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第59章 橘千波 その2

 週末はそのまま千波の実家に泊めてもらった。そして、週明けには長野市役所に行き、婚姻届の用紙をもらってきた。


 千波「婚姻届けの紙って枠線が茶色なんだね。なんかテレビとかだと、離婚届とかをよく見るから、緑色かと思っていたわ。」


 祐希「俺も初めて知ったわ。ちょっと見てよ、これさ、証人の欄があるぞ。しかも2人じゃんか。」


 千波「おおー、本当だ。これって誰に頼めばいいの。」


 祐希「誰でもいいんじゃない。山下か円山に頼んでみるか。」


 千波「山ちゃんか、円じゃあ頼りないわよ。」


 祐希「いや別に頼り甲斐は求めてねえだろ。」


 千波「じゃあ、私は佐々木さんか大谷さんに頼もうかな。」


 祐希「じゃあ、俺の友人からひとり、千波の先輩からひとりってことで。」


 千波「じゃあ、祐希の記入欄を書いておいて。明日はこっちの職場に挨拶に行くんでしょ。」


 祐希「ああ。富永さんとかにも報告したいしね。」


 千波「じゃあ、明日、会社で証人欄を書いてもらおうよ。」


 祐希「そうだな。」


 翌日は久しぶりに長野事業所に出社した。千波は普通に出勤するようだった。千波は今日中に佐々木さんか大谷さんから証人の署名をもらうと言っていた。会社に到着し、千波は彼女が所属している製造部に向かった。元の職場に顔を出すと、相変わらずの同じメンバーが揃っていた。


 富永「おお、橘、今日はどうした。」


 祐希「いや、長野に来る用事があったんだ、みなさんにもご挨拶と思いまして。」


 竹内「祐希、アメリカ行ったんだってね。」


 須山「ねー、アメリカどうだったの。」


 祐希「行ってきましたよ。大学の面接行きましたよ。」


 富永「で、どうだった、面接は。」


 祐希「まあ、なんとかこなしましたよ。」


 富永「お前、宮下部長のところにも顔出して来いよ。」


 祐希「ええ、もちろんです。」


 祐希は総務部に行ってみた。池田が祐希に気が付いて、すぐに話かけてきた。


 池田「橘君、どうしたの。」


 祐希「池田さん、ご無沙汰しております。」


 宮下「おお、橘、どうだった面接は。」


 祐希「はい、なんとか。」


 池田「すごいねー。だって、面接って英語でしょ。」


 祐希「もちろん英語ですけど、いろいろと東京で英語のトレーニングもさせてもらえましたから。」


 宮下「そうか、無事合格しているといいけどな。」


 祐希「まあ、自分としては、やりきりましたから。」


 池田「ところで、沢田さんと籍入れるんだってね。」


 祐希「ええ、婚姻届はもう書きましたよ。あとは、証人の欄の記入を誰かに頼んでから、提出するだけです。」


 宮下「もう証人になってもらう人は決まっているのか。」


 祐希「ええ、一応、同期の山下に頼もうかと思って。あれって、独身者でも問題ないですよね。」


 池田「問題ないはずよ。私も姉の婚姻届の証人欄に記載したことあるけど、まだ独身だしね。」


 祐希「なるほど。じゃあ、問題なさそうですね。」


 祐希は大森にも挨拶したかったのだが、その日は東京本社に出張中とのことだった。婚姻届の用紙は千波が持っているはずなので、とりあえず山下に証人欄の依頼だけはしておきたかった。ちょうど、そろそろ昼休みになる時間だったので、山下の職場に行ってみた。


 祐希「おい、山下。」


 山下「おう、祐希。今日はどうした。」


 祐希「もうすぐ昼休みだろ。メシ行こうぜ。」


 山下「いいよ。たまには、外で食べるか。」


 普通は会社内の大食堂で食べるのだが、会社の周囲にも何件かの飲食店があり、時々外の店で食べることもあった。ただ、年の若い社員はそれほど給料も良いわけでもないので、あまり外食をすることはなかった。


