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灰と草  作者: 雨水


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3/6

穴の街

 三日目の朝、干し肉が尽きた。


 最後のひとかけらをシエに渡し、ヴァルト自身は水だけで朝を済ませた。シエは「半分こ」と言い張ったが、ヴァルトが無言で突き返すとそれ以上は言わなかった。不満そうに口を尖らせていたが、空腹には勝てなかったらしく、すぐに食べ始めた。


 水も心もとなかった。昨日見つけた湧き水で補充はしたが、水筒は一つしかない。二人で分けると一日保つかどうかだった。


 東にもう少し進めば集落があるかもしれない、とヴァルトは言った。シエは「人がいるところ」と確認して、ヴァルトが頷くと、少し嬉しそうな顔をした。


「ヴァルト以外の人、久しぶり」


「……お前は俺以外の人間に会ったことがあるのか」


 シエは首を傾げた。記憶を探るような仕草だったが、何も出てこなかったらしい。


「わかんない。でも、いた気がする。遠くに」


「遠く」


「うん。声だけ。顔はわかんない」


 それ以上は聞かなかった。この子供の記憶は霧のようなものだ。掴もうとすると散る。


---


 昼前に、それは見えた。


 平原の地面に、不自然な影がある。周囲は平らな草地が広がっているのに、そこだけ地面がわずかに盛り上がっていた。近づくと、盛り上がりの中心に石積みの構造物がある。高さは人の背丈ほど。石と木と鉄で組まれた枠の中に、地下へ降りる階段が口を開けていた。


 穴の街の入口だった。


 階段の周囲には、人の往来の痕跡があった。靴の跡が土に残っている。荷車の轍。積み上げられた空の木箱。入口の脇に、火を焚いた跡があった。灰が白く、まだ乾ききっていない。最近のものだ。


「ここ?」


 シエが階段の上から下を覗き込んだ。階段は石段で、十数段下ったところで暗闇に消えている。地下から風が上がってきていた。湿った、人の匂いのする風。土と煤と、かすかに食べ物の匂い。


「暗いね」


「地下だからな」


「ヴァルト、入るの?」


 ヴァルトは階段の前に立ったまま動かなかった。


 地下集落に近づくのは、何年ぶりだろう。二年か、三年か。最後に入ったのは西の集落だった。食料を買い、水を補充し、誰とも目を合わせないようにして出てきた。その時は問題なかった。だが毎回そうとは限らない。


 地下には人がいる。人がいれば、記憶がある。戦争を覚えている者がいる。元兵士がいる。遺族がいる。ヴァルトの顔を知っている者がいるかもしれない。術士兵の中でも前線にいた人間は数が限られている。特に終結部隊の構成員は——名前は伏せられていても、顔までは消せない。


「ヴァルト?」


 シエが見上げていた。


「……ああ。入る」


 食料がなければ歩けない。歩けなければ、シエを連れていけない。選択肢はなかった。


 階段を降り始めた。シエが後ろからついてくる。布靴がぱたぱたと石段を叩く音が、狭い通路に反響した。


 十段、二十段。空気が変わった。地上の乾いた風が遠ざかり、湿った温かい空気に包まれる。壁は粗く削られた岩肌で、等間隔に据えられた油灯が黄色い光を投げかけていた。油灯の火が揺れて、壁に影が踊る。


「あったかい」


 シエが言った。確かに地下は暖かかった。地上の寒暖差から遮断されて、一定の温度を保っている。人が暮らすには適した環境だった。


 階段を降りきると、横穴が広がった。天井は低い。ヴァルトが手を伸ばせば届きそうな高さだった。通路の幅は荷車がやっと通れるくらいで、壁に沿って木の棚が並んでいた。棚には雑多な物が詰め込まれている。缶、瓶、布の束、工具、用途のわからない金属片。


 通路を進むと、匂いが濃くなった。煮炊きの匂い。何かの穀物を煮ている匂いだ。腹が鳴った。自分のではなかった。


 振り返ると、シエが腹を押さえて、少しばつの悪そうな顔をしていた。


「……なんかいい匂いする」


「もう少し行けば市がある。たぶん」


「市って?」


「物を売り買いする場所だ」


「お金あるの?」


 ヴァルトは黙った。金はない。この世界で通用する貨幣というもの自体が、地下集落ごとにまちまちだった。物々交換が基本で、価値の共通尺度は食料か、使える道具か、あるいは——


