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灰と草  作者: 雨水


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1/5

灰と草

 風が鳴っていた。


 低く、遠く、途切れることなく。草を撫で、瓦礫の隙間を抜け、崩れた壁の穴を通り過ぎるたび、その音はわずかに形を変える。口笛のようでもあり、獣の息のようでもあり、しかしどちらでもない。ただ風が、地上を渡っていた。


 ヴァルトは歩いていた。


 足元には灰を含んだ土が広がっている。かつては街道だった場所だろう。石畳の名残が所々に覗いていて、割れた石の隙間から細い草が伸びている。踏むとかすかに弾力があった。七年前、ここは焦土だった。何も生えず、何も動かず、風さえ熱を帯びていた。今は違う。草が戻り、土が湿り気を取り戻し、崩れた建物の壁には淡い緑の苔がゆっくりと這い上がっている。


 廃墟の集落は、平原のはずれにあった。


 いくつかの建物が、かろうじて輪郭を保っている。壁は半分崩れ、屋根はとうに落ちている。残った柱が、骨のように空に突き出していた。窓の枠だけが残った壁面に、夕方の陽が斜めに差し込んで、内側の瓦礫に長い影を落としている。人の気配はない。ここに最後に誰かが暮らしていたのがいつだったのか、もう誰にもわからないだろう。


 ヴァルトは集落の中を歩いた。目的があるわけではなかった。ただ、屋根のある場所を探していた。夜を越すために。荷は軽い。背中の布袋には、干した肉の残りと水筒が一つ、煤けた毛布が一枚。それだけだった。


 七年間、こうして歩いてきた。


 地下には戻らなかった。穴の街には、まだ人が暮らしている。秩序があり、市場があり、子供の声がある。だがヴァルトにとって、そこは帰る場所ではなかった。帰るべき顔が思い浮かばなかった。覚えている顔は、全て灰の中にあった。


 壁が比較的残っている建物を見つけて中に入る。かつては住居だったらしい。床は土に戻りかけていたが、奥の隅に石の台があり、その上に座れば地面の冷えを避けられそうだった。天井は半分が抜けていて、空が見える。橙色を帯びた夕暮れの空が、崩れた梁の向こうに広がっていた。


 ヴァルトは石の台に腰を下ろし、水筒に口をつけた。ぬるい水が喉を通る。味はしない。ただ、必要だから飲んだ。干した肉をひとかけら噛みちぎり、咀嚼する。顎を動かしながら、何を考えるでもなく壁の苔を見ていた。苔は薄い緑で、光が当たるところだけわずかに黄味がかっている。


 どれくらいそうしていたか。陽がさらに傾き、廃墟の影が長く伸びた頃、ヴァルトは立ち上がった。水を補充できる場所を探しておく必要があった。この近くに井戸の跡があるかもしれない。


 外に出て、集落の奥へ進む。崩れた建物の間を縫うように歩くと、広場のような空間に出た。

 石畳が比較的きれいに残っていた。中央に円形の窪みがある。噴水か、井戸か。近づいてみると、枯れた井戸だった。底は見えない。石を一つ拾い、落としてみる。数秒の沈黙のあと、微かに湿った音がした。水脈はまだ生きている。縄と桶があれば汲み上げられるかもしれない。


 その時、声が聞こえた。


 風の音ではなかった。人の声だった。高く、細く、何かの旋律を辿っている。歌だった。


 ヴァルトは動きを止めた。


 七年間の地上生活で、人に出くわすことは稀ではなかった。地下から出てくる物資の運び屋、追放された者、あるいはヴァルトと同じように当てもなく歩いている元兵士。だが大抵は互いに警戒し、距離を取り、用がなければ言葉も交わさないまますれ違って終わる。人を見て安全だと思ったことはない。自分がそうであるように、地上を歩く人間には、地上を歩かなければならない理由がある。


 声は広場の奥から聞こえてくる。崩れた壁の向こう側。ヴァルトは音を立てないように近づき、壁の残骸の陰から覗いた。


 子供だった。


 小さな子供が、石畳の隙間に座っていた。


 白に近い浅い金髪が、夕風に揺れている。汚れた、しかし破れてはいない薄い灰色の服を着ていた。裸足だった。足の裏が土で黒くなっている。年の頃は六つか七つか。膝を抱えるようにして座り、何かを見つめながら口ずさんでいた。歌というほどの旋律ではない。音を並べて遊んでいるような、意味のない節回し。


