離縁は承知しました。では明日から、領地の水道魔法料をお支払いください。
夫から離縁を申し渡された。
理由は、ほかに妻にしたい女性ができたから。
リディアは怒らなかった。泣きもしなかった。
ただ、十年間無償で維持してきた領地の魔導水路について、一つだけ確認した。
「離縁は承知しました。ですので明日から、領地の水道魔法料をお支払いください。」
「リディア。離縁してほしい」
夕食を終えた直後、夫のグレアムが言った。グレアム・ハーディング伯爵、三十二歳。王国北西部の国境地帯に広大な領地を持つハーディング伯爵家の現当主であり、私が十年前に嫁いだ夫だ。向かいに座る彼の顔は、戦場へでも向かうように強張っている。
「理由を伺っても?」
「……ほかに、妻にしたい女性がいる」
なるほど。私はナプキンをテーブルへ置いた。
「承知しました」
グレアムが瞬きをした。
「……それだけか?」
「ほかに何か?」
「いや」
どういう反応を想像していたのだろう。泣く。怒る。相手の女性を問い詰める。離縁を拒否する。十年間も夫婦だったのだから、そういう反応を期待されても不思議ではない。けれど、離縁したい人間を無理に引き留めても仕方がない。問題は別にある。
「では、財産分与と離縁後の契約関係について、明日から整理を始めましょう」
「契約関係?」
「はい。特に魔導水路です」
グレアムが怪訝な顔をする。私は続けた。
「離縁は承知しました。ですので明日から、領地の水道魔法料をお支払いください。」
「……何?」
聞こえなかったらしい。
「魔導水路の維持管理費です。これまでは婚姻関係にあるため無償としていましたが、離縁後は通常料金をいただきます」
「待て」
グレアムが片手を上げた。
「なぜ、そんな話になる」
「なぜ?」
今度は私が聞き返した。
「離縁するからですが」
「水路は領地のものだろう」
「水路そのものは」
「なら」
「ただし、水路を動かしている魔導設備は違います」
グレアムが黙る。私は席を立ち、隣室の執務机から一冊の帳簿を持ってきた。
「ハーディング領には現在、主要魔導井戸が十二基。加圧用魔導機が二十八基。浄水装置が七基。農業用分水制御盤が四十一基あります」
帳簿を開く。
「これらの基本設計、魔法陣、制御術式の特許は、すべてヴァレリー魔導工房が所有しています」
「ヴァレリー……」
「私の実家です」
リディア・ヴァレリー。それが結婚前の私の名前だ。ヴァレリー伯爵家は、爵位だけを見ればハーディング伯爵家と同格である。しかし領地の規模は小さく、軍事力もない。代わりに、王国でも珍しい魔導土木技術を代々研究してきた技術者の家系だ。
私はそのヴァレリー伯爵家の長女として生まれ、十六歳から父の工房で魔導水路の設計を学んだ。二十九歳になった今も、王国魔導技師組合に登録された一級魔導技師の資格を持っている。十年前、十九歳の私がハーディング家へ嫁いだ理由も、もともとは恋愛ではなかった。水不足に悩んでいた国境領と、水利技術を持つヴァレリー家。両家の利益が一致した政略結婚だった。
「結婚時の契約書にも明記されています」
私は帳簿から一枚の写しを抜いた。
「婚姻期間中、ヴァレリー家が所有する水利魔導技術について、ハーディング領内での使用料を免除する」
グレアムが読む。眉間の皺が深くなる。
「つまり」
「離縁すれば、免除条件がなくなります」
「使用料はいくらだ」
「それだけではありません」
「まだあるのか?」
「保守管理費があります」
「保守?」
私は少し考えた。十年間夫婦だった。だが、この人は本当に知らなかったらしい。
「グレアム。魔導水路は、設置すれば永久に勝手に動くものではありません」
「それくらいは分かっている」
「では、誰が管理していたと思っています?」
答えは返ってこなかった。
「私です」
私は帳簿をめくった。
「月に一度、十二基すべての魔導井戸を点検。季節ごとに水圧を調整。春の雪解け時期には北部水路の流量を変更。夏は農業地区への配水比率を上げる。魔石は平均して八か月ごとに交換。故障時にはヴァレリー家の技師を呼ぶ」
「技師が来ていたことは知っている」
「費用は?」
「領地会計から出ているのではないのか」
「出ていません」
「では、誰が」
「私です」
グレアムが止まった。
「正確には、私個人とヴァレリー家です」
「なぜ」
「妻の実家から夫の領地への支援だからです」
