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灰と草  作者: 雨水


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花の名前

 東へ向かう旅は、日ごとに景色を変えていった。


 平原はまだ続いていたが、土の色が違う。灰が薄れて、茶色が増している。草は膝の高さまで伸び、ところどころに黄色い小花が群れて咲いていた。風が吹くたびに花が一斉に揺れて、金色の波紋が広がるように見えた。


 空も近くなった気がする。雲が低い。白い塊が平原の上をゆっくりと流れ、影が地面を這っていく。雲の影に入ると涼しく、出ると暖かい。シエはその境目を面白がって、影の縁を踏むようにして歩いていた。


「ヴァルト、見て。影の端っこ」


「見てる」


「踏める。雲踏めるんだよ」


「影だ。雲じゃない」


「影は雲の形してるから、雲みたいなもんでしょ」


 その理屈は成立しなかったが、ヴァルトは訂正しなかった。


---


 最初にそれが始まったのは、地図屋の老婆の村を出て三日目の朝だった。


 道の脇に、見たことのない花が咲いていた。背の低い茎に、薄い紫色の花弁が横向きについている。風に揺れると、花弁がひらひらと手を振っているように見えた。


 シエが足を止めた。しゃがみ込んで、花を覗き込んだ。


「ねえ、この花、名前なんていうの?」


 出会った日と、同じ問いだった。あのとき、ヴァルトは「知らない」と答えた。今も答えは同じだった。


「知らない」


「まだ知らないの?」


「花の名前は増えない」


「ふうん」


 シエは花をしばらく見つめていた。風が吹いて、紫の花弁が揺れる。シエの金髪も揺れる。同じ風に揺れているのに、花とシエの動きはまるで違っていた。花は受け身で揺れる。シエは風を受けて楽しんでいる。


