03 強者と弱者
「ぐ…っ」
大剣を手にした戦士が壁に叩きつけられて、束の間、肺から空気が締め出される。
霞む視界の中、それでも戦士は剣を握る。
「弱いくせに」
静寂の中、声が耳に届いた。思いの外、澄んだ声。
「目障りなんだよ…ッ」
「な…、にを」
襟を締め上げる腕の向こう、闇で相手の顔は見えない。
いくらもがいても、相手の力は緩むことがない。相手は剣を二振り、腰に提げてはいるものの、それは鞘に収まったままだ。
剣すら取らぬ相手に、ここまで遅れを取るなんて。
その動きはそう――魔物じみていた。
意識が闇に落ちる直前、半分の月に照らされて見えた相手の顔には、ひどく不満げな表情が浮かんでいた。
――とある、街。
とにかくそこには騎士を目指すアルカネットという少女が居て、多分、いつもの生活をしている。
「ったあッ」
上がった声は、痛みの音で、多分その手はしびれていた。
カツン
乾いた響きを伴って、木刀が床に落ちる。
アルカネットの空色の瞳が、仕合いの相手を見る。
準騎士、フロウ=ユークライドだ。
「キミは、ずるいっ」
「なんだと?」
アルカネットの唐突な指摘に、フロウは目をすがめる。喧嘩なら買うぞ、と言いたげだ。
「だってそのヘンなバリバリはずるいよ」
「…」
せめて人間語を喋って欲しい、とフロウは思った。
擬態語から意味を推察し、答える。
「雷術は俺の『得物』だ。だが、どうしてもというのなら――」
にやり、とフロウは笑う。
「木剣で相手をしてやってもいいぞ」
数秒後、再び木剣にまとった雷術に打ち倒されるアルカ。
「ずるいーっ!」
叫んだ。
その遣り取りを見ていたらしいローザが、フロウのそばまで来て言う。
くすくすと、笑いながら。
「ここには、あなたの敵はいないわね」
準騎士は、不機嫌そうな眼を返す。
「それでは困るんだ。北で相手になる奴がいないから、わざわざこっちまで出てきたんだぞ?」
「だったら、首都まで行ってみる?」
紹介状は書くわよ、とローザは続ける。
「そうだな…」
どこか遠い目で、準騎士はつぶやいた。
はぁっ はぁっ は…っ
男は、逃げていた。
他に物音もないしじま。体の中から響く音だけが、いやにうるさい。
いつもは自分を守る弓と矢も、逃げている今は邪魔なだけだった。
足を止めてずいぶん経ち、呼吸がようやく、いつものそれに戻る。
街路を作る家屋の石壁に背を預け、辺りに耳を澄ます。
――。
静寂。
ほ、っとしたように息をつくと、弓使いは、大通りに出た。
上弦の月だ。
刃のように細い青白い月が、空の真ん中に浮いていた。ふと、嫌な感じがして、背後を仰ぐ。
「――!?」
肌が粟立ち、気づけば一歩、退いていた。
男からわずか数歩の位置、黒と白だけが作り出す風景の中、左右対称の『上弦の月』が、交差してそこにある。
「…」
何か言いかけた言葉は、彼自身が地面に倒れ伏す動作にとって代わられた。
クッ
上弦の月の持ち主の喉の奥、笑いの欠片が弾けた。
哄笑こそしないものの、何かに満足したふうに、その者は動かぬ者に背を向ける。
後には、できたばかりの血の海がただ広がっていった。
*
「ごにんめ」
ローザは、つまらなさそうにつまんだ獣皮紙を、ぱら…と机の上に滑らせる。
「夜中も見張り、しているんですよね?」
騎士団の用務員、キユミ=クライドが緑茶の椀を差し出しながら訊く。
半眼でそれを見遣り――別にキユミに恨みがあるわけではなく、単に機嫌が悪いだけであるが ――、ローザは頷いた。どこかだるそうに。
「そーよー。さんにんめの後からはね。
でも、ありえないわ。犠牲になってるのは、それなりに名のある戦士ばかりよ?」
そう簡単に倒されるとは思えない――。
机にうつぶせて、そう続ける。
五件目の事件のあった夜、つまり昨日は、ローザ自身も巡回に出ていた。
「負けるほうも負けるほうよ。
どうせなら、もっと派手に騒ぎなさいってのよ」
それが被害者の義務だわ、と、いささか勝手な私論を展開する。
「ひとりめが剣使い、ふたりめが槍使い、さんにんめが拳使い、よにんめが大剣使い、そして昨日のが弓使い。さあ彼らの共通点は」
投げ遣りに挙げるローザの隣、侍がぽつりとつぶやく。
「辻斬り」
「ん?」
どこか真剣なその声音に、ローザが顔を上げた。
少し恥ずかしそうにして、キユミは答える。
「あ、その。
カタナを持つ人たちがですね、力試しをしようとして、夜に、道を通る人を襲うんです。腕試し…、というのかな」
ぶっそうなとこに住んでたのね、と口にしてしまってから、ローザはその無神経さに気づく。
「ごめん」
「いいえ」
盆を持って、用務員は執務室から出て行った。
見送ってローザは、再び机に伏せる。
「つじぎり…、ね」
*
きんっ
道の端の闇から唐突に飛んできたその斬撃を弾いてしまってから、ローザは目を見張った。
(二刀――!)