十年間。請求したことは一度もない。領民が水に困らないなら、それでいいと思っていた。私はこの土地の伯爵夫人だったから。
「通常契約に切り替えた場合、年間費用はこちらです」
数字を書いた紙を渡す。グレアムが見る。そして顔を上げた。
「高すぎる」
「通常料金です」
「こんな額を払える領地があるのか」
「あります」
「どこだ」
「現在、ヴァレリー家は七領と契約しています」
「七領?」
「はい」
「いつから」
「一番古いところで十五年前から」
グレアムは紙を見直した。
「ハーディング領だけが、払っていない?」
「はい」
「十年間?」
「はい」
「なぜ今まで言わなかった」
その質問には、少し驚いた。
「夫婦だったからです」
それ以外に理由はない。グレアムは黙り込んだ。
「もちろん、離縁成立までは現状のままです」
「明日からと言っただろう」
「話し合いを始めるという意味です。明日突然、水を止めたりはしません」
「止められるのか?」
「技術的には」
グレアムの顔色が変わった。
「止めません」
念のため、はっきり言っておく。
「領民には何の責任もありませんから」
私は帳簿を閉じた。
「離縁成立後、通常の商取引に切り替えるだけです」
グレアムは長い間、何も言わなかった。翌朝から、私は離縁の準備を始めた。最初に向かったのは領地庁舎だった。そこで十年間一緒に仕事をしてきた財務官オスカー・ベルに事情を説明する。ハーディング伯爵家に二十五年仕える五十代の官吏で、領地予算を一銅貨単位まで把握している男だ。
「離縁……ですか」
「ええ」
「伯爵様が?」
「ええ」
オスカーは目を閉じた。何かを耐えているようだった。
「それで、水利設備について、今後は通常契約へ切り替えます」
私は見積書を渡した。オスカーが見る。一秒。二秒。三秒。
「……これは」
「通常料金です」
「存じております」
「知っていたの?」
「他領の予算書を見たことがありますので」
オスカーは顔を上げた。
「むしろ、私はいつまで奥様が無償でなさるのかと思っておりました」
「妻である間は、そのつもりだったわ」
「伯爵様は、この金額を?」
「昨夜初めて」
オスカーは再び目を閉じた。
「そうですか」
「何?」
「いえ」
明らかに何か言いたそうだ。
「言って」
「では」
オスカーは見積書を机へ置いた。
「伯爵様は、領地の水利事業について、奥様が毎年提出されていた報告書をほとんど御覧になっておりません」
知っている。
「私からも何度か御説明しました。しかし『リディアに任せてある』と」
それも知っている。
「それが信頼だと思っていました」
私は言った。オスカーは返事をしなかった。離縁の話は、数日で領内の重臣たちにも伝わった。そして一週間後。領地会議が開かれた。出席者はグレアム、財務官オスカー、農政官、商業組合長、騎士団長、それに私。議題は離縁ではない。水利契約についてだ。
「この金額を毎年?」
商業組合長が見積書を見て声を上げた。ハーディング領商業組合を束ねる初老の商人で、染色工房や製粉所など大量の水を使う事業者の代表でもある。
「はい」
私は答えた。
「高すぎませんか」
「王国内の同規模設備と比較すれば、標準より少し安いくらいです」
「しかし今までは」
「無償でした」
「それを突然」
「離縁後の話です」
農政官が口を挟む。
「農業用水はどうなります?」
「今まで通り供給します」
「支払いができなければ?」
「設備使用契約の見直しが必要になります。ただし生活用水を人質に取るようなことはしません。農業用についても、一年目は移行期間を設ける案を用意しています」
私は資料を配った。三年間の段階料金。設備の一部買い取り。ハーディング家が自前の技師を育成する場合の研修契約。複数案を作ってある。グレアムが資料を見る。
「ここまで準備していたのか」
「離縁を言われてから作りました」
「一週間で?」
「十年間管理していますから、原価は分かっています」
会議室が静かになる。
「一つ聞きたい」
グレアムが言った。
「もし私たちが離縁しなければ、この費用は今後も取らなかったのか」
「そのつもりでした」
「なぜ」
また、それだ。
「妻だからです」
私は答えた。
「この領地は、私の家でもありましたから」
誰も何も言わない。
「でも、離縁後は違います。私はヴァレリー家の技師として、この領地と契約します」
