カイラ
山脈の麓に着いたのは、十日目の昼過ぎだった。
平原が終わる場所は意外とはっきりしていた。草の海が途切れ、地面が硬くなり、石が増える。灰色と茶色が混ざった礫が足元に散らばっていて、歩くたびに乾いた音がした。空気も変わった。平原を渡ってきた風が岩肌にぶつかって巻き上がり、冷たい下降気流となって降りてくる。首筋がひやりとした。
山脈は目の前にあった。遠くから見ていたときは薄紫の影に過ぎなかったものが、今は圧倒的な質量として視界を埋めている。灰色の岩壁が積み重なり、上の方は白い霧に覆われている。その向こうに何があるのか、ここからでは見えない。
「おっきい」
シエが見上げて言った。首が痛くなるほど真上を見ている。
「遠くから見てたときより、おっきい」
「近づけばそうなる」
「当たり前のこと言わないでよ」
「当たり前のことは重要だ」
シエは口を尖らせたが、すぐに山の方に顔を戻した。風が金髪を巻き上げる。平原とは違う、硬い風だった。
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麓に沿って北へ向かった。地図屋の老婆が言っていた——峠は山脈の中央よりやや北寄りにある。旧街道の跡を辿れば、入口が見つかるはずだ。
礫混じりの斜面を歩くのは、平原とは違う困難があった。足場が不安定で、小石が転がる。シエは何度かよろめいたが、転びはしなかった。布靴の底が薄いぶん、足裏で地面の凹凸を感じ取っているようだった。
「ヴァルト、石ころ多い」
「山だからな」
「平原がよかった」
「戻るか?」
「やだ。前に進むの」
そう言って、シエは石を一つ蹴った。石はころころと斜面を転がり、下の方で止まった。
「今の、けっこう飛んだね」
「蹴るな。靴が壊れる」
「もう三つ目でしょ。壊れたらまた作って」
「……甘えるな」
「甘えてないよ。お願いしてるの」
甘えとお願いの区別がヴァルトにはつかなかったが、たぶんシエにとっては明確に違うのだろう。
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廃村を見つけたのは、その日の夕方近くだった。
麓に沿って続く緩やかな斜面の途中に、石造りの建物が数軒並んでいた。壁は半分崩れ、屋根は抜けている。だが完全な瓦礫ではなかった。いくつかの建物は、壁が二面以上残っていて、風をしのげそうに見えた。
村の入口——と呼べるかは怪しいが、崩れた石壁の間を通ると、中央に広場のような空間があった。地面に敷石が残っている。石と石の間から細い草が伸びていた。平原ほどの勢いはないが、それでも確かに緑が戻りつつある場所だった。
人の気配がした。
ヴァルトは立ち止まった。右手が腰の横に落ちる。武器は持っていないが、身体が勝手にそう動く。七年経っても抜けない癖だった。
広場の奥、壁が比較的しっかり残っている建物の前に、人がいた。
女だった。
地面に直接座り込んでいる。膝の上に何かを広げている——紙束だ。手に炭のようなものを持っている。書いている。何かを、一心に書いている。
ヴァルトたちに気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。顔を上げない。
短く刈り込んだ髪。日焼けした肌。歳はヴァルトに近いか、少し上か。身につけているのは茶色の厚手の上着と、膝まである革の長靴。旅慣れた格好だった。
シエがヴァルトの外套の裾を引いた。
「ねえ、あの人」
「見えてる」
「何してるの?」
「書いてる」
「何を?」
「知らない」
「聞けばいいじゃん」
聞けばいい。子供の論理は時々正しい。だが大人は、見知らぬ人間に気安く声をかけることのリスクを知っている。特にこの時代、人の領域に踏み入ることは——
「ねえー!」
シエが声を上げた。ヴァルトが止める前に。高く、よく通る声が広場に響いた。
女が顔を上げた。
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最初に目に入ったのは、右腕だった。