「交渉する」


「こうしょう?」


「話し合いだ」


「ヴァルト、話し合い得意じゃなさそう」


「…………」


 反論できなかった。


---


 通路が広がり、天井が高くなった。地下に掘り広げられた空洞が開けていた。


 穴の街だった。


 天井は岩盤を削ったドーム状で、最も高いところで四階建ての建物くらいはあるだろう。壁面にいくつもの油灯が灯されていて、空洞全体が黄色い光に満たされている。光は柔らかいが、影は深い。壁の凹凸が複雑な陰影を作り、空洞の端はぼんやりと闇に溶けていた。


 空洞の床面に、市が広がっていた。


 布を敷いた上に品物を並べた露店が、通路に沿って両側に連なっている。乾燥した野菜、穀物の袋、獣の干し肉、水の入った壺、布、革、縄、蝋燭。生活に必要なものが、まばらだが揃っている。人が歩いていた。多くはない。二十人か三十人か。大半は痩せていて、顔色がよくない。地下の住人に特有の、陽を浴びていない肌の色をしていた。


 シエは目を丸くしていた。


「すごい。たくさんいる」


「声を落とせ」


「え、なんで?」


「目立つ」


 すでに遅かった。シエの声は子供特有の通りの良さで空洞に響いていた。何人かの住人がこちらを振り返った。地上から来た人間は珍しいのだ。まして子供を連れた男など。


 ヴァルトは外套のフードを目深に被った。顔を隠すためではない。そうしたかっただけだ。シエの手を取り、足早に市の中を進んだ。


「いたた、引っ張らないで」


「ついてこい」


「ついてってるよ。手がいたい」


 力を緩めた。だが手は離さなかった。地下集落では子供一人歩きは危険ではない。だが——理由はなかった。ただ、離したくなかった。


 穀物を扱う店の前で足を止めた。店番は中年の女だった。日に焼けていない白い肌に、くたびれた布を巻いている。ヴァルトを見上げ、それからシエを見下ろし、無言で値踏みをした。


「乾燥穀物を売ってくれ。三日分」


「何と替える」


 ヴァルトは荷物の中から、小さな金属の塊を取り出した。火打ち金だった。予備に持っていたものだ。鉄と石英を組み合わせた簡素な造りだが、地下では火の確保は重要だ。女は火打ち金を受け取り、手の中で重さを確かめ、石英の質を爪で弾いた。


「二日分」


「三日。子供がいる」


 女はシエをちらりと見た。シエはヴァルトの後ろからひょこっと顔を出して、女に向かって小さく手を振った。女の表情がわずかに緩んだ。


「……二日半だ。おまけはしない」


「いい」


 穀物の入った袋を受け取った。重さはたいしたことがないが、二日半分の食料があるとないとでは全く違う。


 水筒の補充は市の奥にある共用井戸でできた。地下水脈から直接引いている井戸で、住人は自由に使えるが、外の人間は水一杯にも対価を求められることがある。ヴァルトは井戸の管理をしている老婆に革紐を一本渡して、水筒を満たした。


「ヴァルト」


「なんだ」


「あそこ」


 シエが指さした先に、通路の端に座っている老人がいた。壁に背をもたれ、膝の上に汚れた毛布をかけている。物乞いだろう。手元に小さな木の椀が置いてあったが、中身は空だった。


 老人はヴァルトたちの方を見ていた。見ていた、というよりは——眺めていた。ずっと前から。市に入ったときから、あるいはもっと前から。


 ヴァルトは足を止めた。


 老人の顔に、見覚えがあった。いや——見覚えではない。顔そのものは知らない。だが、その目には見覚えがあった。兵士の目だ。戦場を知っている人間の目。歳月で色褪せてはいるが、消えてはいない。あの深さは、戦争を知らない人間には作れない。


