第55章 アメリカへの道 その1
正月休みはかなりゆっくりできた。しかも、長野でも福井でも時間を過ごせたのは、祐希にとっては貴重だった。もう来年からは、そんな時間を持とうと思っても、持てないと思われるからだ。年が明けて、また東京に人々が戻ってきた。街はまた活気を取り戻し、束の間の静寂は跡形もなく消え去って行っていた。
新井「年末年始は東京で過ごしたんだけど、びっくりするくらい人がいなくてさ。しかも、都心も結構静かだったよ。」
祐希「まあ、結局、東京ってところは、地方からの人たちがそれだけ多いってことなんだよな。うちらもそうだけど。」
新井「しかし、冬の東京のビル風ってかなり強いし、寒いよな。」
祐希「ああ、あれは応えるわ。それにしても、なんで太平洋側ってこんなに天気がいいのかね。」
新井「だよな。冬の日本海側なんか、ずっと曇りだもんな。」
祐希「言えてる。同じ日本とは思えないくらい天気が違うな。」
新井「寛子なんか、こっちしか知らないから、冬はずっと曇っているっていうのが信じられないみたいだわ。」
祐希「でも、やっぱり東京って、北陸に比べたら暖かいよ。多分、セーター1枚分くらい暖かいって思うね。」
新井「そうだな。で、お勉強はどうなん。」
祐希「読み書きはもうほとんど問題ないけど、やっぱり会話がむずいわ。」
会社の食堂で2人は食事をしながら話をしていた。すでに、日本全体が正月気分から抜けてはいたが、依然として天皇陛下の容体は悪くなる一方だった。
新井「天皇陛下ってさ、亡くなったら、どうなるんだろ。」
祐希「天皇陛下だって寿命はあるよ。でも、なんか日本の大黒柱が無くなるような感じだよな。いるときは、何も感じないんだけど、こういう事態になると、なんか精神的な支えが無くなるような気がしてくる。」
新井「確かに。この国にとっては、やっぱり大きな父親みたいなところがあるしな。」
祐希「上手く言えないけど、うちらって心のどこかで陛下の存在に支えられているっていうか。」
新井「まあ、俺は日本国籍ではないけど、でもやっぱりこの国に生まれて、この国で育ってきたから、日本という国が好きだよ。」
その数日後に、昭和天皇が崩御された。もうすでに国民にはある程度の覚悟はできてはいたが、やはり衝撃的なニュースだった。日本全国が深く悲しみに包まれた、長い一日になった。そして、時代は平成という新しい時代に移っていった。
祐希は、毎日決められたスケジュールで黙々と自分のやるべきことをこなしていた。午前中は青柳とともに設計業務に追われた。二人ともかなり仕事のペースも早く、しかも正確な作業をしていたため、職場の評判も上司からの評価も高かった。そして、午後になると祐希は英語学習のために、杉下のいる学校に通っていた。
杉下「もう、英語力は十分すぎるほどね。会話がもう少しスムーズにできると更にいいけど、まだ時間はあるから、焦らずにいきましょう。」
祐希「どこか、英語の書籍とか借りられないでしょうか。」
杉下「橘君は、職場が品川区だから、品川区の図書館のカードを作れるはずよ。」
祐希「品川区の図書館に、英語の本があるってことですか。」
杉下「まあ、冊数は限られるけど、あるはずよ。図書館で司書の人に聞いてみたら。」
祐希「なるほど。一度行ってみます。」
杉下「ああ、ちなみに品川駅の住所は、品川区じゃないから。会社の住所はちゃんと確認してね。」
祐希「ああ、そうか。確か、名刺の住所は港区だったかも。」
杉下「じゃあ、港区の図書館だね。あと、住所が川崎なら川崎市の図書館も使えるはずよ。」
祐希「ありがとうございます。」
祐希は、それから定期的に港区の図書館にも通うようになった。いろんな本があり、他の図書館にある本の取り寄せとかもできた。英語の本は確かに冊数は限られていたが、それなりに蔵書があるようだった。とりあえず、読みやすそうな薄い本を、図書館の人に選んでもらった。毎日、少しづつではあったが、英語の本を読み進めた。毎日呼んで行く週間をつけることによって、語彙の数も増えてきたし、なんといっても読む速度がどんどん上がっていった。大学では、ものすごい量の本を読まなければいけないと聞いていたので、速読のスキルは必須とのことだった。
毎月、隔週で週末には千波に会いに長野に行ったり、千波が東京に来たりしていた。千波と一緒にいるときだけは、英語のことを忘れるようにした。時には、新井と森と4人で食事をすることもあった。そして、恵とも新井と一緒に定期的に交流していた。
あっという間に5月になった。5月には一度渡米して、大学の面接を受けることになっていた。パスポートもビザもとり終え、会社からは航空券が渡された。成田空港からサンフランシスコ国際空港に飛び、その後は現地の駐在員の木下と合流する予定だった。いよいよ、最初の渡米の日が近づいていた。一度、渡米したあと、現地で面接をし、その後いったん日本に戻ったあと、すぐに再度渡米する予定である。その、渡米が最終的な渡米になる予定である。最初の渡米の日は、ちょうどゴールデンウィークの真っ最中だった。成田空港には、千波のほか、会社の人事から伊藤と森が空港に来ていた。その他、新井が祐希の見送りに来てくれた。
