない噂である。
「そんな目に見えて不機嫌にならないでよ」
「なってない」
「はぁ」
確かに、おもしろくはないが、目に見えて不機嫌になったつもりはない。
「その顔、叔父さんの部屋に行くまでに直しなよ。俺も義姉さんになるなら深山さんが良いからさ、怯えさせないでね、逃げられるよ」
逃げられるほど怖い顔をしてはいない、と思いつつも、いつも通り作り笑いを顔に貼り付け社長室に向かう。
集まってくる視線にうんざりしつつも、社長室の前までやってきた。
「仮に、君の身に仕事を辞めてしまいたいと思うほどの出来事があったとして、辞めてからどうするのかな?」
という声が社長室から漏れ聞こえてきた。
思うに、秋穂が辞表を出したのだろう。なんと、対応の早いことか。
音をさせぬように扉を開けると、叔父と目があった。
「ものは相談なのだが深山くん、本社に行く気はないかな?」
「はい?」
「君は優秀な秘書だから僕も手放したくはないんだけれど、君は仕事を辞めたいって言うし、本社の誰かさんは君を自分の側に欲しいと僕を脅すんだ」
どうかな?っと言った叔父の視線は彼女ではなく明らかに俺の方を向いていた。
それをいかぶしんだのか、秋穂もこちらを向き、俺の顔を見ると絶句した。
「・・・」
「・・・なんで」
どうして、ここに俺がいるのか分からないというのがありありと表情に出ている。
「今朝はよくも逃げてくれたな」
側に行き、耳元でそう告げると、びくり、と秋穂は身を震わせた。
様子を見ていた叔父が、あきれ顔で自分を見ているが、気にならなかった。
「お前は、何にも執着しないと思っていたんだがな」
自分にだけ聞こえる声で呟いた叔父に、
「秋穂は特別ですよ。お久しぶりです叔父上」
「あいかわらずだねえ」
そんなたわいない話を叔父としていると、こそこそと扉の方へ秋穂が逃げていくのを見つけた。
「どこへ逃げる気だ」
「・・・ひっ」
「逃げられると思っているのか」
俺の視線にひるんだのか、彼女の体が固まる。
「これが、君と仕事をしたいそうだよ」
個人的な理由で秋穂が欲しいと叔父に願ったせいだろうか、少々、対応が冷たい。
「・・・あの、古賀の専務がいらっしゃるのでは」
ここにきて、空気が読めないどころか、まったく見当外れの質問を秋穂はしてきた。
しかも、今になっても、俺が古賀の専務だと言うことに気づいていないと分かり、笑いそうになった。
「鈍いね、深山くん。目の前にいるでしょ、古賀の専務が」
「・・・専務?」
「なにかな」
返事をすると、信じられない、とばかりにこちらを見てくる。
失礼な奴だ。
「専務なんですか?本当に?」
信じてないような視線を向けてくるところを見ると、本当に今の今まで知らなかったことが伺えて、そこまで興味がなかったのかと悲しくなる。
「私が、ここの秘書だって知ってたんですね!」
「知っていたが、俺がお前と会っていたのと古賀は関係ない」
一体何が言いたいのか、彼女は唇をかんだまま、黙ってしまった。
「・・・なんで」
秋穂はどうやら、俺が秋穂をかまう理由が分からないらしい。
これ以上ここで押し問答をしても、平行線をたどるだろうと思い、秋穂を抱き上げた。
「ちょっ・・・降ろしてください」
横抱きすると、恥ずかしいのか、必死に抵抗しているようだが、落ちるのが怖いのか抵抗らしい抵抗になっていない。
「では、叔父上、今日付で深山は本社に移動という事で」
それだけ言うと、そのまま社長室をあとにした。
ついに、ここまできました。
古賀さん、やっぱりいろいろ考えています…




