婚約破棄された私には、感情のかたちが見える
「ミラ・ハルトシュタイン伯爵令嬢! お前との婚約を破棄する!」
婚約者のカール・ベレツが、得意げにそう言い放った。
その腕には、私のたった一人の妹――セラがしがみついていた。
卒業パーティーの会場は、こちらを窺う視線とひそひそ話で満ちていた。
「お気の毒に」なんて囁きも耳に入った。
けれど、その大半は同情というより好奇の目だ。
人前での婚約破棄なんて、格好の見世物なのだろう。
私は、いかにも悲劇のヒロインらしく、目を伏せて力なく答えた。
「承知いたしましたわ」
あまりにあっさり受け入れたものだから、カールは拍子抜けしたような顔をした。
きっと、私が泣いて縋りつくとでも思っていたのだろう。
私は二人をゆっくりと見やり、口元に薄く笑みを浮かべた。
「お二人、とてもお似合いですわ。何から何まで」
その言葉に、カールがビクッと肩を震わせた。
言葉の裏を探っているのだろう。
セラもまた、表情をこわばらせた。
「セラ」
私が呼ぶと、セラはぎこちない笑みを浮かべてこちらを見た。
私はそんな彼女に、にっこりと微笑み返した。
「知っているわ。あなたはいつだって、自分にとって最善の選択をする子だもの」
セラの眉がわずかに動いた。
「……お姉様、それはどういう意味ですの?」
「言葉どおりよ。私は心から、あなたの幸せを願っているわ」
それは、私の婚約者を奪ったたった一人の妹に対する、紛れもない本心だった。
セラの顔がかすかに引きつった。
不安げに、彼女はますますカールの腕に身を寄せた。
私はその様子を気に留めず、今度はカールを見つめた。
じっと。
「な、何だよ」
カールが眉をひそめ、苛立たしげに吐き捨てた。
「カール様に、ひとつお伝えしたいことがございます」
「何だよ。さっさと言え」
急かす彼を見つめながら、私はその瞳と頭上を交互に見た。
そして、両手をきゅっと握りしめた。
――ここからが本番。
カールの頭上には、渦を巻く煙のようなものが見えていた。
それが、カールの感情のかたち。
そのどす黒い煙は、見る間に大きくなっていった。
私はカールの目を見据えたまま、その煙を限界まで『増幅』した。
満足のいくほど煙が大きくなったのを見届けて、私は小さく頷いた。
途端にカールの顔に血がのぼり、あっという間に真っ赤になった。
目は血走り、息は荒い。
その視線には、今にも私を殺しそうなほどの憎悪が宿っていた。
すさまじい剣幕。
私は心の中でほくそ笑み、さらに追い打ちをかけることにした。
呼吸を整え、わざとらしくため息をひとつついてから口を開いた。
「カール様は、ずっと私より上に立ちたかったのでしょう? こうして大勢の前で婚約破棄を突きつけて、少しは気が晴れましたか?」
その瞬間、激昂したカールが私へ勢いよく迫ってきた。
「この女ぁっ!」
怒鳴り声と同時に、カールが乱暴に私を突き飛ばした。
私は大きくよろめき、そのまま床に倒れ込んだ。鈍い音が会場に響き渡った。
全身に痛みが走った。
けれど、このくらいなら耐えられる。
このあとに待っている見ものを思えば。
私が倒れたのを見て、周囲のざわめきが一気に大きくなった。
何人かの令嬢が駆け寄ってきて、私を助け起こしてくれた。
「ハルトシュタイン令嬢、お怪我はありませんか?」
いつの間にか、私に向けられる視線にはあからさまな同情の色が浮かんでいた。
一方で、カールへ向けられる非難の声も飛び交っていた。
「さすがに酷すぎるだろう」
「抵抗もできない女性に、あんな真似を……」
そんな声など耳に入らないのか、カールは鼻息も荒く、私に向かって罵声を浴びせ始めた。
「前からずっと気に食わなかったんだよ! 家柄がいいからって、ちょっと頭が回るからって、いつも俺を見下しやがって!」
優雅な卒業パーティーには似つかわしくないあまりにも下品な罵声だった。
令嬢たちは息を呑み、「まあ」と声を漏らして扇で口元を隠した。
「え……? 私が、ですか?」
私は平然を装って問い返した。
カールは私を睨みつけたまま、さらに距離を詰めてきた。
「お前なんか、お前なんか死んじまえばいいんだよ!」
そう叫びながら、まるで私の首を絞めるかのように手を伸ばした。
その瞬間、周囲にいた数人の男子生徒がカールに飛びかかり、取り押さえた。
ありがたいことに――いいえ、計算どおりに。
両腕を押さえられてなお、カールは低く唸りながら私に掴みかかろうとしていた。
その姿はもはや人ではない。理性を失った獣そのものだ。
「どうなさったの、ベレツ令息……正気とは思えませんわ」
「貴族があんな振る舞いをするなんて、最低ですわ」
「二度と関わりたくありませんわね」
カールを責める声は、ますます大きくなっていった。
隣にいたセラでさえ、目を見開いてカールを見つめるばかりだった。
どう?
