第61章 いざ、カリフォルニアへ その2(最終章)
渡米の日はあっという間にやってきた。蒸し暑い日だった。すでに、祐希は千波と成田空港近くのホテルに前泊していた。明日のフライトは、午前中に出発する便だった。他にも、見送りの友人たちが来てくれることになっていた。人事からは、前回同様に、伊藤と森が見送りに来てくれる予定だった。
千波「いよいよだね。なんか、あっという間だったね。」
祐希「ねえ、しばらく会えないから、ちょっと相手してよ。」
千波「しょうがないわね。でも、あんまり激しくしないでね。妊娠中だから。」
祐希「妊娠中ってさ、中で出しても問題ないって聞いてんだけど。」
千波「いやねー、スケベ男は。まあ、いいけど。」
千波が渡米する時期はまだ全く決まっていなかったし、祐希が次回いつ一時帰国できるのかもわからなかった。祐希が考えている通り、二人は当分の間、会えない時期が続くのである。その晩は、いつもよりも長い時間をかけて、二人は交わりあった。終わったあとに、千波はずっと祐希の腕枕の中で、夢うつろな状態だった。半分起きているようで、半分眠っているような、そんな居心地の良い時間だった。祐希も、柔らかくて、すべすべの千波の肌を体中に感じながら、千波の頭を左腕で支えていた。夕食時に、少しお酒を飲んだせいか、二人ともかなり気持ちよくなっていた。祐希は、明日のフライトを考えると、少し気が滅入りそうになったが、なるべくそのことは考えないようにした。
行為のあと、かなりの時間をそうやって過ごしていた。一体、今は夜の何時なのか、わからなかった。時計を見ないようにしていたのだ。そのうち、千波がベッドから這い出て、シャワーを浴びにいった。かなり長い時間、シャワーを浴びたあと、千波は持ってきたパジャマに着替えていた。パジャマ姿の千波は、高校生くらいの年齢に見えた。
祐希「そのパジャマだと、すっごい子供みたいに見えるよ。」
千波「かわいいでしょ。東急で値引きしていたから、買ってきたの。」
祐希「すごい、エネルギーをチャージしたよ。セックスってさ、エネルギーの交換のような気がする。」
千波「でも、疲れるんでしょ。」
祐希「どうだろう。俺はすぐに回復するけどね。」
千波「祐希ってさ、エッチしたあとって、すごい機嫌よくなるよね。」
祐希「そうかなー。変わらないでしょ。」
千波「まあ、男はみんなそうなのかもね。彼氏持ちの友達みんな同じようなこと言ってるし。」
祐希もシャワーを浴びてきた。ざっと、頭からお湯をかぶり、体中を熱いお湯で流した。
千波「はやいねー、シャワー。」
千波がドライヤーで髪を乾かしながら言ってきた。
祐希「まあ、さっき体も髪も洗ったしね。」
千波「ねえ、まだ冷蔵庫にビールあるよ。」
祐希は部屋にある小さい冷蔵庫を開いた。千波が昼に買ってきてくれたビールと乾物のおつまみが入っていた。そのなかの1本を取り出し、栓を開けた。
祐希「ビールが美味いね。」
千波「それだけで足りる。私は飲まないからさ。」
祐希「うん、あと2本あるし。余ったら、持ってかえれば。」
ビールを飲んだあと、祐希はベッドにもぐりこんだ。千波はもう歯も磨き、すっかり寝る準備を整えていた。
祐希「ねえ、もう一回いい。」
千波「ええ、まじで。まったく、底なしの性欲だなー。」
祐希「いいじゃん。」
千波「いいよ。じゃあ、2回戦か。」
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翌日、成田空港には、東京の人事からは伊藤と森、そして祐希の友人として、新井、山下、円山、野口が見送りに来ていた。本当は福井から母親だけでもと思い、数日前に電話をしてみたが、妹もまだ小さいのもあり、見送りには行けないということだった。そろそろ、ゲートに向かうために、出国審査と手荷物検査を受ける必要があった。