袖が肘までまくり上げられていて、前腕の内側に深い傷跡が走っていた。火傷ではない。刃物か、あるいは飛散した破片によるもの。古い傷だ。七年以上前のものだろう。白く盛り上がった瘢痕が、手首から肘まで断続的に続いている。
女はシエを見た。それからヴァルトを見た。目は暗い茶色。鋭いが、敵意のある鋭さではなかった。観察の目だった。誰が来たのか、何をしに来たのか、脅威かどうか——そういうことを一瞬で判断しようとする目。
「……旅の人か」
声は低く、乾いていた。独り言のような響きだった。
「今夜、ここで野営させてもらいたい」
ヴァルトが言った。丁寧すぎず、無礼すぎない。見知らぬ相手に話しかけるときの最低限の形式だった。
女は紙束を膝の上から退かし、ヴァルトの背後——シエに目を向けた。
「子連れか」
「……連れだ」
「食料は」
「二人分、もう一日はもつ」
「水は?」
「この先に沢があった。汲んである」
女は頷いた。許可とも了承とも取れる、曖昧な動き。
「あたしもここを使ってる。広場の反対側なら邪魔にはならない」
「助かる」
「助けてない」
そう言って、女は再び紙束に目を落とした。会話の終了を告げるように。
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広場の反対側に荷を降ろし、野営の支度を始めた。崩れた壁の内側に入ると、風がだいぶ遮られた。地面は乾いていて、小石を避ければ寝られそうだった。
シエは荷解きの手伝い——というよりは、あちこちを覗き回っていた。壁の隙間に手を突っ込んでみたり、敷石の草を引っ張ってみたり。
「ヴァルト、ここ昔は人が住んでたの?」
「たぶんな」
「穴の街とは違うね」
「地上の集落だった。戦前はこういう村がたくさんあった」
「なんでいなくなったの?」
「……戦争だ」
「ふうん」
シエはそれ以上聞かなかった。その代わり、広場の向こう側を見た。女がまだ何かを書いている。炭を走らせる手は止まらない。
「ねえ、あの人のとこ行っていい?」
「……好きにしろ」
止める理由がなかった。女に敵意がないことは確認できた。それに、シエを止めたところで聞くかどうかは別の問題だった。
シエは軽い足取りで広場を横切っていった。ヴァルトは火の準備をしながら、視界の端でその小さな背中を追っていた。
---
シエは女の前にしゃがみ込んだ。遠慮というものを知らない距離感で。
「ねえ、何書いてるの?」
女の手が止まった。顔を上げずに、視線だけをシエに向けた。
「……記録」
「きろく?」
「この辺りに住んでた人たちのこと。どんな人がいて、何があって、どこへ行ったか」
「本?」
「本っていうほどまとまっちゃいない。ただの殴り書きだ」
「見ていい?」
「駄目だ」
「なんで?」
「他人に見せるためのものじゃないから」
シエは首を傾げた。「見せないのに書くの?」という顔だった。言葉にはしなかったが、表情がそのまま疑問を発していた。
女はそれを見て——少しだけ、口元が緩んだ。笑ったというほどではない。だが完全な無表情が、わずかに崩れた。
「……あんた、名前は」
「シエ」
「シエか。あたしはカイラ」
「カイラ」
シエは名前を繰り返した。いつもそうする。名前を聞いたら口に出して確認する。音を確かめるように。
「カイラって、強い音だね」
「……は?」
「名前にも強いのと弱いのがあるの。カイラは強い。カ、って始まるから」
「何の話だ」
「名前の話。わたし、名前つけるの好きなの。花とかに」
カイラはシエを見つめていた。訝しげではあったが、不快ではなさそうだった。子供の言葉を処理しようとして、うまく分類できずにいる顔だった。
「花に名前をつけるのか」
「うん。今日はまだ見つけてないけど。山のへんは花少ないね」
「……麓には咲く。もう少し季節が進めば」
「ほんと? カイラ、花知ってるの?」
「少しは」
「じゃあ今度教えて」
「今度って——」
「明日とか」