 祐希「そうだな。会社の前の洋食屋に行くか。」


 山下「じゃあ、ちょっと早いけど行こうか。」


 祐希は山下のあとに続いて、会社の正門から外に出た。


 祐希「円山の髪型はその後どうなん。」


 山下「あいつな、先週丸坊主にしたよ。もうパンチパーマはリセットだって言っていた。」


 祐希「まあ、あれも一時のノリだったからな。」


 山下「それで、長野に来たのは、あれか沢田さんの件か。」


 山下はおおよその祐希の行動は把握しているようだった。


 祐希「ああ、一応な、千波のご両親には会ってきて、入籍は認めてもらえたよ。」


 山下「そうか、それは良かった。で、婚姻届は出したのか。」


 祐希「いや、実はお前に証人になってもらいたい。」


 山下「証人ってどういうことだ。式でも挙げるのか。」


 祐希「いや、実は俺も知らなかったんだけど、婚姻届には2名分の証人欄があるんだけど、知ってたか。」


 山下「いや、そんな婚姻届なんか見たこともねえよ。」


 祐希「お前、婚姻届の色知っているか。」


 山下「緑じゃないのか。」


 祐希「そう思うだろ。実は、白地に茶色の枠線と字が書かれているんだよ。」


 山下「そうなの。」


 祐希「緑色は離婚届の色らしい。なんか、テレビでよく見かけるのが、離婚届が多いから、そういう勘違いが生じるんだよな。」


 山下「なるほど。」


 昼食を食べることになった洋食屋に入り、2人用のテーブル席についた。山下はハンバーグ定食を、祐希は豚生姜焼き定食を頼んだ。


 祐希「で、お前に証人欄を書いて欲しいんだけど。」


 山下「それって、俺みたいな独身者でもいいのか。」


 祐希「なんか、総務の池田さんが大丈夫だって言っていたけどな。」


 山下「まあ、俺はいいけど、本当に俺でいいのか。」


 祐希「まあ、千波も山下に頼みたいって言っているからさ、頼むよ。」


 山下「まあ、いいけど。それで、その婚姻届はどこにあるの。」


 祐希「今、千波が持っている。多分、ソフトボール部の先輩に証人欄を頼むって言っていたから、もう一人目の枠は埋まっているかも。」


 間もなく、ランチが運ばれてきた。店内には、かなり客が入っていたが、そのほとんどが同じ会社の人たちだった。


 祐希「明日、婚姻届を出してから、東京に戻りたいから、今日中に頼むよ。あ、印鑑押すところがあるから、印鑑持ってきてよ。」


 山下「わかった。寮に印鑑があるから、会社が終わったら取ってくるわ。じゃあ、どうしようか。ところで、お前はどこに泊っているんだよ。」


 祐希「今は、千波の実家だよ。」


 山下「じゃあさ、今晩、沢田さんも誘って、メシでも行こうよ。そこで、署名ってことでどうだ。」


 祐希「わかった。何時にどこで会う。」


 山下「豚汁屋に午後7時でどうだ。」


 ということで、その日の夜は、千波の運転でいつも週末に行っていた、豚汁定食の店に行くことになった。祐希は昼食をとったあとは、元の職場に戻って、業務の手伝いをしていた。定時を少し過ぎた時間に、千波が祐希の元の職場にやってきた。千波は富永以下、そこの課員に挨拶をしていた。その後、祐希と千波は会社の外に出た。


 祐希「今日さ、豚汁屋で山下と会うことになった。そこで、あいつが署名してくれるってさ。」


 千波「あ、そうなの。じゃあ、家に電話しないと。多分、うちのお母さん、晩御飯の用意しているかも。」


 千波は急いで、会社前にある電話ボックスに入り、実家に電話をしていた。すぐに、電話を終わらせて、ボックスの外に出てきた。


 千波「じゃあ、今日中に証人欄は埋まるから、明日には提出できそうね。私は、明日はお休みとっているから、市役所に行こう。」


 祐希「ああ、いよいよだな。まだ、この時点では沢田千波だけど、明日の今頃は橘千波になっているってことか。」


 千波「姓名判断的にはどうなるんだろうね。」


 祐希「さあね、どうだろうか。」


 千波「まあ、もうこれは決定事項だしね。」


 千波の運転で、例の豚汁屋に行った。午後7時に待ち合わせだったが、午後6時過ぎには到着してしまった。おそらく、野口さんも来ることを前提として、店側には4人用のテーブルを用意してもらった。平日の夜ということで、いつもよりは空いていた。


