焼けた地図
穴の街を出てから四日が経っていた。
平原は少しずつ変化していた。灰混じりの土は相変わらずだったが、草の密度が増し、背丈も膝の下あたりまで伸びている場所が出てきた。時折、低い灌木が地面から突き出ていた。枯れた枝と新しい芽が混在していて、生と死がまだ折り合いをつけている途中のような姿だった。
風が変わった。西から吹いていたものが、南寄りに変わっている。湿り気を帯びていた。どこかに水の多い地帯があるのだろう。
シエは四日間でだいぶ歩くことに慣れていた。最初のように小走りにならなくても、ヴァルトの歩幅に遅れずについてこられるようになっていた。ただ、口数は減っていなかった。
「ねえ、あの雲、何に見える?」
「雲だ」
「雲はわかってるよ。何に見えるかって聞いてるの」
「……雲に見える」
「ヴァルトってつまんない」
「そうか」
「つまんないけど、きらいじゃないよ」
言い方が妙に大人びていた。ヴァルトは返事をしなかった。
昼過ぎ、遠くに建物の輪郭が見えた。平原に点在する廃墟とは違う、まとまりのある構造物だった。壁が比較的残っていて、いくつかの建物が寄り集まっている。門のようなものが見えた。
「ヴァルト、あれ」
「見えてる」
「人いるかな」
「わからない。近づいてみる」
近づくにつれて、それが廃村であることがわかった。石造りの家が七つか八つ、崩れかけた石壁に囲まれて並んでいる。門は半壊していたが、枠だけが残っていて、かろうじて村の入口だったことを示していた。戦前は百人くらいが暮らしていたのだろう。今は——
人の気配がした。
煙が上がっていた。一番奥の建物の煙突から、白い煙が細く立ち昇っている。誰かが住んでいる。
ヴァルトは足を止め、シエの肩に手を置いた。
「ここで待て」
「え、なんで——」
「確認する。すぐ戻る」
シエは不満そうだったが、ヴァルトの声の調子が普段と違うことを感じたのか、素直に石壁の陰に座った。
ヴァルトは一人で門をくぐり、村の中に入った。建物の壁に沿って進む。足音を殺す。耳を済ませた。煮炊きの音。それ以外の物音はない。複数の人間がいる気配ではなかった。一人か、二人か。
煙の出ている建物の前に着く。扉は閉まっていたが、鍵はかかっていない。隙間から光が漏れている。
ヴァルトは扉を叩いた。三回。
間があった。足音。扉が開いた。
老婆だった。
小柄で、背が曲がっていて、白髪を頭の上で無造作にまとめている。顔は深い皺で覆われていたが、目だけは鋭かった。黒い目がヴァルトを見上げ、上から下まで一瞥し、それから開いた扉の向こうをちらりと見た。
「一人かい」
「連れがいる。子供だ」
「子供」
老婆は怪訝な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「入りな。表に立ってると目立つ」
目立つもなにも、この村には他に誰もいないように見えたが、ヴァルトは黙って従った。シエを呼びに戻り、二人で建物の中に入った。
---
中は予想より広かった。
一部屋だけの建物だが、天井が高い。壁は石積みで、隙間を粘土で埋めてある。奥に炉があり、火が燃えていた。鍋が炉にかかっていて、何かが煮えている。部屋の三方の壁に沿って木の棚が並び、そこに——
ヴァルトは目を見開いた。
紙だった。紙の束、巻物、革に書かれた記録、石板、木の板に彫られた文字。壁一面が、文字で埋め尽くされていた。棚に入りきらないものは床に積まれ、紐で束ねられたものが天井から吊られていた。
「すごい」
シエが建物の中を見回して言った。手近な紙の束に手を伸ばしかけて、ヴァルトに制された。
「触るな」
「なんで? 紙でしょ」
「人のものだ」
「見るだけ——」
「触るな」
老婆が鍋をかき混ぜながら、背中越しに言った。
「別にいいよ。読めるなら読みな」
「読めない。字、知らない」
シエはあっさりと認めた。文字が読めない。それは当然のことだった。誰にも教わっていないのだから。
老婆が振り返ってシエを見た。長い間見ていた。シエは見られていることに気づいて、老婆に向かってにっとした。
「おばあさん、何読んでるの?」
「読んでるんじゃない。集めてるんだ」
「何を?」
「地図。古い地図。この世界がどうなっていたかの記録」
老婆は炉の脇に座り、木の椀に鍋の中身をよそった。豆と根菜の煮物だった。もう二つの椀にもよそって、ヴァルトとシエの前に置いた。
「食いな。痩せてるよ、二人とも」