 老人が口を開いた。


「お前——」


 しわがれた声だった。喉を潰したような、掠れた声。


「終戦に、出てたな」


 空洞の喧噪の中で、その声はひどく静かに聞こえた。断言だった。問いかけではなかった。老人はヴァルトの顔を見て、確信していた。


 ヴァルトは否定しなかった。


 否定する意味がなかった。嘘をついても目は誤魔化せない。兵士は兵士を見分ける。それがどの戦線で、どの部隊で、どんな任務についていたかまでは読み取れなくても、「あちら側にいた」ということだけは、互いにわかる。


「…………」


「儂もだ」


 老人は毛布の下から右手を出した。手の甲に、焼けた紋章の跡があった。出撃印だ。戦時中、出撃する兵士の手の甲に魔法で焼き付けられた認証印。部隊を示すものだが、終戦後は何の意味も持たない。ただの火傷の痕だ。


「第三歩兵。東部戦線だった」


 ヴァルトは何も言わなかった。自分の所属を明かす気はなかった。


 老人も、それ以上は聞かなかった。代わりに、長い息を吐いた。地下の湿った空気の中で、白くはならないその息が、壁の油灯の光にかすかに揺れた。


「まだ生きてたか」


 それだけだった。敵意もなく、同情もなく、ただ事実を確認するような声だった。まだ生きていた。それだけのことだ。戦争で死ぬべきだったのに死ななかった人間が、まだどこかを歩いている。老人も、ヴァルトも。


「……ああ」


「そうか」


 老人は頷いて、視線を落とした。会話は終わったようだった。


 シエが、ヴァルトの手を引いた。


「ねえ」


 ヴァルトが見下ろすと、シエは老人の方を見ていた。老人の膝の毛布や、空の木椀や、壁にもたれた痩せた体を。


「おじさん、おなかすいてない?」


 老人ではなくヴァルトに聞いている。ヴァルトは一瞬その意味がわからなかった。


「おじいさん、おなかすいてそう」


 シエは先ほど買った穀物の袋に目をやった。そしてヴァルトの顔を見上げた。灰色がかった青い目が、何かを問うていた。許可を求めているのではなかった。ただ「こうしたい」という意志を、目で伝えていた。


 ヴァルトは穀物の袋を開き、一掴みを手にとった。老人の前にしゃがみ込み、木椀の中にそれを入れた。


 老人は目を上げた。


「……いいのか」


「子供がやれと言っている」


「子供か」


 老人はシエを見た。シエは老人に向かって、にっと笑った。


「おじいちゃん、何年生きてるの?」


 唐突な質問だった。脈絡もなく、遠慮もなく、ただ純粋な好奇心だけがあった。


 老人は目を瞬かせた。それから、顔の筋肉がゆっくりと動いた。笑っていた。しわだらけの顔に深い溝が刻まれて、目が細くなった。歯はほとんど残っていなかった。だが、笑っていた。


「六十と、いくつかだ。数えるのをやめた」


「数えるのやめていいの?」


「やめたくなったらやめていい。覚えておく必要がないことは、忘れていい」


「ふうん」


 シエは何かを考えるように首を傾げた。


「じゃあ、覚えておく必要があることって何?」


 老人は笑みを消さないまま、少しだけ間を置いた。木椀の穀物に目を落とし、それからシエを見た。


「腹が減ったら、飯を食うこと」


「それだけ?」


「それだけだ」


 シエは満足そうに頷いた。それが正しい答えかどうかは問題ではないのだろう。答えが返ってきたこと自体が嬉しいのだ。


 ヴァルトは立ち上がった。


「行くぞ」


「うん。——おじいちゃん、ばいばい」


「ああ」


 老人は手を上げた。小さく。シエはその手に向かって手を振り返した。大きく。


 二人が市の通路を歩き始めたとき、老人の声が背中に届いた。


「おい」


 ヴァルトは足を止めた。振り返らなかった。


「その子——大事にしろ」


 ヴァルトは何も答えず、歩き出した。シエは聞こえていなかったのか、聞こえていて気にしなかったのか、何も言わずにヴァルトの横を歩いていた。


---


 市を抜けて、空洞の奥に進んだ。


 穴の街は予想より広かった。空洞は枝分かれしていて、いくつかの支洞が住居区になっている。通路の壁に木の扉がはめ込まれていて、その向こうに小部屋がある。所々から生活の音が漏れていた。鍋の煮える音、布を叩く音、低い話し声。子供の笑い声も、かすかに。