「じゃあ、わたしがつける」


「……なにを」


「名前。この花の名前」


「お前がつけても正式な名前じゃないぞ」


「正式じゃなくていいよ。呼ぶとき困るから」


 困るのか。花を呼ぶのか。ヴァルトはそう思ったが、口にはしなかった。


 シエは花をもう一度じっと見つめ、目を細め、首を傾げ、それから宣言した。


「"ふりむきさん"」


「…………」


「横向いてるから。こっち見てくれないから"ふりむきさん"。ふりむいてほしいから」


 なぜ「さん」がつくのかはわからなかった。だがシエはもう決定事項のように頷いて、立ち上がって歩き出した。


 それが始まりだった。


---


 それからシエは、目に入る花という花に名前をつけ始めた。


 黄色い小花の群れには「おひさまのこども」。理由は「いっぱいいて、みんな同じ顔だから」。


 地面すれすれに咲く白い花には「ねむりちゃん」。「下向いてるから、寝てるみたい」。


 背の高い赤い花には「おこりんぼ」。「赤いから」。単純だった。


 茎にとげのある紫の花には「とがりおばさん」。「触ったら怒りそうだから」。


 葉が大きくて花が小さいものには「はずかしがり」。「葉っぱに隠れてるでしょ。恥ずかしいんだよ」。


 一つ見つけるたびにしゃがみ込み、じっくり観察し、名前を決め、声に出して呼びかけてから立ち上がる。その度に立ち止まるので、歩く速度は確実に落ちていた。


 ヴァルトは最初、黙って待っていた。急ぐ旅ではない。目的地はあるが、期限はない。子供が花に名前をつけることを止める理由もなかった。


 だが、変化は少しずつ起きていた。


「ヴァルト、これ見て。何色だと思う?」


 シエが差し出したのは、ピンクともオレンジともつかない微妙な色の花だった。夕焼けの手前の空のような色。


「……橙か」


「橙じゃないよ。もっと、こう、やわらかい感じ」


「……薄い橙」


「つまんない」


「何がだ」


「色の言い方がつまんない。もっとこう——あさやけ色、とか」


「朝焼け色」


「うん。で、名前は"あさやけちゃん"」


「そのままだな」


 そのままだな。自分で言って、ヴァルトは少し驚いた。感想を口にしていた。批評ですらない、ただの反応。だがそれは、無言で待っていた最初の日にはなかったものだった。


 シエは「そのまんまがいいの。わかりやすいでしょ」と胸を張った。


---


 五日目。平原の東側に、河の跡らしき窪地が現れた。


 水はほとんど残っていなかったが、窪地の底に泥が湿っていて、そのぬかるみの縁に密集して花が咲いていた。淡い青。群青ともちがう、空を水に溶かしたような色。花弁は六枚で、中心に白い筋が入っている。


 シエは声を上げなかった。


 いつもなら「わあ」と言うところだった。だが今回は黙って窪地の縁に立ち、青い花の群れを見下ろしていた。風が吹いて花が揺れる。波のように。浅い水の上を渡る光のように。


「…………」


 ヴァルトも立ち止まった。


 美しかった。それを認めざるを得なかった。灰の大地に、こんな色が咲くのか。七年前には何もなかった場所に、誰が植えたわけでもなく、誰に見られるためでもなく、ただ咲いている。


「きれい」


 シエが小さな声で言った。いつもより静かだった。


「これ、名前つけたくない」


「……なぜ」


「名前つけたら、わたしのものになっちゃう気がする。これはこのままがいい」


 ヴァルトはシエを見た。シエは花を見ていた。金髪が風に揺れて、花と同じリズムで揺れている。この子供は時々、こういうことを言う。子供の語彙で、大人が避けるような場所にまっすぐ手を伸ばす。名前をつけることは所有になる。それを感覚で知っている。


「……そうか」


「うん。でも覚えてる。ここにこの花があったこと」


「ああ」


 二人はしばらくそこに立っていた。風が吹いて、青い花が揺れて。何もすることがない時間だった。急ぐ必要のない時間だった。


---


 旅の六日目の夕暮れ、野営の支度をしながらシエが聞いた。


「ヴァルト、昔は何してたの?」


 唐突ではなかった。シエの問いはいつも唐突に聞こえるが、実際には何かを見て、何かを考えて、その延長線上に問いがある。今回のきっかけが何だったのか、ヴァルトにはわからなかったが。


「……兵士だった」


「うん、それは聞いた。でも、ずっと兵士だったの?」


「……いや。なる前は、普通に暮らしていた」


「普通ってなに?」


「朝起きて、飯を食って、働いて、夜寝る」


「今と同じじゃん」


「…………」


 確かに、構造だけを見れば同じだった。だが中身が全く違う。あの頃は——いつだ。二十年以上前だ。戦争の前。村があった。家があった。隣に住む人間の顔があった。


「兵士になる前は、畑を耕していた」


「畑って?」


「食べ物を育てる場所だ」


「花じゃなくて?」


「花じゃない。穀物や野菜だ」


「つまんない」


「食べるために必要なことだ」


「花も必要だと思うけどなあ」


 ヴァルトは反論しようとして、やめた。花が必要かどうか。必要ではない。腹は膨れない。だがこの数日間、シエが花に名前をつけるのを見ていて——不要だとも思えなくなっていた。


「で、兵士になったの?」


「戦争が始まって、村の男は大半が徴兵された」


「ちょうへい?」


「軍に入れってことだ」


「いやだって言えなかったの?」


「……言えなかった」


「なんで?」


「断れば、村の家族に影響が出た。それと——」


 ヴァルトは言葉を切った。火の準備をしていた手が止まった。今夜は風が穏やかで、灌木の枝を集めて小さな火を焚くことができそうだった。


「それと?」


「……断る理由がなかった。当時は」


「理由って?」


「戦争は正しいことだと思っていた。国を守るために必要なことだと」


「今は?」


「…………」


「今も、正しかったと思ってるの?」


 火がついた。小さな炎が枝を舐め、煙が立ち上る。ヴァルトは炎を見つめていた。炎の色は、七年前のあの朝と同じだ。赤と橙と白。あの日の炎は空まで届いた。地平線を覆い尽くした。