祐希「じゃあ、みなさん、大変お世話になりました。行ってきます。」
伊藤「橘、向こうでは木下さんがまた待っているから、何も心配ないからな。」
新井、山下、円山の順で、祐希を抱きしめてきた。あまり言葉はなかった。
森「橘君、来年は京子もあとに続くと思うから、頑張って。」
野口「祐希さん、私たちもお金貯めて、アメリカに遊びに行きます。」
全員が応援してくれていた。最後に、祐希はそっと千波を抱きしめた。
千波「赤ちゃんのことは大丈夫だから。うちのお母さんも付いていてくれるし。祐希はとにかく頑張ってね。なるべく早く、そっちに行くようにするから。」
森「千波さんの渡米の件は、人事でもなるべく千波さんの意向を聞いて、準備をしていくから。」
伊藤「そうだ。こっちのことは、何も心配ないからな。」
最後に千波を少し強く抱きしめたあと、出国審査のために搭乗者のみが入れる通路に入っていった。途中で後ろを振り返ると、全員が手を振ってくれていた。明らかに、千波は泣いているようだった。となりに野口が寄り添い、千波の肩を抱いていた。山下や円山は晴れやかな表情だった。そして、出国審査に向かった。
手荷物検査を済ませ、出国審査のため、パスポートを差出、出国のスタンプを押してもらった。もう、彼らの様子が見られないところまでやってきていた。なぜか、そこから急に寂しくなってきた。気を取り直して、搭乗ゲートの方に向かった。
搭乗ゲート前には、すでに同じ便に乗るであろう乗客達が付近のベンチで思い思いに時間を過ごしていた。よく人混みをみると、峰川が本を読んでいるのが目に入った。
祐希「峰川さん。」
峰川「ああ、祐希君。こないだは、どうも。」
前回、品川で会ったときとは違って、かなりカジュアルな服装だった。
峰川「結局、同じ便にしちゃった。席はどこ。チケット見せてよ。」
祐希「えっとね、まんなかの列の通路側だよ。」
峰川「ああ、通路を挟んで隣の席だね。なんか、うちら縁があるのかもね。」
そう言うと、峰川は笑った。笑った顔は、まだあどけない17歳の女の子だった。
峰川「なんか、またあの狭い席で、8時間半だっけ。しんどいよね。おまけに、向こうに着いたら時差ぼけでしょう。」
祐希「あの時差ぼけは、確かにしんどいよな。あんなの、初めて経験したよ。おまけに、同じ日をもう一回過ごすっていう。」
峰川「そうそう。あれって、わけがわからないよね。もう一回、金曜日かよーって。」
祐希「でも、峰川さんは慣れてるでしょ。」
峰川「そんなことないよ。そんなに頻繁に飛行機に乗っているわけじゃないしね。」
祐希「そうなんだ。」
峰川「基本的には、飛行機って好きじゃないの。でも、アメリカに住んでいて、飛行機に乗らないってかなり難しいんだよね。特に私みたいに、海外に親族がいるとね。」
祐希「なんか、西海岸と日本では、人が普通に活動している時間が全くかぶっていないよな。」
峰川「そうなのよ。だから、日本に友達とかできても、普通に電話もできないのよ。」
その活動時間が全く重なっていないのは、祐希にとってはかなりの懸念事項だった。とはいえ、時差をどうにかすることも不可能なため、何かしら日本側と緊急時の連絡をどうするかは考えなければいけないとは感じていた。
峰川と話をしているうちに、搭乗が開始された。祐希は峰川と列に並び、搭乗ゲートを通過した。その後、飛行機に乗り込み、席に着席した。峰川が言っていたとおり、通路を挟んだ窓側の3列の座席の通路側に峰川が座った。
峰川「なんか憂鬱だな。」
通路の反対側から峰川が話かけてきた。祐希の座っている、真ん中の4人の列には、祐希以外誰も乗り込んでこないようだった。
祐希「なんか、俺の隣の席は空いているみたい。こっちに移る。」