これが、あなたが選んだ男の本性よ。
いつも私に劣等感を抱き、嫉妬で煮えたぎっていた男。
なかなかお似合いじゃない?
いつだって私のものばかり欲しがっていたあなたには、ちょうどいい男だわ。
私はセラの頭上に揺らめく黒い煙を見つめながら、胸の内でそう吐き捨てた。
「ぐっ……」
カールは取り押さえられたまま呻き、それでもなお私を睨みつけていた。
私はそんな彼を、ほんの少しだけ哀れんだ。
かわいそうに。
もうカールは、社交界では終わりだろう。
こんな場であれだけの醜態を晒したのだ。
誰がまともに相手をするというの。
カールを見ていた私は、ふいに激しいめまいに襲われ、こめかみを押さえた。
「ハルトシュタイン令嬢!」
ぐらりと傾いた私の体を、誰かのしっかりとした腕が支えてくれた。
振り向いた瞬間、深い海を思わせる青い瞳と目が合った。
学園の令嬢たちの憧れの的――マティス・ネベルマルク公爵が、私を見つめていた。
どうして、この方が……私を?
彫刻のように整った顔立ちを見上げた私は、霞む視界のままマティスの頭上に視線を向けた。
そして、そこに浮かんでいたものは――
「大丈夫ですか?」
遠のく意識の中で、マティス公爵の声が聞こえた。
あの深い眼差しが、どこか切なげに見えたのは気のせいだろうか。
私はマティスにかすかに微笑みかけ、そのまま意識を失った。
◇◇◇
「カール、お姉様のことは? こんなところにいて大丈夫なの?」
庭園のガゼボに腰を下ろしたセラは、カールを見上げて尋ねた。
「あんなつまらない女のことなんて気にしなくていいよ、セラ。俺はお前に会いに来たんだ」
カールは上気したセラの頬にそっと口づけた。
セラは嬉しそうに彼の首に腕を回した。
「カール、お姉様に見つかったら……」
「大丈夫だよ。今ごろ部屋にいるさ。俺が愛してるのはお前だけだ、セラ」
「そんなこと言っても、お姉様と結婚するのでしょう?」
「まさか。俺ももう、ああいう可愛げのない女はうんざりだ。卒業パーティーであいつを人前で恥かかせて、そのまま婚約破棄してやる」
「本当? そのとき、お姉様がどんな顔をするのか、楽しみだわ」
セラがくすくすと笑った。
カールは優しく彼女を見つめ、微笑み返した。
やがて、二人は深く唇を重ねた。
そして私は、その一部始終を木陰からじっと見ていた。
――カール、セラ……
胸の奥を鋭く抉られるような痛みが走った。
……それが、あなたたちの選んだ道なのですね。
私は唇を噛みしめた。
そして、その場で誓った。
私を裏切った婚約者と、妹。
この二人には、自分たちのしたことの代償を払わせてやると。
◇◇◇
「……っ」
短く呻いて、私は目を開けた。
また、あの悪夢を見た。
半年前、あの庭園で目にした光景。
まるで今しがたのことのように、胸がずきずきと痛んだ。
私はゆっくり息を吐き、深呼吸をした。
見慣れた天蓋が目に入った。
どうやら、卒業パーティーの会場で意識を失った私を、マティス公爵が屋敷まで送り届けてくれたらしい。
力を使ったあとは、決まって具合が悪くなる。
私はため息をつき、サイドテーブルの水をひと口飲んだ。
前世の記憶を取り戻したのは、一年前、十七歳のときだった。
平凡な会社員として生き、事故で命を落とした前世の記憶が、ミラとして生きてきた記憶と頭の中で入り混じった。
戸惑ったのはそれだけじゃなかった。
その日を境に、私には人の頭上に、光の玉のようなものか煙のようなものが見えるようになった。
それは、人の感情のかたちだ。
正確には、私に向けられた感情だ。
光の玉は私への好意。
煙は、私への負の感情。
大きさは人それぞれだった。
しかも私は、その大きさを増幅できる。
カールの頭上に浮かぶ真っ黒な煙は、私に対する負の感情そのものだった。
