01 楽の音
少年は走っていた。いつから走っていたのかも、どこを走ってきたのかも覚えていない。ただ、足を前へ進める。そうしないと自分の命が終わることは分かっていた。何が自分にそうさせたのかもよく分かっていた。手に、中を刳り抜かれた木の、軽い感触。これが――
走り疲れて、もう、追いかけてくる者もいないことを確かめて、少年はようやく、足をゆるめた。
とっ、とっ、と。
日もとうに暮れた広場。自分の足音だけが残る。
「…ふぅ」
重い息を吐いた。その重さで云えば、今までの人生で、初めて吐いた溜息だったかもしれない。
我知らず、噴水の隅に腰掛けて、ぽろん…、とその絃を軽く弾く。
――鳴った。
鳴ってる?
彼は首を傾げて耳を疑い、もう一度、絃を引っ張る。
ぽろん。
――鳴ってる。
今度は、それを確信できた。もう一度。
ぽろん、ぽろん、…
――鳴ってる!!
それが喜びに変わるのに、大して時間は必要なかった。
音階の区切り目も、弾き方も知らない。曲は耳が覚えているくらい。
それでも、自分の手が、それを鳴らせている。
他に誰も居ない広場に、楽の音だけが響く。
たぶんそれは、ひどい音だったかもしれない。
けれどその時の彼には、それは一向に、気にならなかった。
ぽろん、ぽろん。
誰もいないはずの広場に響く楽の音。
盗人を追ってきた貴族の老人はふと、その入り口で立ち止まる。
盗人は懸命に、それを奏でていた。
とても拙い音。
「――」
ぽろん、ぽろん。
貴族たちがいつも慣れ親しんだ音に比べれば、雛鳥の喩えすらためらわれるような。
そちらへ駆け出そうとした兵を、老人は無言で押し止める。
「――?」
怪訝な顔をする私兵に、貴族の老人は首を横に振った。
「――いいんだ。あれはもう、彼のものだ。
リュート自身がそう言っている」
「しかし――」
なおもこだわる兵に、老人は片目をつぶってみせた。
「今、取り返されたリュートと、5年後に聴けるすばらしい演奏。君ならどちらを選ぶかね?」
「…私は――」
口篭もる兵士の肩を、老人は軽く叩く。
「さ、もう行こう。今日は一日中走りまわって疲れたな。派手に酒盛りといこうじゃないか」
「は――はぁ」
金持ちの気紛れとはこんなものだろうか。兵士は、納得がいかないながらも、なんとなく頷いていた。
ぽろん、ぽろん、ぽろん。
多分、星の他には誰も観客のいない広場に、楽の音はいつまでも響いていた。
――おしまい。