「わからない」


「また、わかんないだ」


「……ああ」


「ヴァルト、わかんないこと多いね」


「多い」


「でもさ」


 シエは焚き火の向こう側に座って、炎に手をかざしていた。火が怖くないのか。近すぎないか。ヴァルトが「手を近づけすぎるな」と言おうとしたとき、シエが続けた。


「兵士のとき、強かったの?」


「……わからない」


「また! わかることないの?」


「強いかどうかは、自分ではわからない」


「じゃあさ」


 シエが炎から手を引いて、ヴァルトを見た。火の光が顔を照らしていた。灰色がかった青い目が、炎の色を映して揺れている。


「誰かを守れたの?」


 風が止んだ。


 いや、止んではいない。吹き続けている。草を揺らし、煙を流し、シエの金髪を揺らしている。だがヴァルトの中では、全てが止まった。


 誰かを守れたか。


 兵士だった。前線にいた。術士兵として、何百もの呪式を発動した。攻撃の、防御の、索敵の。戦果はあった。任務は遂行した。だが——誰かを守れたか。


 仲間は死んだ。守れなかった。

 民間人は巻き込まれた。守らなかった。

 最後には自分の手で、数万を焼いた。


 守る。その言葉が、自分に当てはまったことが一度でもあったか。


「…………」


「ヴァルト?」


「……守れなかった」


 声が、思った以上にかすれていた。乾いた声だった。長いこと使っていない場所から引き出してきたような声。


 シエは何も言わなかった。


 いつもならすぐに次の問いが飛んでくる。「なんで?」「どうして?」「誰を?」。だが今回は黙っていた。焚き火を見つめて、膝を抱えて座っていた。


 長い沈黙だった。


 火が爆ぜた。枝が一本折れて、火の粉が散った。赤い粒が空中に舞い上がり、夜の闇に吸い込まれて消えた。


「でも」


 シエが言った。


「今は、わたしと歩いてるよね」


「…………」


「それって、守ってるのとちがうの?」


 ヴァルトは答えられなかった。


 守っている。そう言えるのか。ついてくる子供と一緒に歩いているだけだ。食料を分けて、水を分けて、夜になれば寝る場所を探す。それだけのことだ。守っているのかどうか。


 だが——布で靴を作った。毛布を手放して宿を取った。穀物を分けて老人に渡させた。歩く速度を落とした。毎晩、肩の毛布がずれていないか確認する。


 それを、守ると呼んでいいのか。


「……どうだかな」


「どうだかなって何。守ってるよ。わたしが言うんだから間違いない」


「お前の判断基準は——」


「わたしが決めるの。守られてるかどうかは、守られてる方が決めるんだよ」


 子供の理論だった。だがそれは——反論のしようがなかった。守る側がどう思っていようと、守られた側がそう感じているなら。そうなのかもしれない。


 火が揺れている。シエが欠伸をした。大きな欠伸。口を目一杯開けて、涙が出るほどの。


「ねむい」


「寝ろ」


「おやすみ、ヴァルト」


「……おやすみ」


 シエは外套にくるまって横になった。三秒もしないうちに呼吸が深くなる。毎晩のことだ。眠りに落ちるのが驚くほど早い。


 ヴァルトは火の番をしながら、空を見上げた。星が出ている。東の空が暗い。山脈の方角だ。近づいている。あと数日で麓に届くだろう。


 守れたか。


 守れなかった。今も、守れているかはわからない。だがシエは「守ってる」と言った。守る側が何を思っていようと、守られる側がそう言うなら。


 その言葉を、どう受け取ればいいのかわからなかった。救いか。免罪か。それとも、もっと単純な——事実か。


 火が静かに燃えている。薪がなくなりかけていた。最後の枝を足して、ヴァルトは目を閉じた。