商業組合長が難しい顔をした。
「つまり、これは報復ではないと?」
「何に対する?」
「……離縁です」
私は少し考えた。
「私が報復したいなら、もっと簡単な方法があります」
全員の顔が強張る。
「今夜、全制御盤の魔法陣を解除すればいい」
商業組合長の顔から血の気が引いた。
「しませんよ」
私は付け加えた。
「そんなことをすれば、困るのは領民です」
「では、なぜ金を」
「仕事だからです」
私は見積書を指した。
「魔石にも費用がかかる。技師にも賃金が必要。設備は劣化する。特許にも価値がある。これまでそれを私と実家が負担していただけです」
誰も反論しなかった。当然だ。水は無料でも。水を安定して届ける仕組みは無料ではない。
会議から三日後。私は北部の魔導井戸へ向かった。離縁前最後の定期点検だった。石造りの井戸塔の内部で制御盤を開き、魔力の流れを確認する。
「第三導線、少し摩耗してるわね」
隣にいた青年が記録する。ヴァレリー伯爵家の工房から派遣されている若手魔導技師ニコラス・レイン。平民出身で、五年前から私の補助をしている技師だ。
「交換しますか?」
「来月でいいわ。ただし圧を三パーセント落として」
「了解です」
作業を終えて外へ出る。畑の向こうまで水路が伸びている。十年前。私が嫁いできたころ、この辺りは乾いた土地だった。井戸水だけでは農地を広げられない。夏になれば水不足。小麦の収穫量も低かった。父と一緒に測量し。水脈を探し。魔導井戸を設計した。最初に水が出た日、村の子どもたちが歓声を上げた。あの日のことは今でも覚えている。
「寂しいですか?」
ニコラスが聞いた。
「何が?」
「ここを離れるの」
「……少しね」
十年間。私の人生の三分の一以上を過ごした土地だ。夫と離れることより。この景色と離れる方が、寂しいかもしれない。そう思った自分に、少し驚いた。
離縁手続きは淡々と進んだ。グレアムが妻にしたいと言っていた女性について、私は一度も尋ねなかった。必要がないからだ。しかし向こうから会いに来た。離縁成立まであと五日という午後。応接室へ通された女性を見て、私は少し驚いた。エレノア・サヴィル男爵令嬢。二十四歳。
王都の社交界で何度か顔を合わせたことがある。父親は王宮の外交官で、本人も語学に堪能な女性だ。グレアムが王都へ行くたび、外交関係の夜会で親しくなったらしい。
「突然申し訳ありません」
エレノアは緊張した顔で頭を下げた。
「構いません。座って」
彼女は座ったが、なかなか話し出さない。
「私を責めに来たのではないでしょう?」
私から聞いた。
「違います!」
勢いよく顔を上げる。
「むしろ……謝りに」
「謝る?」
「伯爵様から、奥様とはすでに夫婦としての関係が終わっていると聞いていました」
なるほど。
「政略結婚で、互いに愛情はなく、いずれ離縁する予定だと」
「だいたい合っています」
「合っているんですか?」
「はい」
エレノアの方が戸惑った。
「では……」
「あなたを責めるつもりはありません」
「でも」
「グレアムがあなたを妻にしたいと言った。それを受け入れるかどうかは私とグレアムの問題です」
エレノアは膝の上で手を握った。
「私、知りませんでした」
「何を?」
「水路のことです」
また水路。
「社交界で噂になっています。奥様が離縁したら、ハーディング領が莫大な使用料を払わなければならないと」
「莫大というほどでは」
「伯爵様は知っていたのですか?」
「離縁を言われるまで、ほとんど御存じなかったようです」
エレノアの顔が曇った。
「私……怖くなりました」
私は彼女を見る。
「伯爵様が、奥様のしていたことを何も知らなかったことが」
その言葉は、意外だった。
「十年間一緒にいた妻が何をしていたか知らない人が、私のことをどれだけ知っているのだろうって」
私は答えられなかった。
「離縁をやめてほしいという意味ではありません」
エレノアは立ち上がった。
「ただ、私はすぐに伯爵様と結婚するつもりはありません。それだけお伝えしたくて」
頭を下げて、彼女は帰っていった。
その夜。グレアムが私の部屋へ来た。
「エレノアが来たそうだな」
「ええ」
「何を話した」
「本人に聞いて」
「結婚を考え直したいと言われた」
「そう」
グレアムが苛立ったように息を吐く。
「君は何とも思わないのか」
「何について?」
「全部だ」