カイラは口を閉じた。シエの距離の詰め方に戸惑っているようだった。明日。それは、明日もここにいるという前提だ。旅人同士が一晩を共にするだけの関係ではなく、もう少し長い時間を見込んでいる。
シエにとっては何でもないことだった。気に入った相手がいれば、また話したい。それだけの話だ。だが大人にとって——特にこの時代の大人にとって——それは簡単なことではなかった。
「……あたしは明日には発つ」
「どこ行くの?」
「次の集落だ。記録がまだ済んでない場所がある」
「忙しいんだ」
「忙しいっていうか——やることがあるだけだ」
シエは頷いた。わかったのかわからないのか判然としない顔で。それからカイラの紙束に視線を戻した。
「ねえ、一個だけ聞いていい?」
「一個だけな」
「記録して、どうなるの?」
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風が吹いた。山からの冷たい風。広場の草が揺れ、カイラの紙束の端がめくれた。カイラが手で押さえた。
長い沈黙だった。
カイラは紙束を見下ろしていた。炭で書かれた文字が並んでいる。ヴァルトの位置からは読めない。だが、びっしりと書き込まれていることはわかった。余白ほとんどなく、紙の端まで文字が詰まっている。
「……誰かがいたことを、残したいんだ」
カイラの声は静かだった。さっきまでの乾いた声とは少し違っていた。乾いているのは同じだが、その奥に湿ったものがある。
「この村にも人がいた。名前があって、暮らしがあって、朝起きて夜寝る日常があった。そういうものが全部なくなった。建物が残ってて、草が生えて、そのうち誰にも思い出されなくなる」
「…………」
「それが嫌なんだ。嫌っていうか——それでいいとは思えない。誰かがここにいたことを、あたしが書かなきゃ、なかったことになる」
シエは黙って聞いていた。子供特有の真剣さで。言葉の意味を一つ一つ受け止めているような顔だった。
「全部は書けない。名前がわからない人もいる。何があったか、正確には知らない場所の方が多い。でも、何かを書く。一行でもいい。ここに人がいた。それだけでも」
カイラは紙束に目を落とした。
「だから記録してる。誰に見せるためでもない。あたしが書く。それだけのことだ」
シエはしばらく黙っていた。風が吹く。カイラの短い髪が揺れる。
「じゃあさ」
シエが言った。
「ヴァルトもいたこと、書いてもらえる?」
カイラが顔を上げた。
「ヴァルトって——あっちの男か」
「うん。ヴァルトもここにいたでしょ。今。いたこと、書いてもらえる?」
カイラはシエを見つめた。それから広場の向こう側で火を起こしているヴァルトに目を向けた。遠い。火の光がちらちらと揺れている。痩せた男の背中が見える。
「……書くなら、名前がいる」
「ヴァルト。ヴァルトだよ」
「それだけか」
「うん。ヴァルト。わたしはシエ。ここにいたのは、カイラとヴァルトとシエ」
カイラの目が細くなった。
ヴァルト。その名前に聞き覚えがあるのかないのか。表情からは読み取れなかった。だが何かが引っかかったように、一瞬だけ手が止まった。
「……あんた、あの男の何だ」
「何って?」
「家族か。親戚か」
「ちがうよ。一緒に歩いてるだけ」
「一緒に歩いてるだけ」
カイラはその言葉を繰り返した。噛み砕くように。
「…………」
「書いてくれる?」
「……まあ、いい。書いとく」
カイラは紙束を一枚めくり、新しいページの端に何かを書きつけた。小さな文字だった。何を書いたのかは見えなかった。
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夕飯は三人で食べた。
正確に言えば、ヴァルトとシエが穀物を煮たものを食べていたところに、カイラが近づいてきて、黙って自分の食料を火の傍に置いた。干し肉だった。薄く切られた、塩気の強い肉。
「……これは」
「交換だ。穀物を少し分けろ。干し肉と替えてやる」
「助かる」
「だから助けてない。等価交換だ」