---


 七日目の午後、風向きが変わった。


 東からの風が強くなった。今までの平原の風とは質が違う。冷たく、乾いていて、岩の匂いがする。山が近い。


 地平線の東端に、うっすらと稜線が見えた。薄紫の、霞んだ影。山脈だった。まだ遠いが、目に見える距離に入った。


「ヴァルト、あれ山?」


「ああ」


「おっきい」


「まだ遠い。近づけばもっと大きい」


「あの向こうにアルヴィスがあるの?」


「そう聞いている」


 シエは山を見つめて、しばらく黙っていた。それから足元の花に目を落とした。草の間に、小さな白い花が咲いていた。出会った日に見たのと同じ花——かもしれない。似ていた。五枚の花弁。細い茎。一掌ほどの高さ。


「あ」


 シエがしゃがみ込んだ。


「この花、前にも見た」


「たぶん、よくある花だ」


「うん。でも前のは名前つけなかった。ヴァルトも知らないって言ってた」


 あの花だ。廃墟の広場で、石畳の隙間に咲いていた花。シエが「名前なんていうの?」と聞いた花。二人が出会った場所の花。


「これにも名前つけていい?」


「好きにしろ」


 シエはしゃがみ込んだまま、花を見つめていた。いつもより長く見ていた。名前をつけるのに時間がかかっている。


「…………」


「決まらないか」


「うん。なんか、しっくりこない」


「無理につけなくていい」


「でも——」


 シエは花に手を伸ばしかけて、止めた。触れずに、指先を花の近くで止めた。出会ったときと同じ仕草だった。初めて会うものに挨拶するような。


「——あとにする」


「あとか」


「うん。いい名前が見つかったらつける。今はまだ、この花のこと全然知らないから」


 そう言って立ち上がった。今までの花にはすぐに名前をつけていたのに。この花だけは「知ってから」名前をつけたいと言う。


 ヴァルトは歩き出した。シエが隣に並ぶ。


 白い花が、風に揺れていた。名前のないまま。


---


 八日目の朝。


 平原の草丈がさらに伸びていた。シエの腰くらいまで届く場所もある。草の海の中を歩いているようだった。前を行くヴァルトが草を分けると、後ろのシエがその隙間を通る。


「ヴァルト、草に飲まれそう」


「肩車するか」


「え、いいの?」


 言ってから、自分が何を申し出たのかに気づいた。肩車。子供を肩に乗せること。なぜそんなことを口にした。


「……冗談だ」


「冗談なの? やだ、やりたい」


「重い」


「軽いよ。こんなに小さいんだよ」


「…………」


 結局、シエを肩に乗せた。


 軽かった。本当に軽かった。子供の体重がこんなに軽いものだということを、とうに忘れていた。シエは肩の上で歓声を上げた。


「高い! すごい! 全部見える!」


「暴れるな。落ちる」


「落ちないよ。ヴァルトの頭つかまってるから」


 髪を掴まれていた。引っ張られて少し痛かったが、言わなかった。


 シエは肩の上から平原を見渡していた。草の海。風の波。遠くの山脈。雲の影。全てが見えていた。


「ヴァルト、こう見ると地図みたい」


「地図か」


「うん。おばあさんの描いてた絵みたい。上から見ると、世界ってこんなふうに見えるんだね」


「肩車じゃそこまで高くない」


「でも、さっきより見えるよ。ちょっと高いだけで、ぜんぜんちがう」


 少し高いだけで、全然違う。それはたぶん、物理的な高さだけの話ではなかった。


 シエは肩の上から花を見つけるたびに指さして名前を言った。「あ、おひさまのこどもいる」「ふりむきさんもいる」「あれは新しい。えっと——"くるくる"。花びらがくるくるしてるから」