「具体的にお願いします」
「離縁も、エレノアも、この家を出ることも」
私は本を閉じた。
「では聞きますが、私にどうしてほしいの?」
グレアムが黙る。
「泣いて離縁を拒めば満足?」
「そういうことでは」
「エレノア様を責めれば?」
「違う」
「水路を無料のままにすれば?」
「……違う」
「では?」
彼は答えなかった。私は少し疲れた。
「グレアム」
「何だ」
「あなたは私を妻にしたいの?」
沈黙。
「それとも、今までの生活を失いたくないだけ?」
グレアムの顔が固まった。私は続けた。
「戻ってくれと言うなら、聞きます。けれど。」
彼を見る。
「それは、妻としてですか?」
答えがない。
「それとも、無料で領地を支える技師としてですか?」
「そんなつもりじゃない」
「なら、どんなつもり?」
グレアムは長い間黙っていた。そして。
「……分からない」
私は頷いた。
「なら、離縁しましょう」
不思議なくらい、腹は立たなかった。五日後。私たちは正式に離縁した。十年間名乗ったハーディング伯爵夫人の名を返し、私はリディア・ヴァレリーに戻った。荷物はそれほど多くなかった。馬車に積み込み、玄関へ向かう。グレアムが待っていた。
「リディア」
「何?」
「水路の契約書だ」
差し出された書類を確認する。通常契約。三年間の移行措置つき。署名もある。
「ありがとうございます。今後ともヴァレリー魔導工房をよろしくお願いいたします」
「営業みたいに言うな」
「今日から取引先ですから」
グレアムが苦笑した。それから、少しだけ真面目な顔になる。
「十年間、ありがとう」
私は彼を見る。
「妻として?」
「それも」
一度言葉を切る。
「技師としても」
初めてだった。この人から、私の仕事について礼を言われたのは。
「どういたしまして」
それで十分だった。王都へ戻った私は、実家の工房には入らなかった。代わりに、自分の会社を作った。リディア水利魔導社。名前はニコラスに「そのまますぎます」と言われたが、分かりやすいので採用した。最初の顧客は三領。半年で五領。一年後には九領になった。
井戸。上下水道。農業水路。工房向けの高圧給水。王都郊外の新しい住宅地区からも依頼が来た。忙しい。とても忙しい。でも楽しかった。自分の技術に値段をつける。必要とする人と契約する。働いた分だけ対価を受け取る。それは、思っていた以上に気持ちのいいことだった。
離縁から一年後。王都の事務所で契約書を確認していると、ニコラスが入ってきた。今では私の会社の主任技師になっている。
「社長」
「何?」
「ハーディング伯爵領から更新依頼です」
「そこに置いて」
「あと」
ニコラスが妙な顔をする。
「値引きできないか、と」
私は顔を上げた。
「理由は?」
「旧知の仲なので、と」
少し考える。グレアムの顔が浮かんだ。十年間。夫だった人。今は顧客。
「通常通り断ってください」
「いいんですか?」
「何が?」
「元旦那さんですよね」
「ですから何です?」
ニコラスが笑いを堪えた。
「いえ。何でもありません」
私は更新契約書を開いた。ハーディング領の農業収益は、去年より上がっている。水路設備の費用を正式に予算化したことで、保守計画も立てやすくなったらしい。皮肉なものだ。無料だったころより、きちんと金を払うようになってからの方が設備を大切にしている。
「社長」
「今度は何?」
「新規依頼です。南部の子爵領。干ばつ対策を相談したいそうです」
「資料を見せて」
地図を広げる。水脈。高低差。人口。農地面積。頭の中で水路が組み上がっていく。楽しい。私はやっぱり、この仕事が好きだ。
「受けますか?」
「現地調査してから決めるわ」
「了解です」
ニコラスが出ていく。窓の外には王都が広がっていた。十年前。私は水不足に苦しむ土地へ、伯爵夫人として嫁いだ。井戸を掘り。水路を引き。畑へ水を届けた。あの十年間を後悔してはいない。無駄だったとも思わない。あの土地で学んだことも、出会った人も、すべて今の私につながっている。ただ一つだけ。昔の私に教えてあげられるなら、こう言うだろう。
善意と仕事は、同じではない。
誰かを大切にすることと、自分の価値を無料にすることも、同じではない。私は新しい契約書を手に取った。そこには、私の会社の名前と、技術料がきちんと書かれている。それでいい。水は今日も流れている。今度は、正当な対価と一緒に。