祐希「じゃあ、行ってくるよ。今回は面接だけだから、すぐに戻ってくるから。」
もうすでに千波は目に涙を浮かべていた。
千波「私なら大丈夫だから。面接、絶対にうまくいくから。待ってるね。」
新井「祐希、気をつけてな。まあ、俺がいくら心配しても、何もしてやれねえけど。お前なら大丈夫だよ。」
森「頑張ってね。向こうの空港には木下さんが来ているから、彼の指示にしたがってくれれば問題ないからね。」
伊藤「橘、頑張れよ。」
祐希「みなさん、ありがとう。面接頑張ってきます。千波、すぐに戻るから。戻ったら、籍を入れよう。来年の今頃は、二人で暮らしているだろうから、少しの間、辛抱してくれ。」
その時、向こうの方から、山下、円山、野口の3人が走ってくるのが見えた。
山下「祐希、ちょっと待って。」
ようやく3人が祐希のところに来た時には、3人とも肩で大きな息をしていた。
円山「ごめんごめん。道間違えちゃってさ。やっと着いたよ。」
祐希「成田空港に来るのに、道に迷うってありえねえな。」
千波「どう間違えようがあるのよ。」
野口「間に合ってよかった。祐希さん、これ。」
野口が祐希に、神社のお守りを渡した。
山下「どうしても、そのお守りを渡したいって言うからさ。」
祐希「ありがとう。」
円山「沢田さんのことは心配するなよ。うちらがいるから、安心しろよ。」
祐希「でもな、そんな目に涙をためられたら、そりゃ心配するってよ。」
そろそろ出国ゲートに向かう時間になった。祐希は千波と抱擁を交わし、全員と握手したあと、一人出国審査のゲートに向かった。
サンフランシスコ行きの便の搭乗ゲート近くのベンチに座って、搭乗開始の案内を一人で待った。これが人生で初めて乗る飛行機だった。初めての飛行機搭乗の体験が、いきなり太平洋横断である。向こうで木下が待っているということで、それほどの緊張感はなかったが、面接のことを考えると、きりきりと胃が痛くなるのである。間もなく搭乗が始まり、飛行機に乗り込んだ。サンフランシスコ行きの便ということもあり、見た目は全く日本人なのに、英語で会話している人たちも多かった。中には、祐希と同じくらいの年齢で一人で搭乗する者もいた。ここから、約9時間半のフライトだった。今日は火曜日だったが、向こうに到着したら、再度火曜日を経験することになるらしい。なんだか、不思議な感覚だった。
席に着いた。祐希は真ん中の4列の席の通路側の席だった。しばらくすると、祐希の隣の席の人がやってきて、席についた。祐希は、飛行中に読もうと思っていた本をカバンから取り出し、あとの荷物は頭上の収納棚に収めた。まだ、搭乗する人たちが通路を順番に入ってきていた。祐希は安全ベルトを閉め、離陸を待った。となりの席に座ったのは、祐希と同じくらいの年齢の若い女性だった。ただ、見た目は日本人のようだったが、国籍や言語はわからなかった。その女性は、祐希が日本語の本を持っているのを見て、日本語で話しかけてきた。
女性「あのう、おひとりですか。」
祐希「ええ、ひとりです。あなたは。」
女性「ええ、私も一人です。」
祐希「日本の方ですか。」
全くクセのない日本語の発音だったため、ほぼ日本人であることは間違いなかった。
女性「ええ、まあ、そうですね。」
祐希「良かった。初めて飛行機に乗るんです。海外に行くのも初めてで、少し緊張していたものですから。」
女性「そうだったんですね。私は実家に戻る途中なんです。」
祐希「実家ですか。アメリカに実家があるんですか。」
女性「ええ。日本の大学に入学するつもりで、大学の見学に来ていたんです。」
祐希「じゃあ、国籍はどちらになるんですか。」
女性「日本とアメリカです。でも、中身は日本人なんです。」
祐希「そうでしたか。ああ、俺、橘祐希っていいます。」
女性「峰川スズです。」
祐希「峰川さんは、日本の大学に進学されるんですか。」
峰川「いや、まだ決めていないんですよ。アメリカの大学にしようか、日本の大学にしようか迷っていて。」
ようやく乗客の全員が席につき、先ほどまで騒がしかった周囲の様子も落ち着いてきた。その後、避難用具の装着の仕方などの説明があったあと、スチュワーデスが全乗客のベルトのチェックをして回った。そして、この大きな機体がゆっくりと動き出した。
祐希「なんか、どきどきしますよ。こんな大きな金属のかたまりが空を飛ぶんですもんね。」
峰川は少し笑った。
峰川「でも、生まれて初めての飛行機で、いきなりアメリカっていうのも、すごいですね。お仕事ですか。それとも、学生さんですか。」
祐希「大学の入学のための面接に行くんです。」