 ヴァルトは動かなかった。


 子供が一人でここにいる。それ自体が異常だった。地下集落から出てくる子供はまずいない。大人でさえ地上を恐れているのだから。迷子だとして、最寄りの集落入口からでもかなりの距離がある。連れの大人がいるのか。置いていかれたのか。


 視線を巡らせる。周囲に人の気配はなかった。子供以外の足跡もない。荷物もない。


 子供が顔を上げた。


 灰色がかった青い目が、まっすぐにヴァルトを見た。壁の陰に隠れていたつもりだったが、見つかっていた。あるいは、最初から気づいていたのかもしれない。


 警戒の色はなかった。驚いた様子もなかった。子供は首をかしげて、ヴァルトをじっと見つめていた。風が金髪を揺らす。夕陽が横から差して、髪の輪郭が淡く光った。


「ねえ」


 子供が言った。声は思ったより澄んでいた。


「この花、名前なんていうの?」


 子供の視線が、足元に落ちた。石畳の割れ目から、一本の花が伸びていた。細い茎に、小さな白い花弁が五つ。地面からわずか一掌ほどの高さで、風に揺れている。ヴァルトはその花を見た。見覚えはあった。平原のあちこちに咲いている。よく見かける花だ。だが——


「……知らない」


 花の名前を、知らなかった。


 考えてみれば、花の名前を知っていた時期があったのかどうかも怪しかった。子供の頃に教わったことがあるかもしれない。だが軍に入り、戦場に出て、終戦を越え、七年間一人で歩き続ける間に、そういうものは全て地面の下に沈んでいった。必要なかったから。花の名前は、何の役にも立たなかったから。


「知らないの? 大人なのに?」


 子供は不思議そうに言った。責めているのではなく、純粋に驚いている顔だった。


「……ああ」


「ふうん」


 子供はもう一度花を見つめ、自分の指で花弁にそっと触れた。その仕草はひどく丁寧で、壊れやすいものを扱っているというよりは、初めて会うものに挨拶をしているように見えた。


「じゃあ、名前ないんだね、この子」


 花に「この子」と言った。ヴァルトは何も答えなかった。


 沈黙が落ちた。風が吹いている。遠くで瓦礫がかすかに軋む音がする。夕陽がさらに傾いて、廃墟の影が広場を覆い始めていた。子供は花の前に座ったまま、ヴァルトのことも、自分が一人であることも、特に気にしていない様子だった。


 ヴァルトは壁の陰から出た。隠れている意味がなかった。


「一人か」


「うん」


「……どこから来た」


「わかんない」


「親は」


「いない」


 三つの質問に、三つの短い答え。どれも投げやりではなかった。本当に知らないのだと、その声の調子でわかった。悲しんでいるわけでも、困っているわけでもない。ただ、知らないのだ。


 ヴァルトは子供の前に立ち、見下ろした。小さかった。座っていると、膝くらいの高さしかない。痩せてはいるが、衰弱しているようには見えない。頬に色がある。目も澄んでいる。飢えた子供の顔ではなかった。


 だが一人だった。この廃墟に。裸足で。荷物もなく。


「いつからここにいる」


「うーん……」


 子供は首をかしげた。真剣に考えている顔だった。眉を寄せ、口をきゅっと結んで、それから広場の空を見上げた。


「わかんない。でも、あの花が咲いてるときにはもういたよ」


 足元の花を指さした。花がいつ咲いたのかもわからないのだから、答えになっていない。だが子供にとっては、それが精一杯の時間の測り方なのだろう。


 ヴァルトは周囲をもう一度見渡した。日が暮れかけている。このまま歩き去ることもできた。関わる理由がない。子供を一人で廃墟に置いていくという事実に目をつぶれば、何も起こらない。自分の旅は自分だけのものだ。誰かを連れて歩くようにはできていない。