同じやりとりを繰り返す女だった。ヴァルトは干し肉を受け取り、穀物を椀に盛ってカイラに渡した。
シエは干し肉を噛みながら、目を輝かせていた。
「おいしい。しょっぱくておいしい」
「塩漬けだ。保存がきく」
「カイラ、料理できるの?」
「これは料理じゃない。干しただけだ」
「干すのも料理だよ」
「違う」
「おいしければ料理でしょ」
カイラは反論しかけて、やめた。子供の理論に対抗する気力がないのか、対抗する意味がないことを悟ったのか。
三人が焚き火を囲んでいた。大人が二人と子供が一人。十日前まではヴァルトとシエの二つの影しかなかったところに、三つ目の影が加わっている。
シエは二人の大人の間に座っていた。右にヴァルト、左にカイラ。時折どちらかの方を向いて話しかける。忙しい首だった。
「カイラ、どこから来たの?」
「南だ。ずっと南」
「南って何があるの?」
「街の跡だ。大きな街があった」
「穴の街?」
「地上の街だった。今はない」
「なくなったの?」
「…………」
カイラの手が止まった。干し肉を引き裂こうとしていた指が、動きを止めた。一瞬のことだった。すぐに手は動き出したが、ヴァルトはそれを見ていた。
「戦争でな」
「ふうん」
「焼けた。全部」
カイラの声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、何度も同じことを口にしてきた人間の声だった。繰り返すうちに、言葉から温度が抜けていく。そういう種類の平坦さだった。
シエは黙った。穴の街で老兵に「まだ生きてたか」と言われたときと同じ——子供なりに何かを感じ取っているが、それを言葉にする術を知らない顔だった。
「カイラの家族も?」
ヴァルトは口を開きかけた。止めろ、と。子供であっても踏み込んではいけない場所がある。だがその言葉は、喉まで上がってきて止まった。
カイラが先に答えたからだ。
「夫と、息子がいた」
過去形だった。それだけで十分だった。
シエは何も言わなかった。質問もしなかった。ただカイラを見ていた。焚き火の光がカイラの横顔を照らしていた。右腕の傷跡が影の中にある。短い髪の毛先が風に揺れている。
「だから書いてるのかな?」
「…………」
「いたこと、残したいから。カイラの家族のことも、書いてあるの?」
「——最初のページに」
カイラの声がかすかに震えた。かすかに。焚き火の音に紛れるほどの揺れ。だがヴァルトは聞いた。シエも——たぶん、聞いていた。
「最初のページなんだ。一番大事なとこだね」
「…………」
「本って、最初のページが一番大事って聞いたことある」
「誰に聞いた」
「誰にも。今思った」
カイラは少しの間、シエを見つめていた。それから小さく息を吐いた。笑いとも溜息ともつかない息だった。
「……変な子だな」
「よく言われる」
「誰に」
「ヴァルトに」
シエがヴァルトを指さした。ヴァルトは何も言わなかった。否定する材料がなかった。
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シエが先に寝た。外套にくるまって、カイラの焚き火の近くで丸くなった。自分たちの野営地ではなく、カイラの側を選んだのだ。ヴァルトが何も言わなかったのは、シエの判断を信じたのか、それとも止めても無駄だと知っていたからか。たぶん両方だった。
シエの寝息が聞こえるようになってから、カイラが口を開いた。
「あの子、ずっとああなのか」
「ああだ」
「人見知りしないのか」
「した試しがない」
「危ないな」
「……わかってる」
火が爆ぜた。枝が崩れて、火の粉が散る。カイラが新しい枝を足した。手慣れた動きだった。一人で旅をしてきた人間の手つき。
「あんた——ヴァルトだったか」
「ああ」
「どこを目指してる」
「東だ。山を越える」
「アルヴィスか」
ヴァルトは黙った。隠すつもりはなかったが、知っているのかと少し驚いた。
「記録を集めてると、名前は出てくる。アルヴィス。戦前の記録都市。行った人間の話は聞いたことがないがな」