彼が私をどう見ているのかは、以前からわかってはいた。
『女がそんなに賢くなる必要はないだろ。領地のことは男に任せておけばいい』
『女はおっとりして愛想よく笑っているのが一番大事なんだ。そんなに無愛想じゃ、愛されないぞ』
もともと私に劣等感を抱いていたカールは、自分より成績のいい私を妬み、ことあるごとに女らしさを押しつけてきた。
将来ハルトシュタイン家を継ぎ、伯爵位に就く私とは違い、カールはベレツ家の次男として生まれた。いずれハルトシュタイン家に婿入りする自分の立場に、強い劣等感を抱いていた。
不満があることくらい、わかっていた。
でも、いざ彼の頭上に真っ黒な煙を見たときは、さすがに堪えた。
そのとき初めて、自分が思っていた以上にカールのことが好きだったのだと気づいた。
そのうえ、カールとセラの逢瀬を目にして、私はその日から二人を破滅に追い込むと決めた。
卒業パーティーで、私はカールの感情を増幅し、より激しい負の感情へと膨れ上がらせた。
カールは感情に流されやすい性格だ。だから、煽れば崩れると思った。
そこまで考えたところで、私はふと首を傾げた。
そういえば……
「あの人には、何も見えなかったのよね」
朦朧としていたから断言はできない。
けれど、マティス公爵の頭上には、何も浮かんでいなかった。
「見間違いかしら」
きっとそうだろう。
これまで例外なんて、一人もいなかったのだから。
初対面の相手ですら、第一印象に応じた小さな光の玉か煙が浮かんでいたのだから。
そうして考え込んでいると――
コンコン、とノックの音がした。
ほどなくして母が入ってきた。
「ミラ、具合はどう?」
水とスープを載せたトレーを手にした母が、心配そうに私を見つめていた。
「だいぶよくなりました」
私は母に笑ってみせた。
力を使ったあとは必ず反動が出る。
吐き気、視界のかすみ、頭痛。
ひどいときは、今回のように気を失ってしまうこともある。
「それならよかったわ。マシェル先生は体に異常はないとおっしゃっていたけれど、急に倒れるんですもの。気が気ではなかったのよ」
私は、そんな母の頭上をじっと見つめた。
そこに浮かんでいるのは、はっきりとした光の玉。
しかも、かなり大きい。
母が私に抱いている感情が、どんなものなのかは正確にはわからない。
でも、見当はつく。
きっと、これは心配と同情なのだろう。
母が私を愛してくれていることは知っている。
けれど、愛想のいい妹のほうが、昔から両親に可愛がられてきたのもまた事実だった。
だから不安だった。
母がすべてを知ったとき、今のように私を案じてくれるだろうか。
妹の肩を持つのではなく、ちゃんと私の味方でいてくれるだろうか。
「少しでいいから、飲んでちょうだい」
言われるまま、私はスプーンを取って薄いスープを口に運んだ。
優しく微笑んでくれる母には申し訳ないけれど、私は母の感情を、私に都合のいいほうへ傾けることにした。
スープを飲み込みながら、母と目を合わせた。
「どうしたの、ミラ」
「いいえ。ただ……」
そのまま母を見つめ、意識を集中させた。
すると、母の頭上の光の玉がゆっくりと膨らんでいった。
「うれしいです、お母様。こんなにも私を案じてくださるなんて」
これ以上ないほど、母の中にある、私を不憫に思う気持ちを限界まで膨らませた。
「この子は、何を言うの……」
みるみるうちに、母の瞳が潤んでいった。
やがて涙は頬を伝い、母は堰を切ったように泣き出した。
「ごめんなさい、ミラ……あなたのことをちゃんと気にかけてあげられなくて……卒業パーティーでベレツ令息があなたに酷いことをしたと聞いたわ。あなたがあんな目に遭っていたのに、私は何も知らなくて……」
泣き崩れる母を見ていると、胸が痛んだ。
少し増幅しすぎたかもしれない。