 祐希「千波が飲みたいなら飲めば。帰りは俺が運転するよ。」


 千波「いや、一応、妊娠中なので、やめておくよ。祐希は飲んでいいよ。」


 祐希「そうだな。お前、妊娠中だもんな。ところで、婚姻届見せてよ。」


 千波は持っていたカバンからクリアケースに入った、婚姻届を出してきた。証人欄には、きれいな字で大谷さんの名前が記載されていた。


 祐希「あれ、佐々木さんに頼むんじゃなかったの。」


 千波「それがさ、今日佐々木さん会社を休んでいてね。なんか、体調崩しているみたい。」


 祐希「ああ、それで大谷さんなんだね。」


 千波「そうそう。でも、大谷さん喜んでいたよ。一回、婚姻届の証人欄を書いてみたかったんだってさ。」


 祐希「なんか、軽いノリだなー、大谷さんは。」


 千波「で、山ちゃんはちゃんと印鑑持ってきてくれるのかな。」


 祐希「ああ、それは説明しておいた。多分、印鑑をとりに、寮に戻っているんじゃないかな。大谷さんはよく印鑑持っていたね。」


 千波「なんか、いつも持ち歩いているみたい。」


 祐希「そうなんだ。女の人のカバンってさ、なんかいろんなもん入っているよな。」


 千波「そう。必要なものしか入っていないわよ。逆に男の人って外出するのに、カバンも持たずに手ぶらっていうのが信じられない。」


 祐希「だって、財布、部屋と車のキー、ハンカチ、それだけだよ。それ以外に、何を持ち歩くんだよ。」


 千波「まあ、化粧品とかいらないもんね。いいなー、男は楽でさぁ。」


 店に入り、祐希はおつまみとビールを頼んだ。千波は冷たいお茶を頼んでいた。ビール、お茶、そして枝豆はすぐに運ばれてきた。山下が来るまで、とりあえずそのまま待つことにした。


 祐希「なんか、一人で飲むのは、ちょっと寂しい気もするが、仕方ないか。」


 千波「でも、山ちゃんも飲めないんじゃない。山ちゃんの運転で来るんでしょ。」


 山下は祐希から譲り受けた、CR-Xに乗っていた。車を入手したあとに、ずっと乗っていたバイクは知り合いに売ってしまったようだった。午後7時少し前に、山下が野口と円山を伴って店に入ってきた。


 山下「おう、早かったな。」


 祐希「円も来たのか。ちょっとテーブル狭いかもな。席うつるか。」


 円山「ああ、じゃあ、俺が店の人に言ってくるわ。」


 そのうち、円山が店の女性と一緒に戻ってきた。そして、店の奥のほうにある、6人用テーブルに移動させてくれた。話には聞いていたが、円山は丸坊主になっていた。


 祐希「パンチパーマは卒業かい。」


 円山「なんかさー、もう誰も俺のパンチパーマに反応してくれなくなってさ。リアクションが無いと、なんか一人空回りしているみたいなんだよな。」


 山下「確かにな。もうみんな見慣れちゃってたもんな。」


 祐希「今日は誰の運転で来たの。」


 野口「あ、私です。私が山ちゃんと円山さんを送っていくので、大丈夫です。」


 円山「沢田さんは飲まないんですか。」


 祐希「実は、千波のお腹に赤ちゃんがいてさ。」


 野口「ええー、そうなんですか。おめでとうございます。」


 山下「まじか、お前がパパになるの。ちょっと展開速すぎねえか。」


 円山「確かに、なんか祐希の周りだけ、物事が3倍速くらいで進んでいるような気がする。」


 千波「円は大袈裟だなー。」


 祐希「ということで、千波はしばらくは断酒するそうです。」


 山下「するそうですって、沢田さんひとりのことじゃねえだろ。」


 円山「そうだよ、お前それは他人事みたいで良くねえぞ。」


 千波「いいよねー、男の人は、ぴゅって出すだけだもんね。女はそういうわけにはいかないからね。」


 円山「お前、ぴゅって出したんか。このエロおやじ。」


 祐希「エロおやじは言い過ぎだろう。俺の場合は、どびゅーって出しましたよ。そんな、ぴゅなんてかわいいものではないよ。」


 野口「それ、どうでも良くないですか。でも、そっかー、千波さんはお母さんになるわけですね。」


 その後、酔っぱらう前に、山下に婚姻届の証人欄に署名してもらった。彼はちゃんと忘れずに印鑑も持ってきていた。


 山下「よし、これでいいだろ。」


 千波「山ちゃん、ありがとう。これで、明日提出できるね。」


 円山「じゃあ、今日は沢田千波として過ごす最後の夜ですね。かんぱーい。」


 乾杯したあと、千波は婚姻届の紙を大事そうにクリアファイルに入れて、カバンの中にしまった。明日は、長野市役所に行って、二人で提出する予定である。そして、明日は水曜日である。明日は、市役所に行ったあと、そのまま長野駅から川崎にある寮に戻る予定である。


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