 だが、足が動かなかった。


 七年前の記憶が、不意に喉の奥に込み上げてきた。火に呑まれていく街並み。逃げ惑う人影。子供の泣き声。あのときも、目をつぶった。命令だった。振り返らなかった。


 今、目の前にいるのはあの子供ではない。あの子供たちは、もういない。そんなことはわかっている。わかっていて、それでも足が動かなかった。


「おなかすいてる?」


 子供が聞いた。ヴァルトではなく、子供のほうが。


「……どっちが」


「おじさんが」


「……いや」


「そう。わたしはすいてる」


 あまりにも率直だった。ヴァルトは一瞬、何かが緩むのを感じた。それは苦笑に似ているが、顔には出なかった。背中の袋に手を伸ばし、干し肉の残りを取り出した。硬い。大人でも顎が疲れるような代物だ。子供に渡していいものか迷ったが、他に食料がなかった。


「硬いぞ」


「だいじょうぶ」


 子供は受け取ると、両手でしっかり掴んで、端から齧り始めた。小さな歯で懸命に噛んでいる。硬い。明らかに硬い。だが文句は言わなかった。むしろ真剣だった。頬を膨らませ、眉間に皺を寄せ、全身で噛んでいた。


「……ゆっくり食え」


「んー」


 返事になっていない。ヴァルトは子供の向かい側の瓦礫に腰を下ろし、水筒を差し出した。子供は肉を咀嚼しながら水筒を受け取り、蓋を開けて一口飲んだ。「ぷはっ」と息を吐いて、また噛み始めた。


 空の色が変わっていく。橙から、薄い紫へ。やがて藍色が東の空からゆっくりと広がってくる。廃墟のシルエットが空に黒く浮かび上がり、崩れた壁の輪郭が夜に溶けていこうとしていた。最初の星が、壊れた屋根の向こうに一つ灯った。


 子供は干し肉の三分の一ほどを食べ終えたところで咀嚼をやめ、残りをヴァルトに差し出した。


「おじさんのぶん」


「……いい。全部食え」


「でも、おじさんのだったでしょ」


「いいから」


 子供は少し考えて、残りの肉を自分の膝の上に置いた。食べるでもなく、返すでもなく。とりあえずそこに置く。そういう判断の仕方が妙に可笑しかった。


「おじさん、名前は?」


「……ヴァルト」


「ヴァルト」


 子供はその名前を口の中で転がすように繰り返した。音を確かめているようだった。


「変な名前」


「……そうか」


「うん。硬い感じ。干し肉みたい」


 ヴァルトは何も言わなかった。干し肉と比較されたのは初めてだった。


「お前は」


「わたし?」


「名前」


「ないよ」


 当然のように言った。名前がないことを悲しんでいるわけでも、不便に思っているわけでもない。ただの事実として。空が青い、風が吹いている、名前がない。全てが同じ重さで並んでいるようだった。


「ずっとなかったのか」


「うん。だって、つけてくれる人いなかったもん」


 それは当然の論理だった。名前は誰かがつけるものだ。一人で生まれ、一人でここにいるなら、名前はない。理屈としては当たり前のことだが、その当たり前が、妙に喉に引っかかった。


 夜が深くなる。気温が下がり始め、風が冷たさを増している。子供は寒さに気づいていないのか、まだ石畳の上に座っていた。裸足の足が冷たいはずだった。


「こっちに来い」


 ヴァルトは先ほど見つけた建物に戻った。子供はすぐに立ち上がって後をついてきた。警戒心がない。見知らぬ大人についていくことに、一切の躊躇がない。それが危険だとか、用心しろとか、そういうことを思う以前に、子供はもう隣を歩いていた。


 建物の中に入り、奥の石の台の近くに荷物を置いた。毛布は一枚しかない。ヴァルトは子供に毛布を渡した。


「これ使え」


「おじさんは?」


「いい」


「寒くないの?」


「慣れてる」


 子供は毛布を受け取り、広げて、自分をくるんだ。くるみ方が下手で、頭の上に毛布が乗っかって、顔だけが出ている。灰色がかった青い目が、毛布の中からヴァルトを見上げていた。