「そうか」
「あの子のためか」
「…………」
「子連れで山越えは無謀だ。わかってるのか」
「わかってる」
「わかっててやるのか」
「他に方法がない」
カイラはヴァルトを見た。焚き火の光が顔の半分を照らしている。暗い茶色の目が、炎の色を映して揺れている。
「あたしは戦後ずっと記録を集めてる。生き残った人間の顔を見てきた。百人以上の話を聞いた」
「…………」
「逃げてる奴と、抱えてる奴は、目が違う。あんたは——」
カイラは言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。代わりに火を見つめた。
「まあいい。あたしが聞くことじゃない」
「…………」
「ただ、あの子は巻き込むなよ。何を抱えてるにしても」
ヴァルトは答えなかった。
巻き込むな。正しい忠告だ。だがすでに遅い。シエと出会った瞬間から——いや、シエの靴を布で作ったあの瞬間から、もうとっくに巻き込んでいる。巻き込まれてもいる。
「……善処する」
「善処って言う奴は大抵しない」
「かもしれない」
カイラは鼻を鳴らした。呆れとも納得ともつかない音だった。
しばらく、二人とも黙って火を見ていた。風が山の方から吹いてくる。冷たい風だ。夜になると気温が下がる。平原とは違う。
シエの寝息が規則正しく聞こえている。小さな呼吸。外套の膨らみが、吸って吐いてのリズムで微かに動いている。
「……子供がいたと言ったな」
ヴァルトが言った。自分でも意外だった。他人の過去に踏み込むようなことは、普段はしない。
カイラは火を見たまま答えた。
「息子だ。四つだった」
「…………」
「あの子と同じくらいの歳になってたかもしれない。生きてたら」
ヴァルトの胸の奥で、何かが軋んだ。あの子と同じくらい。シエと同じくらいの歳。焼けた街にいた子供。数万の中の一人。
「あたしは外に出ていた。記録を探して、南の仮設集落を回っていた。戻ったら、なかった。街も、家も、人も」
「…………」
「あの子がなつくのは、たぶん、うちの子に似てるからだ。似てるっていうか——子供は、みんなああなのかもしれないが」
カイラは短く笑った。乾いた笑いだった。
「で、あんたは何だ。ヴァルト。聞いたことのない名前でもないが、よくある名前でもある。術士兵か?」
ヴァルトは少し間を置いた。嘘をつくつもりはなかった。
「……昔は」
「今は?」
「何でもない。ただ歩いてるだけだ」
「ただ歩いてる人間は、あんな目をしてない」
「…………」
「まあいい。聞かない。あたしは記録する人間だが、聞きたくない話まで聞く趣味はない」
カイラは立ち上がった。紙束を革の鞄に仕舞い、外套を肩にかけた。
「明日、あたしは北へ行く。あんたらが峠を目指すなら、途中まで方向は同じだ」
「……一緒に行くと言っているのか」
「途中までだ。足手まといにならないなら、文句は言わない」
「足手まといはむしろ——」
「あの子のことは言ってない。子供は足手まといとは違う。遅いだけだ。遅いのは待てばいい」
ヴァルトは少し驚いた。足手まといではなく、遅いだけ。その区別をつけられる人間は多くない。
「……好きにしてくれ」
「好きにする」
カイラはシエの横を通りすぎ、自分の荷物の近くに腰を下ろした。横になる前に、一度だけシエの方を見た。眠っている子供の金髪が、焚き火の光に淡く光っている。
その目が——ほんの一瞬だけ——柔らかくなった。
ヴァルトはそれを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。
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翌朝、シエが最初に起きた。
朝日が山脈の稜線を越えてきたとき、シエはすでにカイラの前にしゃがみ込んでいた。
「カイラ、おはよう」
「………お前、いつ起きた」
「さっき。カイラ、寝顔こわい」
「……は?」
「眉間にしわ寄ってた。夢で怒ってた?」
「覚えてない」
「怒ってたんだよ。きっと」