そう後悔しながら、私は母を抱きしめて、その背中をさすった。
そのとき、ふいに視界が揺らいだ。
「ミラ!」
力が抜け、私はそのままベッドに倒れ込んだ。
少し、無理をしすぎたらしい。
どうやら母は、私がベレツ令息に人前で恥をかかされたことだけを聞いていて、詳しい事情までは知らないようだ。
とくに、セラが関わっていたことまでは。
もし事実を知ったら、母はどうするだろう。
……その答えは、もうわかっている。
◇◇◇
数日静養したおかげで、体調はかなり戻った。
そんな折、元婚約者のカール・ベレツが屋敷を訪ねてきた。
婚約破棄を突きつけたうえ、あれだけの暴力まで振るっておきながら。それでも彼がのこのことやって来たのは、セラとの婚約を認めてもらうためだった。
厚かましいにもほどがある。
卒業パーティーで晒した醜態を、もう忘れたのだろうか。
応接室に入ってきたカールの頭上の黒い煙は、もうほとんど元の大きさに戻っていた。
一度増幅した感情も、時間が経てば元に戻る。
彼は私など眼中にないとばかりに両親へ向き直った。
「ミラ嬢とはどうにも性格が合わず、婚約を解消したく思っております。その代わり、セラ嬢との婚約をお許しいただきたく、本日伺いました」
セラはカールの隣で、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
普段から自分を甘やかしてきた両親が、今回も当然自分の味方をしてくれると信じているのだろう。
まあ、それも無理はない。
これまで両親は、セラが甘えればたいていのことは許してきた。
私自身も、セラが欲しがるものはいつも譲ってきた。
だから今回も当然のように、婚約者さえあっさり差し出すと思っているのだろう。
ええ、その通りよ。
カールはあなたにあげるわ。
でも、どうか忘れないで。
その代わり、相応の代償があるということを。
――さて、ここからが芝居の見せ場だ。
「カール様……」
私はいかにも傷ついた顔を作り、カールを見た。
「どうしてこんなことができるのですか。よりにもよって、私が何より大切にしていた妹と……私はあなたを信じて、愛していたのに。どうして私を裏切ったのですか?」
「は? 何を言ってるんだ。俺たちはただ家同士で決まった婚約だっただろ……」
カールはあからさまに戸惑いを顔に出した。
彼の言い分は間違っていない。
私たちの婚約は政略的なものだ。
私とは違って、カールは一度だって私に心を向けたことなどなかったのだろう。
だから裏切ったところで、何とも思わないのかもしれない。
けれど――果たして、お父様とお母様も同じだろうか。
私は両親の顔を見た。
案の定、二人とも深刻な表情をしていた。
とくに母の目には、すでに涙がいっぱいに溜まっていた。
それを確認してから、私はセラへ向き直る。
「セラ。あなたたちが私に隠れて逢瀬を重ねていたことは、とっくに知っていたわ」
「お、お姉様……」
「今まで、あなたが欲しがるものは何でもあげてきた。それでも足りなかったの?」
そう言いながら、私はその場に崩れ落ちた。
絶望したように顔を歪めて、震える声を絞り出した。
「どうして、何もかも奪っていくの! カール様は私のすべてだったのに……どうして平気で奪えるの? 妹にも婚約者にも裏切られて、私はもう誰からも見捨てられたのよ。もう、生きていく理由なんてないわ!」
演技のはずなのに、本当に感情が込み上げてきた。
気づけば目頭まで熱くなっていた。
……いいえ。
もしかすると、これは最初から演技なんかじゃなかったのかもしれない。
私はずっと、心のどこかで悔しかったのだろう。
綺麗なドレスも、誕生日にもらった髪飾りも、お気に入りの侍女も。
デビュタントで最初に踊る相手も、両親の関心さえも。