 シエは物珍しそうに通路を見回していた。扉の隙間から漏れる光を覗き込もうとして、ヴァルトに袖を引かれた。


「覗くな」


「なんで?」


「人の家だ」


「へえ、家なんだ。家って扉があるんだね」


「……ないこともある」


「ヴァルトの家にはある?」


「家がない」


「あ、そっか」


 あっさり納得した。この子供にとって、家がないことは異常ではないのだ。自分も家を持ったことがない。比較対象がない。


 通路の奥に、広めの部屋を貸している場所があった。旅人向けの宿のようなものだ。岩壁を削った小部屋が並び、入口に布が垂れ下がっている。管理人らしき中年の男が入口に座っていた。


「一晩いくらだ」


「何を持ってる」


 ヴァルトは持ち物を検分した。交換に出せるものはもう多くなかった。火打ち金は先ほど使った。残っているのは——煤けた毛布。


 毛布を手放すのは痛い。だがシエに屋根のある場所で眠らせてやりたかった。


 そう思った自分に気づいて、ヴァルトは内心で首を振った。いつからそんなことを考えるようになった。三日前まで一人で歩いていた人間が。


「毛布で一晩」


 管理人は毛布を広げて状態を確かめ、頷いた。


「奥から二番目。朝には出ろ」


 部屋は狭かった。大人二人が並んで横になれるくらいの広さで、奥に藁を敷いた寝台がある。石の壁は湿っていて、油灯が一つだけ灯っていた。天井が低く、ヴァルトは少し頭を屈めた。


 シエは部屋に入ると、すぐに寝台の藁を手で触った。


「ふわふわ」


「ふわふわではない」


「ヴァルトの布より柔らかいよ」


 それは確かにそうだった。地面に直接寝るよりは、藁の上のほうがましだ。


「お前はここで寝ろ」


「ヴァルトは?」


「床でいい」


「だめ」


「だめじゃない」


「だめ。せまいけど、一緒にのれるよ」


 シエは寝台に座って、横の空間を叩いた。確かに、体の小さなシエなら、寝台の半分を空けることができた。ヴァルトが横になれるかは怪しいが。


「……勝手にしろ」


 穀物を水で戻して簡素な粥を作った。管理人から借りた小鍋と、部屋に備え付けの小さな炉。燃料は油灯の予備の油を少しもらった。それも交渉だ。革紐の残りと交換した。


 粥は味気なかった。塩もなく、具もない。ただの穀物を水で煮ただけのものだ。だが温かかった。地上では火を焚くことが少なかったから、温かい食事は久しぶりだった。


「あったかい」


 シエが椀を両手で抱えて言った。目を閉じて、湯気を顔に浴びている。


「おいしい?」


「……まあ」


「わたしもおいしい」


 言葉としてはおかしいが、意味はわかった。味ではなく、温かいということ自体が「おいしい」のだろう。


 食べ終えて、油灯の火を落とした。部屋が暗くなる。壁の向こうから、かすかに他の住人の寝息が聞こえてくる。地下は静かだった。風の音がしない。地上ではいつでも聞こえていた風の音が、ここにはなかった。


「ヴァルト」


「なんだ」


「風がないね」


「地下だからな」


「さみしい」


 ヴァルトは何も答えなかった。だが同じことを考えていた。風がないことが落ち着かない。七年間、風の中で眠ってきた。草を揺らす音、壁の穴を通る音、遠くの何かが軋む音。それが全くない。


「明日出る」


「うん」


「地上に戻る」


「うん。風のあるとこがいい」


 シエは寝台の端に丸くなった。ヴァルトは寝台のもう半分に、体を折り曲げるようにして横になった。狭い。だが藁が柔らかく、石の地面よりはずっとましだった。


 暗闇の中で、天井を見つめた。岩盤の凹凸が影を作っている。ここは安全だ。壁がある。屋根がある。人の気配がある。だがヴァルトは落ち着かなかった。地下にいると、息が詰まる。七年前に地下に潜った人々の理由はわかる。地上は怖かったのだ。焼けた大地、残った魔力の残滓、何も残っていない風景。それらが怖くて、地下に潜った。