シエは椀を受け取ると、匂いを嗅いで目を丸くした。
「いい匂い」
「豆だよ。地下から仕入れてる」
ヴァルトは椀を受け取ったが、すぐには口をつけなかった。
「対価は」
「いらないよ。子供に飯を食わせるのに金を取るほど落ちぶれちゃいない」
ヴァルトは一拍置いてから、椀に口をつけた。温かかった。塩味がついている。豆の甘みと根菜の苦みが混じり合った、素朴な味だった。穴の街で食べた粥よりずっとうまかった。
シエは夢中で食べていた。三日半、穀物の粥と水しか口にしていなかったのだ。椀から顔を上げたとき、口の周りが汁で光っていた。
「おいしい」
「そうかい」
老婆はかすかに笑った。笑い方が上品だった。この老婆は、ただの隠居者ではない。物腰と言葉遣いに、教養のある人間の気配がある。
「地図を集めている、と言ったな」
ヴァルトが聞いた。食事が終わり、椀を脇に置いてからだった。
「ああ。戦前の地図だ。戦争で大半が失われた。地形が変わった場所もある。残っているものを繋ぎ合わせて、今の世界がどう変わったかを記録してる」
「一人でか」
「一人だよ。他にやる者がいない」
老婆は棚から一枚の大きな紙を引き出した。広げると、地図だった。手描きの地図。インクで描かれた線は細かく、丁寧だった。等高線、河川、街道、そして点在する集落の印。戦前の地図を下敷きにして、現在の状況を書き加えたものらしい。消えた街には×印がつけられ、新しくできた集落には丸印が書かれていた。
「ここが、今あんたたちがいる場所だ」
老婆が地図の一点を指さした。平原の東寄り。周囲に集落の印がいくつかある。ヴァルトが出てきた穴の街も、小さな丸で示されていた。
シエが地図を覗き込んだ。
「これ、何? 絵?」
「地図だよ。世界を上から見た絵だ」
「上から? 空から?」
「そう。鳥になったつもりで見るんだ」
「鳥! すごい」
シエは地図に顔を近づけて、線の一本一本を目で追っていた。字は読めないが、線と記号には興味があるらしい。
ヴァルトは地図の東端に目を向けた。平原の向こうに、山脈の稜線が描かれている。南北に長く連なる線。その東側は——ほとんど空白だった。地図が途絶えている。
「この山の向こうは」
「描けていない。行った者がほとんどいないからね」
「……アルヴィスという名は、聞いたことがあるか」
老婆の手が止まった。
一瞬だった。すぐに動き出して鍋を片づけ始めたが、ヴァルトはその一瞬を見逃さなかった。名前に反応した。知っている。
「どこでその名を聞いた」
「……各地で、断片的に」
「断片的にね」
老婆は棚の前に立ち、しばらく何かを探していた。積み上げられた紙の束を幾つかめくり、一枚の革片を引き出した。古い。革の端がぼろぼろに崩れかけていた。
「これは、戦前の——もっと前の記録だ。五十年以上前」
革片には、細かい文字と簡素な図が描かれていた。山脈の向こうに、都市の輪郭が示されている。建物の配置図のようなもの。中央に大きな円形の構造物があり、そこから放射状に通路が伸びている。図の上に「アルヴィス」と記されていた。
「アルヴィスは、この山脈を越えた先にあったアーカイブ都市だ」
「あった」
「今もあるかどうかは知らない。戦時中に封鎖された。それ以来、行って帰ってきた者を——少なくとも私は知らない」
「アーカイブとは」
「魔法の研究記録、歴史の記述、技術の保存。あらゆる知識を集めて封印保存していた場所だよ。戦争で全てが失われることを恐れた研究者たちが、山の向こうに造った」
老婆は椅子に座り直した。ヴァルトをまっすぐに見ている。
「なぜ、アルヴィスを探している」
ヴァルトはシエに目をやった。シエは地図の線を指でなぞることに夢中で、会話を聞いているのかいないのかわからなかった。
「……この子のことを、調べたい」
「この子」
老婆はシエを見た。今度は長くは見なかった。一瞬で視線を戻した。
「何者だい、この子は」
「わからない。一人で廃墟にいた。名前もなかった」
「名前がない。……ふうん」
老婆は何かを考えていた。目が遠くなっている。記憶を探っているのか、知識を引き出しているのか。
「あんた、元兵士だろう」
穴の街の老人と同じだった。わかるのだ。見る者が見れば。ヴァルトは否定しなかった。
「前線にいたね。術士兵だ」
「……なぜわかる」
「手だよ。呪式を刻み続けた手はそうなる。指の関節の変形。爪の変色。見ればわかる」