カイラは黙って起き上がった。髪に寝癖がついていた。短い髪なのに寝癖がつくものなのか。シエはそこにも反応した。
「カイラ、髪はねてる」
「うるさいな」
「かわいい」
「——うるさい」
繰り返したが、声に棘はなかった。
ヴァルトは少し離れたところで荷をまとめていた。シエとカイラのやりとりを聞きながら。シエの声は平原にいたときと変わらない。人見知りをしないこの子供は、カイラをすでに「知っている人」の範疇に入れている。
カイラの方は——まだ戸惑いが残っていたが、完全に拒絶してはいなかった。うるさいと言いながら、シエの言葉に応じている。返事をしている。それだけで十分だった。
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三人は北へ向かって歩き出した。
カイラが先を歩いた。麓の道を知っているようだった。旧街道の跡が残っている場所を選んで進む。石畳の欠片が地面に埋まっている。かつてはここが道だった。人が行き来していた道。
シエはカイラの隣を歩いた。ヴァルトではなく、カイラの隣。新しい人間に興味があるのだ。
「カイラ、どのくらい歩いてきたの?」
「数えてない」
「何年くらい?」
「五年……いや、六年か。終戦の翌年から」
「六年! すごい! ヴァルトは七年だよ」
「……あの男、七年も歩いてるのか」
「うん。ずーっと歩いてたんだって」
カイラはちらりとヴァルトを振り返った。ヴァルトは少し後ろを歩いていた。目が合ったが、どちらも何も言わなかった。
「カイラ、足つかれない?」
「慣れた」
「わたしも慣れてきた。最初はすぐ疲れてたけど、今はけっこう歩ける」
「何日歩いてるんだ」
「えっと——」
シエは指を折って数え始めた。だが途中で止まった。
「わかんない。いっぱい」
「いっぱいか」
「うん。でもね、日が経つほど足が強くなるの。不思議だよね」
「不思議じゃない。歩けば足は強くなる」
「当たり前のこと言うんだ。ヴァルトと同じだね」
「一緒にするな」
だがその声には笑いが混じっていた。わずかに。カイラ自身が気づいていたかどうかはわからない。
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昼すぎ、休憩を取った。岩陰に腰を下ろし、水を飲む。
カイラが紙束を広げて、何かを書き足していた。さっき通り過ぎた廃屋の記録だろう。壁に残っていた文字を書き写していた。
シエがカイラの横に座って、書いているところを覗き込んでいた。今度はカイラも止めなかった。
「字、きれいだね」
「きれいじゃない。読めればいい」
「わたし、字読めないんだけど。でもきれいなのはわかる。形がそろってる」
「……そういうものか」
「ねえ、これなんて書いてあるの?」
シエが紙の一行を指さした。カイラは少し間を置いてから、低い声で読み上げた。
「ファルク家。三人」
「ファルクさん、三人家族だったんだ」
「……そうだ」
「今はどこにいるの?」
「わからない。わからないから、書いてる」
シエは頷いた。それから自分の膝を抱えて、山の方を見た。
「わたしも、書いてもらえたんだよね。カイラに」
「……ああ。昨日書いた」
「なんて書いた?」
「シエ。ヴァルト。廃村にて。それだけだ」
「それだけでいいの?」
「いたことがわかれば、それでいい」
シエはしばらく考えていた。それから急に立ち上がって、ヴァルトの方を向いた。
「ヴァルト! わたしたちのこと、書いてもらえたよ!」
ヴァルトは岩に背中を預けて目を閉じていた。シエの声で薄く目を開けた。
「……そうか」
「嬉しくないの?」
「…………」
嬉しいかどうかはわからなかった。記録される。誰かがいたことが残る。それが嬉しいことなのかどうか。ヴァルトには——自分がいたことが残っていい人間なのかどうか、わからなかった。
「嬉しいんだよ。わかんなくても」
シエがそう言い切った。いつものように。本人の意見は聞かず、答えを先に決めてしまう。