峰川「あ、そうだね。移るよ。」
そう言うと、峰川は座っていた席を立ち、祐希の隣の席に移ってきた。機内は、ところどころ空席もあり、満員というわけではなかった。乗客全員がようやく席につき、機内のざわざわした雰囲気が徐々に静かになっていった。その後、いつものとおり、救命用具の説明が始まり、添乗員も席についた。その後、大きな機体はゆっくりと動き出した。しばらく滑走路を走り、離陸のための滑走路の端に出たようだった。機体はゆっくりとメイン滑走路の中央に出て、徐々にエンジンの出力を上げつつあった。その後、機体は前に向かって、走り出し、どんどんと速度を上げていった。そして、その後ふわりと機体が浮いたあと、無事に離陸を終えた。
機体の中は、まだ高度を上げるため、機体が斜めになっており、全員が着席をしていた。そのうち、機体は上空の雲を突き抜け、一路北東の方角へと飛び去って行った。まずは、北海道東方沖を目指す方角に向かった。飛行機が自動運転に切り替わり、高度も安定したところで、安全ベルトのランプが消えた。気圧の変化のため、耳がおかしくなりそうになり、祐希は何度も耳抜きを行った。耳抜きが上手くできない幼児が泣いている声が聞こえた。確かに、耳抜きをしないで飛行機に乗り続けるのは、かなり不快だと思うが、幼児にはそのやり方がわからないのである。母親が懸命に幼児にミルクを飲ませて、なんとか耳抜きができるようなだめていた。
峰川「小さい子は、かわいそうだよね。耳が痛いんだろうね。」
祐希「そうだよな。あんな小さい子に、耳抜きって言っても、まだ理解できないだろうしね。」
峰川「この狭い空間で、8時間かー。つらいね。」
祐希「まあ、俺はこれを我慢したら、当分の間飛行機には乗らなくていいから。」
峰川「私もそうよ。当分、飛行機はいいわー。」
そのうち、峰川は以前と同じように、ヘッドホンを着けて音楽を聴きながら眠ってしまった。祐希も、ヘッドホンで機内の自席の小さなスクリーンで映画を見ていた。面白い映画は前回のフライトで全部見終わっていたので、自分の好みに合う映画はほとんど残っていなかった。
祐希もそのうち、だんだんと眠くなってきた。すでに、数時間は経過していたが、彼には何時間くらい経ったのか、まったくわからなかった。3時間のような、5時間のような、そんな時間間隔だった。機内の前方のスクリーンには、飛行機の現在の位置が出ていた。飛行機は、アリューシャン列島の、西南方向の海域を飛んでいるようだった。なにか、そのスクリーンを見ていると、自分が見ているものが、現実なのか夢なのかわからないような感覚に襲われた。
どれくらい時間が経過しただろうか。ふと祐希が目を覚ました。相変わらず機内は、ゴォーという機内特有のあの不愉快な音が響いていた。隣の席を見ると、峰川がヘッドホンを着けたまま、静かに眠っていた。客室乗務員が機内を一定間隔で歩いて見てまわっていた。
その時だった、いきなり機体に大きな衝撃が加わった。乗客でも容易に感じ取れるほどの、大きな衝撃だった。機内は一気に騒然となった。そして、機体がどんどんと高度を下げているのが体感でわかった。機体が落ちていく感覚が尋常ではなかった。そして、席の上のほうから、黄色いマスクが一斉に下がってきた。祐希には、一体何が起きているのかわからなかった。客室乗務員が何かを叫んでいるのだが、その声が全く耳に入ってこない。すぐに峰川の方を見ると、おびえたような顔をしていた。彼女が必死に何かを言っているのだが、祐希には全く聞こえなかった。峰川が黄色いマスクを着用するのを見て、ふと我にかえった。そして、祐希もマスクを着用した。客室乗務員が大声で何を指示していた。祐希は、少し冷静さを取り戻した。
客室乗務員「前かがみになって、両手と頭を前の席に。」