 だがヴァルトにとっては、地下のほうが怖かった。壁に囲まれていると、逃げ場がなくなる。地上なら走れる。地上なら風がある。風があれば——何だ。風があれば、何がどうなるというのだ。


 わからなかった。ただ、風が必要だった。


「ヴァルト」


「……起きてたのか」


「ヴァルト、寝てないでしょ」


「…………」


「目、開いてるもん。暗くてもわかる」


 この子供は、暗闇でも人の目が開いているかどうかがわかるのか。


「おやすみって言ったのに」


「まだ言ってない」


「あ、そっか。じゃあ、おやすみ」


「……おやすみ」


「ヴァルト」


「……なんだ」


「明日、風のあるとこ行こうね」


「……ああ」


 シエの声が遠くなっていく。眠りに落ちていく。ヴァルトは暗い天井を見つめ続けていた。ここを出たい。早く出たい。だが体は疲れていた。藁の感触が、思いのほか心地よかった。


 いつのまにか、目が閉じていた。


---


 翌朝、早くに目が覚めた。


 隣を見ると、シエがまだ眠っていた。寝台の上で、小さくなって丸まっている。今朝は毛布がなかったから、ヴァルトの外套の端を握りしめていた。無意識だろう。指が布をしっかりと掴んでいて、離す様子がなかった。


 ヴァルトは外套をそっとほどかず、しばらくそのままにしていた。


 部屋の外から、人の動く気配が聞こえ始めた。朝が来たのだ。地下には太陽がないから、住人たちは油灯の管理と生活音で朝を判断しているのだろう。通路に足音が増え、どこかで鍋の音がする。


 シエが目を開けた。


「……あさ?」


「ああ」


「ヴァルト、いた」


「いた」


「よかった」


 その「よかった」の響きに、ヴァルトは一瞬だけ動きを止めた。毎朝、自分がまだそこにいることを確認しているのだ。初日に出ていこうとしたことを、覚えているのか。覚えていなくても、体が覚えているのか。


 残りの穀物で粥を作り、二人で食べた。今日のうちに地上に出て、東に向かう。水は共用井戸で補充した。管理人に小鍋を返して、部屋を出た。


 市を通り抜ける。朝の市は昨日より人が多かった。食料を求める住人たちが行き来し、声が飛び交っている。値段の交渉。愚痴。噂話。


 その中を歩いていると、シエが足を止めた。


「ヴァルト」


「どうした」


「あの人、こっち見てる」


 シエの視線の先を追った。市の端、壁際に立っている男がいた。中年か、それより少し若いか。痩せていて、片方の目が潰れていた。残った方の目が、ヴァルトをまっすぐに見ていた。


 敵意があった。


 昨日の老人とは違う。あの老人は同じ兵士としてヴァルトを見ていた。この男は違う。この男の目は、兵士のものではなかった。被害者の目だった。何かを奪われた人間の目。


 男はヴァルトから目を逸らさなかった。近づいてくることはなかったが、離れることもなかった。壁に寄りかかったまま、ヴァルトを見続けていた。口は動かない。言葉はない。だがその目が全てを語っていた。


 お前は何をした。

 お前のせいで、何が失われた。

 お前は、なぜまだ生きている。


 ヴァルトは目を逸らさなかった。


 逸らすことが、逃げることだと知っていた。この男が何を失ったのかは知らない。家族か、友人か、体の一部か、あるいはその全てか。それを聞く権利は自分にはない。弁解する言葉も、持ち合わせていない。