カイラが小さく鼻を鳴らした。呆れと——もうひとつ、何か。その音の中に含まれているものを、ヴァルトは正確に読み取れなかった。
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午後になって、道が分岐した。
旧街道が二つに分かれている。北東に向かう道と、東に向かう道。北東がカイラの方向、東がヴァルトたちの方向だった。
カイラが立ち止まった。
「ここで別れだ」
シエが足を止めた。
「もう?」
「途中までって言ったろ」
「言ってたけど——もうちょっと一緒に歩けないの?」
「あたしにはあたしの行き先がある」
シエは口をへの字に曲げた。不満だった。それを隠そうともしなかった。
「カイラ、また会える?」
「さあな。旅の人間は会えるかどうか約束できない」
「じゃあ約束しなくていい。でも、会えたらいいなって思ってていい?」
カイラは——また、あの一瞬の柔らかさを目に浮かべた。昨夜、シエの寝顔を見ていたときと同じ表情。
「……好きにしろ」
「するよ」
シエはカイラに近づいて、手を伸ばした。カイラの手を両手で掴んだ。小さな手が、傷跡のある腕を握っている。カイラは引こうとしたが——止めた。
「カイラ、書いてね。いっぱい」
「……ああ」
「で、いつか見せてね」
「見せないって言ったろ」
「いつかは見せて。全部書き終わったら」
「全部なんて——終わらない」
「じゃあ、終わらなくても。途中でもいいから」
カイラはシエの手を見下ろしていた。小さな指。汚れた爪。子供の手。かつて握っていた小さな手を、思い出しているのかもしれない。
「…………」
カイラはシエの手を、そっと握り返した。ほんの一瞬だけ。すぐに離した。
「元気でな」
「カイラも」
カイラはヴァルトに目を向けた。
「あんたも——まあ、元気でやれ」
「ああ」
「峠は北寄りだ。石柱が目印になる。旧街道の跡が残ってるから、見失うな」
「助かる」
「だから助けてないと——もういい」
カイラは背を向けた。北東の道を歩き始めた。革の長靴が石を踏む音が遠ざかっていく。紙束の入った鞄が背中で揺れている。記録を抱えた女の背中が、少しずつ小さくなっていく。
シエが手を振っていた。大きく。何度も。
「カイラー! またねー!」
カイラは振り返らなかった。
だが、右手が一度だけ上がった。背中を向けたまま、軽く手を挙げた。それだけだった。
シエは手を下ろして、ヴァルトを見上げた。
「行っちゃった」
「ああ」
「いい人だったね」
「…………」
「ヴァルト、いい人だったでしょ」
「……そうだな」
いい人。その言葉がヴァルトの中で引っかかった。カイラは記録する人間だった。失った人間の記録を集めて、書き残す人間。夫と息子を失った人間。焼けた街から生き残った人間。
ヴァルトがその街を焼いたかどうかは——わからない。わからないが、わからないことが免罪になるわけではなかった。
カイラの背中はもう見えなくなっていた。
「ヴァルト、行こう」
シエが東の道を指さした。
「山、越えるんでしょ」
「ああ」
「カイラに書いてもらったんだから、元気に歩かないと」
「……なんだその理屈は」
「記録されたら、ちゃんとしないといけないでしょ。"ヴァルトとシエ、元気に歩いてた"って書いてもらったんだから」
「そうは書いてないと思うぞ」
「書いてなくても、そういうことだよ」
シエは歩き出した。東へ。山脈へ向かって。小さな背中が、午後の陽光の中を進んでいく。
ヴァルトはその後を追った。
記録された。誰かがいたことが残った。カイラの紙束の中に、自分の名前がある。ヴァルト。その名前が何を意味するか、カイラはまだ知らない。知ったとき、あの記録はどうなるのか。
消されるかもしれない。破り捨てられるかもしれない。
それでも——書かれた。一度は。
ヴァルトは歩いた。シエの後を。山脈に向かって。風が冷たかった。頂が白い霧に覆われている。その向こうに何があるのか、まだ見えない。
だが二人とも、歩いている。それだけは確かだった。