ほとんど命令口調になっていた。飛行機の揺れで、乗務員の一人が吹っ飛ばされた。機内には、悲鳴がとどろいた。
客室乗務員「歯を食いしばって。衝撃に備えて。」
峰川もその指示に粛々と従っているようだった。窓から見る外は真っ暗だった。再度、客室乗務員の声が聞こえた。
客室乗務員「衝撃に備えて。」
ほとんど悲鳴に近い声だった。機内では、あちこちで悲鳴が怒声が響き渡っていた。そして、またしても機体に大きな衝撃音が響き渡った。祐希は心の中で、もうやめてくれと叫んだ。人が死に向かうときに、どんな気持ちになるのか、その時生まれて初めて感じていた。そこにいる誰もが、客室乗務員でさえ、一体機体に何が起きているのかわからなかった。ただ、明らかな事実として、機体が大きく損傷していることと、高度がどんどん落ちていることだけはわかった。外は、太平洋の北の端のアラスカ沖の海である。落ちて、海に放り出されれば、おそらく命はないと思えた。いくら、7月とはいえ、海水は相当冷たいであろうことは、容易に推測できた。
祐希の頭の中では、この事態に至るまでの出来事が逆回りで、頭の中に映像としてよみがえってきた。そうだ、子供の名前さえも決めないまま、俺は死ぬのだろうか。子供の性別も知らないまま、俺は死ぬのだろうか。祐希はどんどん冷静さを失い、再びパニックになっていった。そして、次の瞬間、大きな衝撃とともに、体がシートから放り出されてしまった。その後のことは、全く感覚がなくなっていた。自分はいったいどうなってしまったのだろうか。自分が生きているのか、死んでいるのかさえわからなかった。
祐希は真っ暗な空間にいた。というよりか、真っ暗な空間の中にいることに気が付いたと言ったほうが正確かもしれない。真っ暗で、しかもひんやりと冷たい空間だった。そして、体がゆっくりと下降していくのを感じた。それは、明らかに高いところから落ちるような速度ではなかった。だがしかし、彼の体はゆっくりと下降していっていた。声を出そうとしても、声が出なかった。周囲を見渡しても、漆黒の闇しか見えなかった。いや、目を開けているのか、閉じているのかさえわからなかった。とにかく、周囲は真っ暗闇だった。そこからなんとか出ようと手足を動かし、もがいてみたが、全く意味のない行為に思われた。誰か助けてくれと叫びたいのだが、声が全く出ない。周囲は寒々としているのだが、体中から汗が噴き出しているのが感じられた。一体、俺はどこにいるのだろうか。
千波「祐希、大丈夫。祐希、起きて。」
千波が激しく祐希の体を揺さぶっていた。祐希はようやく目を覚ました。体中から嫌な汗がじっとりと噴き出していた。部屋の中はほどよく空調が効いており、決して暑いというような環境ではなかったが、汗まみれで、しかもものすごく喉が渇いていた。
祐希「千波、ここは。」
千波「上野のホテルだよ。すっごいうなされてたよ。ちょっと待ってて、お水持ってくるから。」
千波はそういうと、冷蔵庫に入っていた、ボトルの飲料水を持ってきてくれた。祐希は、そのボトルの水を一気に飲み干した。
千波「どうしたの。なんか、悪い夢でも見たの。」
祐希「今、何時なの。」
千波「えっとね、夜中の3時半だね。大丈夫、汗びっしょりじゃんか。」
祐希「夢見てた。なんか、すっごい変な夢。」
千波「嫌な夢だったんじゃない。すごいうなされていたよ。」
千波はそう言うと、優しく祐希の頭を胸に抱き寄せた。千波は何かあると、祐希の頭を胸に持っていき、両手で抱きしめるのである。
千波「落ち着いた。」
祐希「うん、ありがとう。千波って時々俺の母親みたいになるよな。」
千波「でも、間に合ってよかった。あともう少し手遅れだったら、祐希はアラスカの海の底に沈んでいたよ。」
千波は祐希の目を見ながら言った。