「ヴァルト」


「……なんだ」


「ありがとう」


 その一言は、何の裏もなく、何の計算もなく、ただそこにあった。水が流れるように。風が吹くように。


 ヴァルトは答えなかった。壁に背を預けて座り、崩れた天井から見える空を見上げた。星が増えていた。戦争の前も後も、星の数は変わらない。地上がどれだけ焼けても、空は何も知らない顔をしている。


 七年間、ほとんど誰とも言葉を交わさなかった。声を出すことすら珍しい日々だった。必要最低限の取引のとき以外、口を開く理由がなかった。自分の名前を他人に言ったのも、いつ以来か覚えていない。


 隣で、子供の寝息が聞こえ始めた。早かった。干し肉を食べ、水を飲み、毛布にくるまって、それだけで十分だったらしい。小さな呼吸が規則正しく繰り返されている。


 ヴァルトは毛布から出ている子供の顔をちらりと見た。眠っている顔は、起きているときよりもさらに幼く見えた。頬がわずかに上気していて、唇が少し開いている。浅い金髪が額にかかっている。


 何者なのか、わからなかった。どこから来たのかも、なぜここにいるのかも。だが、今夜はもう遅い。明日になれば出発する。子供は——


 考えることをやめた。明日のことは明日でいい。今夜は、ここにいる。それだけだった。


 火は焚かなかった。燃やすものがなかったのと、光は遠くから見える。必要のない目印を作る理由はなかった。闇の中で、風の音だけが続いている。壁の外を吹き抜ける風が、時折、口笛のような音を立てた。


 子供が寝返りを打った。毛布がずれて、肩が出た。ヴァルトは手を伸ばし、毛布を引き上げて肩にかけ直した。


 その動作を、自分で不思議に思った。


 別に、放っておいても死にはしない。少し冷えるだけだ。だが手が勝手に動いた。そういう所作が自分に残っていたことに、小さな驚きがあった。


 もう一度空を見上げた。星の配置は変わっていない。風が変わらず吹いている。地上のどこかで、草が静かに揺れているのだろう。目には見えない。だが音でわかる。さわさわと、遠くで。灰の大地に戻ってきた草が、夜の風に揺れている。


 ヴァルトは目を閉じた。


 眠ったかどうかは、自分でもわからなかった。


---


 薄明かりで目が覚めた。空が白み始めている。まだ陽は出ていない。東の空の端だけが、淡い灰青色に変わりかけていた。


 体が冷えていた。夜の間に気温がかなり下がったらしい。石の台に座ったまま壁にもたれて眠っていたようで、首が痛む。指先がかじかんでいた。


 隣を見た。


 子供はまだ眠っていた。毛布にくるまったまま、壁際で丸くなっている。呼吸は穏やかで、微かに唇が動いている。寝言だろうか。声にはなっていない。


 ヴァルトは静かに立ち上がった。


 今なら、出ていける。


 子供は眠っている。起きる頃にはヴァルトはもういない。干し肉の残りと水をここに置いていけば、しばらくは保つ。近くの地下集落を探せば、誰かが拾ってくれるかもしれない。


 そうするのが正しいと、頭ではわかっていた。自分は旅をしている。当てのない、終わりのない旅を。そこに子供を連れていくわけにはいかない。子供の面倒を見る余裕もなければ、資格もない。


 荷物を手に取る。水筒と、干し肉の残り。干し肉を半分ちぎって、子供の手の届くところに置いた。水筒も一つは置いていく。自分は井戸で補充すればいい。


 出口に向かう。足音を殺す。崩れた壁の向こうに、白み始めた空が広がっていた。草の上に朝露が光っている。平原が、夜明け前の静けさの中で、うっすらと靄をまとっていた。


「どこいくの?」


 背中に声がかかった。


 足が止まった。

 振り返ると、子供が毛布から半分出た状態で、こちらを見ていた。目がまだ眠そうだった。髪が寝癖でいろんな方向に跳ねている。


「……散歩だ」


「ふうん。荷物持って?」


 見抜かれていた。というより、子供は散歩と出発の区別がついたのではなく、荷物を持っているという事実だけを見ていた。それだけで十分だった。


「…………」


「ねえ、わたしも行っていい?」


「どこに行くかもわからないのにか」


「うん」


 迷いのない返事だった。行き先がわからないことは、この子供にとって問題ではないらしい。考えてみれば、名前もなく、来た場所もわからず、親もいない子供が、行き先を気にする道理はないのかもしれない。