峰川「サンフランシスコに向かっているってことは、どこの大学ですか。バークレーとか、スタンフォードとかだと有名ですよね。」
祐希「スタンフォードです。でも、行ったことないんで、どんな大学だかわからなくて。」
峰川「私も、スタンフォードにアプライしました。まだ結果の通知は受け取ってませんが。」
祐希「そうなんですか。でも、日本の大学も見に行ったんですよね。」
機体は滑走路の一番端のところまで移動し、離陸用滑走路の一番端に出た。いよいよエンジンの出力を上げて、加速し、その勢いのまま離陸をするのである。機体がどんどんとスピードを上げて、滑走路を走っていった。そして、そのうちふわっという感覚があったあと、窓からの景色がどんどんと地上から遠ざかっていった。機体が離陸したのを待って、峰川が再び話し始めた。
峰川「ええ、うちの母が日本の大学も見てきたらって言うものですから。」
祐希「そうですか。峰川さんはどっちの大学に行きたいんですか。」
峰川「迷ってます。どっちも良さそうだなって。」
祐希「そっかー。僕は日本の大学には行ってないから、あんまりアドバイスとかできないですね。」
峰川「じゃあ、アンダーグラデュエイト(学部)からスタンフォードに入るんですね。」
祐希「そうですね。まあ、普通は大学は日本で、大学院からアメリカって人が多いみたいですけど、まあいきなりアメリカの大学ですね。」
峰川「なるほど。」
祐希「実は、僕は会社員なんですよ。会社から派遣されて、会社の費用負担で行かせてもらえることになって。」
峰川「すごいじゃないですか。それって、選抜の試験とかがあるんじゃないですか。希望者が全員行けるわけじゃないですよね。」
祐希「ええ、なんか僕の知らないところで選抜が行われていたようで、いきなり行かないかって聞かれて。」
峰川「カリフォルニアはいいところですよ。気候もいいし、のんびりしているし。」
祐希「実際、どんなところかさっぱりわからないですね。初の海外ですし。」
峰川「あとで、私の電話番号を渡しますよ。向こうで時間があったら連絡くださいよ。わからないことがあれば、私でもお役にたてるかもしれないし。」
祐希「ありがとうございます。」
飛行機は大きく旋回した後、太平洋を北東方面に向かった。飛行機は北海道の東側を通過し、カムチャッカ半島の南東を通ったあと、アリューシャン列島の南側を東方向へ進んでいった。地球が球体のため、そのルートが一番距離が短くなる航路となるのである。すでに、日本時間だと夕食の時間くらいのはずである。機内では機内食が配られ、狭い座席のテーブルに機内食を広げて食事を行った。機内食は、とくに美味しいものでもなく、腹が満たされればいいような食事だった。だが、これを食べておかないと、あとでお腹が空いても、他に食べるものもないのである。
飛行機に乗っている時間は、祐希にはものすごく長く感じられた。峰川は食事のあとは、耳にヘッドホンを当てて目を閉じていた。眠っているのか、起きているのかわからなかった。良く見ると、薄い化粧はしているものの、まだあどけなさが残っている少女と女性の中間のような顔をしていた。
サンフランシスコ国際空港に到着したのは、現地時間の午前だった。そして、再び火曜日だった。火曜日を2日間連続で経験するのは、なんだか不思議な感覚だった。峰川は飛行機から降りる際に、祐希にアメリカの自宅の電話番号を書いたメモを渡してくれた。
峰川「私、またすぐに日本に行く用事があるの。もし時間が会えば、日本でも会わない。」
祐希「まあ、そんなに上手くいくかどうかだね。とりあえず、スケジュールが決まったら、連絡するよ。」
峰川「ところで、祐希君はいくつなの。」
祐希「21歳。君は。」
峰川「私は、17歳なの。4歳もお兄さんなんだ。」
祐希「17歳って大学に入れる年齢なの。」
峰川「高校は飛び級したからね。」
入国審査のあと、預け荷物を受け取って、空港の出口に出た。あらかじめ待っていた木下が声をかけてきた。
木下「橘君、こっちこっち。」
祐希は峰川に声をかけた。
祐希「じゃあ、また連絡するから。」
峰川「ねえ、私もスタンフォードにしようかな。」
祐希「でもまだ通知は受け取っていないんだよね。」
峰川「大丈夫よ。もし、うちのお父さんが寄付金を約束すればだけどね。」
祐希「なるほどね。」
初めてのカリフォルニアの太陽は、眩しすぎて眩暈をしそうになった。太陽は高い位置にあるのに、時差の関係でやたらと眠かった。日本時間だと、夜中の2時ごろである。祐希は、腕時計の針を現地時間に合わせてから、木下と一緒に車のあるところまで歩いた。
木下「橘君、ようこそカリフォルニア州へ。」
祐希「よろしくお願いします。」
木下「とりあえず、食事に行こうか。メキシコ料理って食べたことあるか。」
祐希「いやないです。どんなものかも知らないです。」