ヴァルトは自分の手を見た。節くれだって、ところどころ変色した爪。確かに、普通の手ではなかった。気にしたことがなかった。
「術士兵が、魔法の生まれの子供を連れて、アルヴィスを探している」
老婆はそう言った。静かに。断定の口調で。
「魔法の生まれ、と言ったか」
「この子からは——微かだけど、魔力の残滓の匂いがするんだよ。年寄りの鼻を舐めないでおくれ」
ヴァルトは黙った。魔力の残滓。あの花の傍に座っていたシエ。名前のない子供。傷のない裸足。眠り方。風への親しみ。——一つ一つは些細なことだった。だが重なると、輪郭が浮かび上がってくる。シエは、普通の子供ではない。
それを、ヴァルト自身も薄々感じていた。ただ、名前をつけていなかった。感覚に名前を与えることを避けていた。名前を与えれば、考えなければならなくなる。考えれば、答えに近づいてしまう。その答えが何であれ、今はまだ——
「アルヴィスの場所は、正確にはわからない」
老婆が言った。
「だが、ここから東に十日ほど歩けば、山脈の麓に出る。そこに峠がある。戦前は街道が通っていた。今もその道が残っているかどうかは賭けだがね」
老婆は革片の地図を指でなぞった。平原から山脈の麓まで、一本の点線が引かれている。旧街道だ。
「峠を越えて、さらに東。谷を三つ越えた先に、都市があったはずだ。地下に造られた街だから、地上からは見えにくい。入口を見つけるのが一番難しい」
「入口の目印は」
「記録によると——石柱が三本。円形に並んでいる。その中心に、地下への階段がある。ただし五十年前の記録だ。今もそうかはわからない」
ヴァルトは情報を頭に刻んだ。東に十日。山脈の峠。旧街道。谷を三つ越えた先。石柱が三本。
「なぜ教えてくれる」
「聞かれたからだよ」
「それだけか」
「それだけさ。知識は使われなければ意味がない。死蔵することが私の仕事じゃない。集めて、整理して、必要な者に渡す。それだけだよ」
老婆は立ち上がり、地図を丁寧に巻き直した。棚の元の場所に戻す手つきが丁寧で、一枚一枚の紙を大切にしていることがわかった。
「ただし」
背中を向けたまま、老婆は言った。
「アルヴィスに辿り着いたとして、そこにあんたの欲しい答えがあるかどうかは別の話だ。知識は知識にすぎない。それをどうするかは、あんた次第だよ」
「…………」
「それと——」
老婆が振り返った。
「あの子を、大事にしな」
今日二度目だった。穴の街の老兵にも同じことを言われた。ヴァルトは何も答えなかった。
---
老婆の家を出て、村の外れで野営することにした。屋根のある場所を使わせてもらえるかと思ったが、老婆は「泊まるならその辺で勝手にしな。家に人を上げる趣味はないんだ」と言った。
村の門の外、壊れた石壁の陰に場所を作った。夕暮れの空が赤く染まっている。平原と空の境界が曖昧になり、世界全体が一つの色に溶けていくように見えた。
毛布は穴の街で手放していた。外套を敷いて、シエを座らせた。
「ヴァルト」
「なんだ」
「あのおばあさん、すごいね」
「何がだ」
「世界を上から見る絵を描けるんだよ。鳥みたいだよ」
「地図は鳥が描くわけじゃない」
「わかってるよ。でも、鳥みたいだなって思っただけ」
シエは石壁にもたれて空を見上げた。赤い空に、まだ星は出ていない。
「ヴァルト」
「なんだ」
「アルヴィスって、なに?」
聞いていたのだ。地図に夢中で聞いていないと思っていたが、聞いていた。
「……昔、いろんなことを調べていた人たちがいた場所だ」
「いろんなことって?」
「世界のこと。魔法のこと」
「魔法」
シエがその言葉を繰り返した。いつもの「音を確かめる」ような繰り返し方ではなかった。もっと静かな、何かに触れたような繰り返し方だった。
「魔法って、なに?」
「…………」
どう説明すればいいのか。ヴァルトは言葉を探した。魔法とは何か。この世界を焼いた力。数万人を一瞬で殺した技術。自分がかつて、その手で行使した——
「すごい力のことだ」
結局、そう言った。嘘ではなかったが、何も説明していないに等しかった。
「すごい力。ヴァルトも使えるの?」
「……昔は」
「今は?」
「使わない」
「使えないの? それとも使わないの?」
鋭い問いだった。使えないのか、使わないのか。この二つは全く違う。ヴァルトは嘘をつかなかった。
「使わない」
「なんで?」
「……人を傷つけるものだからだ」
「全部?」