五人目の被害者が出てから数週間後。半月の夜だ。
他の団員たちには組みになっての巡回を命じる一方、ローザはひとりで見回っていた。おかげで、ここ最近はすっかり夜型になってしまった。
全身鎧で毎日の見回りは思いのほか過酷で。
ローザクリスさん最近ちょっと筋肉質になりました? とは、キユミの弁。
(それも今日で終わりよっ)
剣を握る手に、ローザは力を込める。
やや間合いの外から、騎士は問う。
「どうして戦士たちばかりを狙ったの?」
「…」
通り魔は、ローザより、頭ひとつ分ほど背が高い。
鎖鎧に二振りの刀を提げた男は、無言のまま――
――切り込んできた。
「ぐっ」
首を狙った一撃を剣で止め、
胴を目指す一撃を鎧で防ぐ。
がっ!
冗談ではなく、火花が散った。
ローザはそのまま身を翻す。
さらに、反転。
ローザの剣が、相手の首の高さを薙いだ。
「!」
それを右の刀で止めた様、兜の隙間を向けた刃が伸びてくる。
ローザは身を沈めたが、相手の突きは兜を跳ね上げた。
構わず、ローザは剣を再び真横に振るう。
炎の欠片が飛んだ。
「紅蓮斬ッ!」
まともにそれを食らって。
鎖鎧の下で血をにじませながら、男は両の刀を振り上げた。
「――!」
ローザは横に転がってそれをかわす。
とん
背に、壁が、当たった。
攻撃に転じるのにも、防御に専念するのにも、今はこの重い鎧が邪魔だ。
頭の奥、どこか深いところが、納得する。
(終わりか)
「ローザクリスさん!!」
ふいに辺りが騒がしくなる。
見れば、騎士団の面々、だけではなく、街の職人や農民までもが、周りを囲んでいた。
「――うそ」
呆気に捕られるようなローザを脇に、キユミがたいまつをかざす。
「辻斬りさん。おとなしく捕まってくださ――」
「キユミッ」
皆まで言う前に、ローザが侍を突き飛ばす。通り魔の二刀がその上を滑っていった。
「無茶よ、あなた、戦えないのに、こんなところへ出てくるなんて――」
はあ、とキユミは照れ笑う。これでも一応、武術の心得はないでもない。普段は、炊事洗濯庭木の手入れ、の影に隠れて、知っている者はごく少数であったが。
「弱いくせに」
「?」
初めて声を発した辻斬りを、ローザがいぶかしげに見遣る。澄んだ水のような声だった。鉄の兜の奥で、その顔は見えない。
「目障りだ…!」
「でも」
ローザは立ち上がる。
「あなたの着ているその鎧を造ったのは誰? あなたが食べた麦を育てたのは?」
辻斬りは無造作に刀を振るう。
避け損ねたひとりが、勢いにつれて飛んだ。別の何人かが、受け止めるとも、巻き込まれるとも判別の付かない形で、それにぶつかる。
さらにそちらへ向けて、辻斬りは一歩を踏み出す。
それは、何か。ローザが最も嫌う何か。
「――あなたは」
「ローザ」
とんっ、と、いつの間に来たのか、フロウが、脇を通り過ぎていく。
パン職人に切りかかろうとしていた辻斬りの前に、フロウが立った。
彼は辻斬りの刀のひとつを手のひらで押さえ、もう片手を、鎖鎧の胴へ叩きつける。
雷光がはじけた。
『雷叉…』
かしいだ辻斬りへ、ローザの剣撃が――
「今だー! 畳めー!!」
――見舞う前に、職人の槌と農民の鍬、騎士見習いの木刀、パン焼き釜の鉄板が、幾重にも厚く手向けられていた。
「…はは」
横に構えた刃の遣り場がなくなって、ローザは乾いた笑みを浮かべた。
縄で巻かれた辻斬りを後に、街人たちは揚々と帰っていった。
「いやぁ~、これでまた夜遊びができるな」
「そうそう。かあちゃんの冗談かと思ってたら本当に出るんだもんなぁ。オレなんかこの一ヶ月、仕事の後の一杯にありついてないんだぜ」
「まったくよ。これで清々するってものだわ!」
おしまい。