セラは昔から、私のものを当たり前のように奪っていった。
その悔しさが、ずっと胸の奥に溜まっていたのかもしれない。
次から次へと涙が零れ落ちた。
視界が滲み、何も見えなくなるほどで、胸の奥まで本当に痛みだした。
その場にへたり込んで泣く私を、母が駆け寄って抱きしめ、一緒に泣き始めた。
「ミラ……なんてかわいそうな子なの……」
母はひどく動揺していた。
今朝もう一度、母の感情を増幅させておいたせいで、頭上の光の玉はまだ大きいままだった。
「ベレツ令息がセラと逢瀬を重ねていたなんて……セラが姉にそんな酷い傷を負わせていたなんて……」
父は母を支えるようにそばへ来て、その肩を抱いた。
私が増幅したわけではないのに、父の頭上の光の玉も少し大きくなっていた。
父も母も、もう完全に私の味方だ。
今が好機だった。
私は涙を拭い、傍らに控えていた侍女ルーシーに目で合図を送った。
すぐに歩み寄ったルーシーが、抱えていた書類の束を私に手渡した。
私はそれを父に差し出した。
「お父様、お母様。こちらをご覧ください」
「これは何だ」
「すぐには信じていただけないかと思い、使用人たちの証言を集めておきました。カール様とセラが二人きりでいるところを見た、という証言です」
その言葉に、カールとセラの顔が強張った。
父は書類を一枚一枚めくり、そのたびに表情を険しくしていった。
父が最後のページに目を落としたところで、私はさらに言い添えた。
「それから、最後に添えてありますのは、カール様が賭場に出入りしていた記録です。念のため、あわせてご覧くださいませ」
父の目に一瞬、痛ましげな色がよぎった。
だが、その眼差しはすぐにカールへ向けられ、氷のように冷えきっていた。
「公の場でミラに暴力を振るい、恥をかかせたばかりか、セラとの不義のうえ、賭博にまで手を染めていたとは……」
「伯爵様、私は……」
「君を我が家の人間として迎える件は、考え直さねばなるまい」
カールが何か言いかけたが、父は取り合わなかった。
「もう下がりたまえ」
重々しいその一言に、カールは冷や汗を拭いながら引き下がるしかなかった。
◇◇◇
数日後、思いもよらないことが起きた。
両親が、セラを勘当すると決めたのだ。
正直、これは私の予想を上回る結果だった。
今回の件をなかったことにするとは思っていなかったけれど、まさか実の娘であるセラを家から追い出す決断までなさるなんて。
「二人はすでに一夜を共にしていたようだ。セラとの関係を利用して、我が家に取り入ろうとしたのだろう。苦渋の決断ではあるが、当主として見過ごすわけにはいかん。今後、セラとベレツ令息がどうなろうと、我が家は一切関知しない」
名誉と家の規律を何より重んじる父の判断は厳しかった。
それは、ほとんど親子の縁を切るも同然の宣告だった。
もともと情の深い母でさえ、私への同情があまりにも大きくなっていたせいで、セラの追放に頷いてしまった。
セラは「私は悪くない、全部お姉様の策略よ」と泣き叫んだ。
けれど、両親の心はもう動かなかった。
そうして、セラは家を追われた。
家を出たセラはカール・ベレツのもとへ身を寄せ、そのまま一緒に暮らしているらしい。
これでセラは幸せになれるのかしら。
それとも、不幸になるのかしら。
彼女の行く末がどうであれ――
セラはただ、自分で選んだ。それだけだ。
それから私は、次の一手に移った。
悪いけれど、カールの転落はまだ終わらない。
卒業パーティーでの一件ですでに、彼の評判は社交界で地に落ちていた。
そんな男なら、少し手を回すだけで二度と這い上がれないところまで簡単に落とせる。
私は社交界でもとりわけ顔の広いレイラ公爵令嬢に近づき、親交を深めた。
彼女が私に抱いていたごく小さな好意を、限界まで膨らませるのにそう時間はかからなかった。