「全部、ではないかもしれない。だが俺の知っている魔法は、そういうものだった」
「ふうん」
シエは空を見ていた。赤が薄れて、紫が混じり始めている。
「アルヴィスに行ったら、わたしのこと、わかるの?」
「……わかるかもしれない」
「わたし、何がわかんないの?」
ヴァルトはシエを見た。シエは空を見上げたまま、こちらを見ていなかった。その横顔は穏やかだった。不安の色はなかった。ただ、聞いている。自分の何がわからないのかを、本当にわかっていないまま、聞いている。
「お前がどこから来たか。なぜここにいるか」
「それ、わかったらどうなるの?」
「…………」
「わかったら、何か変わる?」
ヴァルトは答えられなかった。変わるかもしれない。変わらないかもしれない。シエが何者であるかがわかったとして、そのあとどうするのか。自分は何を望んでいるのか。
安全な場所に届けたい。そう思っていた。だが安全な場所とは何だ。どこにあるのだ。アルヴィスに行けばわかるのか。アルヴィスに着いたら、そこでシエを研究者に預けて、自分はまた一人で歩くのか。
その想像が、思ったより重く胸に落ちた。
「わかんないことがわかっても、わたしはわたしだよ」
シエが言った。空を見上げたまま。
「シエはシエでしょ。ヴァルトがつけてくれた名前だもん。それが変わるわけないよ」
子供の理論だった。名前が変わらないから自分は変わらない。そんな保証はどこにもない。だが——
その声に、妙な説得力があった。
「……そうだな」
「でしょ」
シエはようやくヴァルトの方を向いて、にっと笑った。それから外套の上にごろりと横になった。
「おやすみ」
「…………」
「ヴァルト、おやすみって——」
「おやすみ」
「早い」
シエは笑った。小さく、くすくすと。それから目を閉じて、すぐに呼吸が深くなった。
---
夜が深まった。
シエが眠ってから、ヴァルトは壁にもたれて空を見ていた。星が出ている。風が吹いている。草が鳴っている。地下の、風のない夜とは違う。ここには音がある。空気が動いている。
東に十日。山脈の峠。谷を三つ。石柱が三本。
目的地ができた。当てのない旅に、方角が与えられた。それが良いことなのかどうかわからなかった。当てがないことは苦しかったが、自由でもあった。目的地があるということは、そこに着いたときに何かを決めなければならないということだ。
シエのことを調べたい。そう老婆に言った。本当にそう思っている。この子供が何者なのかを知りたい。知って、安全な場所に届けたい。だが——
知った先に、自分がどうなるのかは考えていなかった。いや、考えないようにしていた。
シエから魔力の残滓の匂いがする、と老婆は言った。魔力の残滓が凝集して具現化することがある。それは知識として知っていた。戦時中、そういう報告は幾つかあった。大規模な呪式の跡地で、何かが動いていたという話。断片。影。かたち。
もし、シエがそうだとしたら。
もし、自分が発動した呪式から——
考えるな。
ヴァルトは目を閉じた。考えるな。まだ何もわかっていないのだから。アルヴィスに着けば何かがわかるかもしれない。わかるまでは考えるな。
だが——寝言のような声が聞こえた。
シエが何かを呟いていた。眠りの中で。声にならない声。音の羅列。
ヴァルトは目を開け、シエを見た。暗がりの中で、金髪がかすかに光っている。唇が動いている。音が漏れている。
聞き覚えのある音だった。意味のない音の羅列——ではなかった。少なくとも、ヴァルトの耳にはそう聞こえなかった。
呪式の断片。
詠唱の、断片。
発動のとき、自分が唱えた音。七年前の朝。空が白み始めた時刻に、自分の口から出た音の一部が——今、この子供の唇から漏れている。
ヴァルトは動かなかった。
動けなかった。
風が吹いている。草が揺れている。星が見えている。何も変わっていない。世界は何も変わっていない。だがヴァルトの中で、何かが軋んだ。名前を与えたくなかった予感。輪郭だけで留めておきたかった恐れ。それが——
シエの寝言が止まった。
ヴァルトは息を吐いた。長く、細く。白くはならない息だった。
空を見上げた。星が見えている。花の名前は知らない。草の名前も知らない。だが、呪式の音は知っている。知りたくなかったものほど、体が覚えている。
風が変わった。南風が止み、東からの風になった。乾いた、冷たい風。山脈の方角からの風だった。
東に、十日。
ヴァルトは目を閉じなかった。
朝まで。