 ヴァルトは黙って歩いた。肩の上の重さが、不思議と邪魔ではなかった。


---


 九日目の夕方。山脈がだいぶ近づいていた。


 稜線がくっきりと見える。灰色の岩肌が夕日を受けて赤く染まっている。峠があるとすれば、山脈の中央よりやや北寄りだろう。旧街道の跡を探しながら麓に向かう必要がある。


 野営地を決めて火を起こした。穀物はあと一日分。水は足りている。近くに小川を見つけたからだ。細い流れだが水は澄んでいて、飲めた。


 シエが小川で手と顔を洗っている。冷たい水に「ひゃっ」と声を上げて、それから笑った。


「ヴァルト、水つめたい!」


「わかってる」


「つめたいけど気持ちいい」


「そうか」


「ヴァルトも洗いなよ。顔よごれてるよ」


 ヴァルトは小川に近づき、水面に映る自分の顔を見た。映るのは——痩せた男の顔だった。灰混じりの黒髪。薄い火傷の跡。静かで遠い目。七年前と比べて老けたのかどうか、自分ではわからなかった。鏡を見る習慣がなかった。


 手で水を掬い、顔を洗った。冷たかった。目が覚めるような冷たさだった。


「ねえヴァルト」


「なんだ」


「明日、山に着くの?」


「明日か明後日には、麓に着く。山を越えるにはもう少しかかる」


「山、登ったことない」


「俺もしばらく登っていない」


「大変?」


「平原よりは」


「だいじょうぶ。わたし、歩くの上手になったから」


 確かに上手になっていた。初日は三歩でヴァルトの一歩に追いつくのが精一杯だったが、今は二歩で並べる。足が強くなっている。布靴もヴァルトが二度作り直して、今の三作目はだいぶ形になっていた。


「ヴァルト」


「なんだ」


「山の向こうに着いたら、わたしのこと、わかるかもしれないんでしょ」


「……そう聞いている」


「もしわかったら、教えてね」


「ああ」


「でもね」


 シエは小川の縁に座って、水に足を浸していた。布靴を脱いだ裸足が、水の中で白く光っている。


「わかっても、わかんなくても、シエはシエだからね」


 同じ言葉。老婆の村で言ったのと同じ言葉。だが今回は、繰り返しではなく、確認に聞こえた。自分に言い聞かせているのではなく、ヴァルトに念を押している。わかっても、変わらない。そう約束してくれ、と。


「……ああ」


「約束だよ」


「…………」


「ヴァルト、約束」


「……わかった」


 何を約束したのか、正確にはわからなかった。だが「わかった」と言った。それだけは確かだった。


 シエは足を水から引き上げて、ヴァルトの隣に座った。焚き火の熱が届く距離。二人の影が草の上に伸びている。大きな影と小さな影。九日間、ずっとそうだった。


「おやすみ、ヴァルト」


「おやすみ」


「今日は早かった」


「毎回催促されるからな」


 シエは笑った。くすくすと。それから外套にくるまって、すぐに寝息を立て始めた。


 ヴァルトは火を見つめていた。


 この九日間で、何かが変わった。何が変わったのか、言葉にはできない。歩く速度は子供に合わせている。食料は二人分で考える。花に名前がつく。雲の影を踏む遊びを見ている。肩車をした。


 一人で歩いていた七年間には、どれも存在しなかったことだ。


 明日か明後日には山脈の麓に着く。そこからは平原とは違う旅になる。険しくなる。子供を連れて越えられるかどうか——いや、越える。越えるしかない。


 シエはシエだからね。


 その言葉が頭の中で繰り返されていた。守れたか、と聞かれて答えられなかった。守っていると、シエは言った。守られているかどうかは守られる側が決める、と。


 ヴァルトは手を開いて見た。節くれだった手。呪式を刻んだ手。火傷の跡。変色した爪。この手は人を傷つけるためにあった。数万を焼いた手だ。


 だが今日、この手で子供を肩に乗せた。


 それが何かの答えになるのかどうかは、まだわからなかった。


 火が消えかけていた。最後の灰が赤く脈打っている。ヴァルトはそれを見つめたまま、夜の中で目を閉じた。


 明日は、山に向かう。

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