 数秒か、数十秒か。視線が交差したまま、時間が流れた。


 男が、最初に目を逸らした。唾を吐くように顔を背け、通路の奥に消えていった。


 ヴァルトはそれを見届けてから、歩き出した。


 シエは何も言わなかった。ヴァルトの手を握ったまま、黙って歩いていた。


---


 階段を上がり、地上に出た。


 光が目を刺した。地下の黄色い灯りに慣れた目には、太陽の光はあまりにも強かった。ヴァルトは手で庇を作り、目を細めた。空が青い。風が吹いている。草の匂いがした。


 シエは階段の上に立って、深く息を吸った。


「かぜ」


 一言。それだけで、表情が変わった。地下にいた間、どこか窮屈そうだったシエの顔が、風を受けた瞬間に開いた。目が明るくなり、肩の力が抜けた。


「やっぱり、外がいいね」


「……そうか」


「ヴァルトもそう思うでしょ」


 否定しなかった。


 平原が広がっていた。昨日と変わらない。灰混じりの土に、まばらな草。遠くに構造物の残骸が点在している。何もない風景だったが、風があった。


 二人は東に向かって歩き始めた。太陽が昇りかけの位置にあり、目を細めながら歩いた。影が長く西に伸びる。大きな影と小さな影が、並んで草の上を滑っていく。


 しばらく黙って歩いた。シエにしては珍しい沈黙だった。何かを考えている顔だった。眉を少し寄せて、唇を結んで、足元を見ながら歩いている。


「ヴァルト」


「なんだ」


「さっきの人」


「どの」


「こっち見てた人。目がひとつの人」


「…………」


「あの人、怒ってた?」


「……そうかもしれない」


「ヴァルトに?」


「……そうだろう」


「なんで?」


 ヴァルトは歩き続けた。足を止めなかった。答えを探していた。幼い子供に何をどう言えばいいのか。


「俺は昔、兵士だった」


「うん、聞いた」


「兵士は——戦争をする。戦争ではたくさんの人が傷つく。あの男も、おそらく傷ついた」


「ヴァルトが傷つけたの?」


「……直接かどうかはわからない。だが、俺も戦争にいた」


「じゃあ、ヴァルトも傷ついた?」


 想定していなかった問い返しだった。ヴァルトは黙った。


「だって、ヴァルトの顔にもあるもん。やけどの」


 シエが自分の頬を指さした。ヴァルトの顔の、薄い火傷の跡。普段は気にしない。鏡を見ることもない。だがこの子供は、三日間ずっと見ていたのだ。


「……ああ。俺も傷ついた」


「じゃあ、あの人とヴァルトは同じ?」


「……同じじゃない」


「なんで?」


「あの男は——」


 言いかけて、やめた。何と言えばいい。あの男は被害者で、自分は加害者だ。そう言えば済むのか。だが子供にはわからないだろう。わからないほうがいい。


「ヴァルト」


「…………」


「なんで謝らないの?」


 足が止まった。


 今度こそ止まった。風が吹いている。草が揺れている。太陽が東から白い光を投げかけている。何も変わらない風景の中で、ヴァルトの足だけが止まった。


 シエは二歩先で振り返った。不思議そうな顔だった。非難でも、指摘でもなかった。純粋な、ただの疑問。なぜ謝らないのか。怒っている人がいて、自分も戦争にいた。なら、謝ればいいじゃないか。子供の論理としては、当然の帰結だった。


 ヴァルトは空を見た。青い空。雲はない。風が吹いている。


 シエはあの男とヴァルトの間に何があったのか、何も知らないはずだ。知りようもない。子供はただ、怒っている人と、怒られている人を見ただけだ。怒っている人がいるなら、謝れば——


「……謝って済む話じゃないからだ」


 長い沈黙のあとに出た声は、思ったよりも乾いていた。感情がないのではなかった。感情が多すぎて、どれも声に乗らなかったのだ。


「済まないの?」


「済まない」


「じゃあ、どうするの?」


「…………」


「謝っても済まなくて、怒ってる人がいて、ヴァルトはどうするの?」


 答えは出なかった。すぐには。いつまでも。七年間探して見つからなかった答えだ。幼い子供に聞かれて出てくるはずがなかった。


「わかんない」


 ヴァルトが、そう言った。


 初めてだったかもしれない。大人が子供の前で「わからない」と言うのではなく、本当にわからないと——降参するように、そう言ったのは。


 シエは数秒だけヴァルトを見つめて、それから前を向いた。


「じゃあ、歩こ」


「…………」


「わかんないなら、歩こ。歩いてたら何か見つかるかもしれないし」


 見つからないかもしれない。たぶん見つからない。だがシエはそんなことは気にしていなかった。歩くことと、見つけることを、同じ重さで信じていた。


 ヴァルトは歩き出した。シエが隣に並んだ。小さな足音が、また始まった。ぱたぱたと。布靴が土を踏む音。ヴァルトの重い足音の間を縫うように。


 東へ。


 風が背中を押していた。

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