レイラ令嬢は、すでに卒業パーティーでのカールの噂を耳にしていた。
そんな彼女に、私はカールのことをありのまま話した。
もともと、令嬢に手を上げた時点で、レイラ令嬢は彼を軽蔑していた。
そこへほんの少し噂の種をまいただけで、効果はてきめんだった。
ほどなくして、カールは貴族令息の中でも救いようのない男だと知れ渡った。
公の場で感情を抑えられず、令嬢に暴力を振るう。
そのうえ能力もなく、賭博に溺れている。
そんな男に何かを任せたらろくなことにならない――そんな評判が、社交界にあっという間に広がったのだ。
やがて、夜会の招待客名簿からカール・ベレツの名は消えた。
それどころか、ベレツ家まで損害を被り、ついには取引まで打ち切られるようになった。
おそらく家の中でも、カールは相当恨まれたに違いない。
数か月すると、ベレツ家も家名に泥を塗るカールをかばいきれなくなったのか、彼を遠い田舎へ送ることを決めた。
もちろん、私の妹――セラも一緒に。
◇◇◇
カールとセラが田舎へ送られてからしばらくして、私は二人の住まいを訪ねた。
最後に一度、この目で確かめておきたかったのだ。
そこはとても、貴族の子女が暮らす家とは思えなかった。
森に近い村はずれにぽつんと建つ、みすぼらしい小屋。
私が着いたとき、家にいたのはセラ一人だった。
しかも、想像以上にみじめな姿で。
古びたテーブルにぐったり突っ伏していたセラが、のろのろと顔を上げて私を見た。
やつれたその顔に、かつての伯爵令嬢の面影はほとんどない。
「お姉……様?」
力のない目で私を見ていたはずのその瞳に、みるみる憎悪の色が宿った。
頭上の黒い煙は、最後に会ってからのあいだにひとりでに膨れ上がり、かなりの大きさになっていた。
ずいぶん、私を恨み続けてきたのだろう。
「何をしに来たんですか」
低い声で問うセラを、私は静かに見返した。
よく見ると、彼女の腹は大きく膨らんでいた。
もう六か月は過ぎているようだった。
ベレツ家からもろくな援助を受けられないまま、子どもを産み育てるつもりなのだろうか。
とてもそんな余裕があるとは思えないのに。
私は小さく息をつき、テーブルの上に小さな革袋をそっと置いた。
「少しは入り用かと思って」
「誰がそんなもの頼みました?」
「そう? いらないの?」
「……いりません」
口ではそう言いながらも、セラの視線は袋の口から覗く銀貨へと何度も吸い寄せられていた。
何不自由なく育った彼女がここまで落ちぶれた姿を見ると、なんとも言えない気分になった。
かつては家事などしたこともなかった手が、今ではすっかり荒れていた。
その手を見つめたまま、私は尋ねた。
「カールはどこに?」
「賭場です。金を工面しに」
生活費が必要だというのに、カールが頼った先は結局また賭場だった。
「まっとうに働けばいいでしょうに」
「まともなところでは雇ってもらえなくて……商いでも始めたらと勧めても、商人なんて自分には向いていないって突っぱねるんです。ほかの仕事だってやりたがらなくて」
……本当に、カールらしい。
私は呆れて、ため息をこぼした。
「行かないでって泣いて頼んでも、全然聞いてくれないの。そんな仕事じゃまともに稼げない、賭場で一攫千金するしかないんだって。止めたって喧嘩になるだけなのよ」
セラはぽろぽろと涙を零した。
ほんの少しだけ、同情しかけた――そのときだった。
セラが、赤く腫れた目で私を睨みつけた。
「これも全部、お姉様のせいよ。お姉様がお父様とお母様の前で泣いて見せたりしなければ、お姉様が笑って私たちの婚約を祝福してくれていたら、私もカールもこんな目に遭わなかったのに」
つまり私は、何もかも奪われたまま、笑ってあなたたちを祝福しろと?
