送り火
きっと・・・・・。
彼は訪ねて来る。少なからず、僕は予感していた。今日という日に。それは、最期の夏の祭りの日だから。
僕はカウンターを拭いた。さっきまで此所に座っていた客の零した珈琲が、僅かな染みになって残っている。いくら拭っても消えない染みだ。
あまり広くない店内は、間接照明とアンティーク風の内装で、心地良い暗さをいつも保っていた。
アルバイトの僕ですら、雰囲気を醸し出すための小道具として、モノトーンの上下にギャルソンヌエプロンの着用を義務づけられていた。
アルバイトを始めて、もう五年にもなろうとしていた。
僕は気配を感じていた。彼は今確かに、此の店の扉の前に立っている。吹き付けの白い壁に描かれた、重厚な扉の前に。そしてためらっている。扉を開けようかどうしようか。
僕はカウンターを拭きながら、気配に意識を集中させた。同じ類いの者が持つ独特の波長といえばいいのだろうか、確かに脳幹で感じるのだ。
やがてゆっくり扉が開く。中年の男が、遠慮がちに入ってきた。彼はゆっくり店内を見渡した。
誰を探している訳でも無く、誰かと待ち合わせしている訳でもない。
此所が、自分の居て良い場所かどうかを感じ取ろうとしていた。
ようやく安堵したように表情を緩めると、迷わずカウンターに座った。
「いらっしゃいませ」
僕は彼の前に氷水とおしぼりを置く。
彼は徐におしぼりで顔を撫で、グラスの水を一気に飲み干した。よほど喉が渇いていたのだろう。
「生き返ったようだよ。」
彼は大きく息をついた。
生き返るねえ。繰り返して自問し、更におかしそうに笑った。それがどういう意味なのか僕には解らなかった。
「ご注文は・・・。」
僕はグラスに二杯目の水を注ぎながら尋ねた。
「珈琲をキリマンジャロで。それとアイスクリームでも貰おうか。」
小肥りのふっくりした頬にくぐもった丸い声。どこか懐かしい、遠い響。聴いたことのあるような声。しかし思い出せない。
サイフォンで珈琲を淹れながら、先に出されたアイスクリームを口に運ぶ彼を僕はぼんやり見ていた。
真鍮色の器に盛られたアイボリーの幸福な甘味に、彼は満足そうに頷いた。
「旨いねえ。」
「はい、自家製ですから。」
彼は添えられたウェファースを最後に食べる。野暮ったいポロシャツから窺える腹部の緩い曲線。薄くなった頭髪おおよそこういう店には似つかわしくない彼だ。
「こう見えても珈琲の味には煩いよ。」
彼はそう言って珈琲の薫りを味わい、揺れる琥珀の液体を啜った。
「いいねえ。」
彼の背後を古いジャズの、切なげなコルネットの音色が通り過ぎて往く。
「ずいぶんと探したんだよ。」
彼が唐突に言うので、僕はうろたえ、視線が彼所此処に跳んだ。
「外は暑くて難儀したよ。」
盆地の夏は風が滞りことのほか暑い。当たり前の事が余所の者には辛い。
「どうして僕を。」
「それが私の最後勤めだからね。」
彼はそれ以上何も言わない。珈琲を啜り終えると、カウンターの奥にあるデジタル時計の蛍光色を確認した。
「そろそろ時間だな。」
やはり此の人は誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。僕の待っている人ではなかったようだ。否、誰を待っているのかなど曖昧で、すでにどうでもよい事のように思えていた。
「もうすぐ大文字に火が灯る時間だよ。」
彼は促す様な口調になる。
「見物ですか。」
「そういう訳ではないんだがね。良かったら一緒に行かないか。何時迄も此処に居たって仕方ないだろう。」僕は口ごもった。何をどう答えればいいか迷った。それは心の迷いと言ってよかった。
溜め息を吐いて彼は席を立った。
「時間が無いから行くよ。」
彼は一度振り返った。そして重い扉を再び開け、此処から去って行った。
僕は深い悲しみに襲われた。その悲しみは、溢れ迸る。
「父さん、待って!」
鮮明に甦る記憶。それは一瞬の間に手繰り寄せられた。
僕は此の路地から河原町通りへ出た所で、暴走してきた車に引っ掛けられ引き摺られた。
死んだという意識がまるで無かった。次の日も、また次の日も、僕はタイムカードを押しエプロンを締め珈琲を淹れる。何の疑問も持たず、時をやり過ごして来た。
僕には他に行く所がある。気付くのが遅過ぎて、彼岸への道筋を喪ってしまった。
僕は彼の後を追って走った。ぼんやりとした後ろ姿が、木屋町の方向へ向かって朧に消えて行くのが見えた。
僕を置いて行かないで。あの日あなたは、病院の集中治療室で無機質な白いベットに抱かれたまま逝ってしまった。何も言わず、何も残さず。僕を置いて逝ってしまった。存在が無くなることの意味を教えてくれることのないまま。もしかしたら父さん、僕の時間は、あなたが逝ったあの日から、とうに止まってしまっている。
歓声が上がった。四条大橋の上は見物客で溢れかえっり、僕はまた独り取り残された。また止まったままの時間が、むやみに過ぎてゆく。永遠に。ただそれだけのこと。
遠くに大文字の朱い炎が見える。さあ、元居た場所へ戻ろう。
ふと誰かが肩を叩く。
「綺麗だろう。でも、あの火が消えてしまう前に逝かないと。」
紛れもない父の声がした。頭の奥の深い海馬の底で彼の声が響いた。僕は頷く。
ああ、僕の思念が流砂のように溶けてゆく。やがて僕は僕で無くなる。
喧騒のなかを微かに流れていた鴨川のせせらぐ音が、今はっきりと濃く僕の前に横たわっている。僕は岸辺に立っている。向こう側は彼岸だ。隣りには父がいる。父に伴われ、僕はもうすぐ此の川を渡る。
何も無い。安らかだ。