 ヴァルトは出口に立ったまま、振り返ったまま、しばらく動かなかった。


 子供は催促しなかった。待っていた。毛布を抱えたまま、灰色がかった青い目で、ただ黙ってヴァルトを見ていた。


 風が壁の穴を通り抜けて、子供の金髪を揺らした。朝の光がまだ届かない薄暗い室内で、その髪だけが微かに光っている。


 長い沈黙のあと、ヴァルトは口を開いた。


「……靴はあるのか」


「ない」


「足、怪我するぞ」


「だいじょうぶ。硬いもん、足の裏」


 大丈夫ではない。瓦礫だらけの地面を裸足で歩かせるわけにはいかなかった。ヴァルトは荷物の中から布を一枚取り出した。煤けた布だが、清潔ではある。それを二つに裂いて、子供の前にしゃがみ込んだ。


「足出せ」


 子供は黙って足を差し出した。小さな足だった。土で汚れていたが、ヴァルトの手とは比べものにならないほど柔らかかった。傷はなかった。本当に裸足でここまで来たのだとしたら、不思議なことだった。


 布で足を包み、紐できつくならない程度にしばった。簡素な即席の靴のようなものができた。格好は悪いが、いくらかはましだろう。


「歩けるか」


 子供は立ち上がって、その場で二、三歩踏んでみた。感触を確かめるように、足元を見つめている。


「あったかい」


 それだけ言って、ヴァルトの顔を見上げて笑った。


 ヴァルトはその笑顔に対して何も返さなかった。立ち上がり、荷物を背負い直し、出口に向かった。今度は振り返らなかった。


 だが、歩く速度は落とした。


 小さな足音がついてくる。布で包まれた裸足が、石の上を、土の上を、ぱたぱたと踏んでいく。その音はヴァルトの重い足音の間を縫うようにして、朝の空気の中に響いた。


 二人は廃墟を出た。


 平原が広がっていた。


 見渡す限りの草原——と呼ぶには、まだ緑が足りない。灰を含んだ土に、まばらに草が生えている。背の低い草だった。それでも、七年前の焦土を思えば驚くべき回復だった。風が草を横に倒すように撫でていく。草は風に逆らわず、一斉に波打つように揺れる。その波が、はるか先まで続いている。地平線がぼんやりと霞んで、空との境目が曖昧だった。


 朝日が昇り始めていた。東の平原の果てから、白い光が水平に差してくる。草の葉に残った朝露が一斉に光を反射して、地面が一瞬だけきらきらと瞬いた。露が蒸発すれば消えてしまう光だった。今だけの光。


「わあ」


 子供が声を上げた。立ち止まって、平原を見つめていた。


「きれい」


 ヴァルトは立ち止まらなかった。歩き続けた。だが数歩先で、子供がついてきていないことに気づいて、振り返った。


 子供はまだ立ち止まっていた。朝日を浴びて、金髪が白く光っている。灰色がかった青い目が、平原の光を映して明るく見えた。小さな手が、何かを掴もうとするように胸の前で開いている。


「ヴァルト、これ、毎日見てるの?」


「…………」


「毎日見てるの? こういうの」


「……まあ」


「すごいね」


 何がすごいのかはわからなかった。ヴァルトにとって、朝日は朝日でしかなかった。暗い時間が終わり、明るい時間が始まる。それだけのことだ。七年間の地上の旅で、朝日は何千回と見てきた。きれいだと思ったことは——覚えていない。


「行くぞ」


「うん」


 子供は駆け足でヴァルトに追いついた。そして隣に並んで歩き始めた。歩幅が違う。ヴァルトの一歩は子供の二歩か三歩に相当する。子供は小走りに近い速さで歩いていたが、息を切らしてはいなかった。


 二人は、風の中を歩いた。


 広場で、名前のない花が一本、石畳の隙間で揺れていた。誰が見るでもなく、誰が名を呼ぶでもなく。ただ風に揺れている。


 白い花弁が朝日を受けて、わずかに透けていた。

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