まだ苦労が足りないのかしら。
それとも、まるで懲りていないのかしら。
私は冷ややかに目を細めた。
「それなのに、お姉様は! 私たちを悪者にして、自分だけ可哀想なふりをしたのよ! お姉様はとんでもない悪女よ! お姉様なんて、お姉様なんて死んでしまえばいいのよ!」
これ以上、彼女の悪態を聞いている義理はなかった。
私は静かに立ち上がった。
そして最後に、セラに言った。
「セラ。あなたはあなたなりに、最善の選択をしたのよ。けれど」
「……」
「その責任を取る時が来ただけよ」
その言葉だけ残し、私は振り返らずに小屋をあとにした。
テーブルの上の革袋も、そのまま置いていった。
やがて、閉ざされた扉の向こうから、セラの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
◇◇◇
それからしばらくして、ハルトシュタイン伯爵邸に新たな縁談が舞い込んだ。
それは、マティス・ネベルマルク公爵からの求婚だった。
ネベルマルク公爵に嫁いでも、将来ハルトシュタイン伯爵家を継ぐのは私だ。
つまり私は、公爵夫人でありながら伯爵家当主にもなる。
もし私たちに子が生まれれば、長子がネベルマルク公爵位を、次子がハルトシュタイン伯爵位を継ぐ。
そうすれば、ハルトシュタイン伯爵家も家名を絶やさずに済む。
この縁談を断る理由のない両親は、諸手を挙げて歓迎した。
そして私は――
屋敷を訪れたマティス公爵の口から出た言葉が、どうしても信じられなかった。
「ずっと、ミラ・ハルトシュタイン嬢をお慕いしておりました」
どうして。
なぜ。
いつから。
頭の中が疑問でいっぱいになった。
「ずいぶん驚かれたようですね」
マティスが微笑んだ。
応接室で一緒にお茶を飲んでいた両親もまた、不思議そうに彼を見つめていた。
「私は、あなたの優しさに惹かれたのです」
「優しさ……ですか?」
自分にはあまりにも似つかわしくない言葉に、私は目を瞬かせた。
「ええ。ハルトシュタイン嬢は、もうお忘れかもしれませんが……私はあの日のことをよく覚えています」
そうしてマティスは、胸の奥にしまっていた記憶を、静かに語り始めた。
二年ほど前、学園の創立記念パーティーの夜のことだった。
あの日のマティスは、当時縁談の話が出ていたシュハテン公爵令嬢をエスコートすることになっていた。
ところがその日、シュハテン嬢が踊った相手はマティスではなく、別の公爵家の令息だった。
ひとり取り残されたマティスは、シュハテン家が最近その公爵家と取引を進めようとしている、という話を思い出した。
マティスがネベルマルク公爵家の嫡男ではなく、次男であることも理由のひとつだったのだろう。
貴族の縁談など、所詮そんなものだ。
苦々しい思いでワインを口にしていると、不意に誰かが、おずおずと彼の前に立った。
緊張した面持ちで、何かを言おうとしてはためらうその少女もまた、彼と同じ新入生だった。
ハルトシュタイン伯爵家の令嬢だったか。
「その……おひとりでしたら、私と一曲いかがですか」
彼女はぎこちなくダンスに誘ってきて、マティスも戸惑いながら、気づけばその手を取っていた。
最初は、自分の気を引こうとしているのだと思った。
けれど彼女は、踊っているあいだじゅう、何か言いたげに、それでいてひどく真剣な顔で唇をきゅっと噛んでいた。
そして、曲も終わりに差しかかった頃、ようやく彼女は口を開いた。
「人の選択は、ときに残酷です。ですが、それであなたが損なわれるわけではありません」
そのときになってようやくマティスは、この小さな少女が自分を気遣って声をかけてくれたのだと気づいた。
不思議なことに、その言葉を聞いた瞬間、胸のつかえがすっと下りた。
それと同時に、まっすぐ自分を見つめる彼女が、ひどく眩しく見えた。
それからというもの、マティスはずっとミラを目で追うようになった。
遠くから見守るうちに、気づけばミラのことばかり考えるようになっていた。
兄が資質の問題で後継から外れ、マティスが公爵位を継ぐことになったときには、いくつもの家から縁談が舞い込んだ。
だが彼は、誰とも婚約しなかった。
いや、できなかったのだ。
心を占めるただ一人のひと以外とは――
話を聞き終えた私は、小さく息を吐いた。
あの日のほんのわずかなやり取りを、彼がそれほど大切に胸にしまっていたことが、不思議でならなかった。
あの時マティスに声をかけたのは、ダンスの相手に裏切られ、ひとり取り残された彼の姿に、かつての自分を重ねてしまったからだ。
私のデビュタントの日、両家の間で最初のダンスの相手として決められていた令息がいた。
だが、彼が見目麗しい方だと知ったセラが、いざその瞬間になって現れ、『あいにくお姉様は体調が優れませんの』と横からその相手を奪っていった。
結局その日は、一度も踊れないまま壁の花で終わった。
そのときの記憶がよみがえって、ひとりで立ち尽くす彼を放っておけなかった。
ただ、それだけのことだったのに……
「今までは、あなたに婚約者がいらした。だから、この想いをお伝えすることができなかったのです」
その言葉は、今日という日をずっと待っていたのだと告げているようだった。
深い眼差しで私を見つめる彼を見返していると、その想いの真剣さがまっすぐ伝わってきて、胸がかすかに震えた。
そんなマティスの頭上には、やはり何も浮かんでいなかった。
……あのとき、見間違いではなかったのね。
こんな人は初めてで、どうしても気になった。
この先、彼の頭上には何が浮かぶのだろう。
その疑問をひとまず呑み込み、私は彼に微笑んだ。
「それなら、これからはたくさん聞かせていただけますのね」
私の言葉に応えるように、マティスの瞳が輝いた。
「では、まずはふたりで過ごす時間をいただけますか」
「ええ」
私は席を立ち、エスコートするように差し出された彼の腕にそっと手を添えた。
誰にも邪魔されない、二人きりの時間の始まりだった。
◇◇◇
正直に言えば、いずれマティスの頭上にも何かが現れるのではないかと思っていた。
煙である可能性は低い。
おそらく、光の玉だろうと思っていた。
もし光の玉が現れたら、私はその都度それを少しだけ増幅させて、この先は穏やかに愛されて生きていくつもりだった。
けれど、どれだけ会っても、マティスの頭上には何ひとつ現れなかった。
こんなことは初めてで、不思議な気分になった。
平穏な日々が続くうちに、私の張りつめていた心は少しずつほどけていった。
マティスはあまりにも頼もしく、彼のもとへ嫁ぐと決まっただけで、もう守られているような気がしていたから。
彼の頭上に何もないことが、そんなに困ることなのだろうか。
いいえ。
もしかしたら、今の私にはもうこの力は必要ないのかもしれない。
こんな力がなくても、私はきっと幸せになれる。
これからはマティスが、ずっとそばにいてくれるのだから。
そう思った翌日、私は一人で領地の女神像を訪れた。
そして、誰にも知られないよう、そっと祈った。
――どうか、この力が消えますように。
そして翌朝、目を覚ますと、私に宿っていた不思議な力は跡形もなく消えていた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
◇◇◇
「ミラ」
マティスが優しく私の名を呼んだ。
私は応えるように彼の胸へ飛び込んだ。
広い胸に顔を埋めると、優しい手つきで髪を撫でられた。
マティスはそっと私をベッドに寝かせ、唇に柔らかく口づけた。
彼の吐息に混じるワインの香りが、ほのかに鼻をくすぐった。
それから私たちは、ベッドの上でくすくす笑いながら、じゃれ合った。
もう、誰も私を妬んだり、裏切ったりしない。
マティスと結婚式を挙げ、正式に夫婦となってからというもの、私の日々は幸せに満ちていた。
きっと、この先もずっと。
「ミラ。愛している」
マティスはいつものように、まっすぐ私を見つめて愛を告げた。
彼が口にする愛の言葉が、胸に沁みてきた。
柔らかなシーツのぬくもりと彼の眼差しに、私は優しく包み込まれた。
「私も愛しています、マティス」
彼は嬉しそうに笑い、優しく私の頬を撫でた。
そしてさらに、こう告げた。
「これ以上ないほど、君を愛している」
その言葉が、頭の奥で弾けた。
これ以上ないほど愛している。
その一言で、ずっと抱えていた疑問がほどけた。
――どうして今まで、彼の頭上には光の玉も黒い煙も浮かばなかったのか。
もしかしたら、私に見えていたのは、まだ揺らぎのある感情だけだったのかもしれない。
増幅できる余地のある想いだけが、光や煙のかたちを取る。
けれど彼の想いは、最初から何ひとつ足す必要のないほどに満ちていた。
だからこそ、私の目には映らなかった。
そう思った瞬間、頭の中がすっと晴れ、胸の奥まであたたかくなった。
「マティス。私はとても幸せです」
そう囁くと、私は彼の首に腕を回した。
マティスは愛おしむように私を抱き寄せ、もう一度口づけた。
さっきよりも少しだけ優しく、ゆっくりと。
触れ合うたび、胸の奥がじんわりと満たされていく。
あまりにも完全で、何ひとつ欠けることのない彼の想いに、
今度は私も、同じだけの想いで応えていこう。
マティスを、これ以上ないほど愛していこう。
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