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第50章 東京初心者物語 その1

 毎朝、川崎駅までの路線バス。そこから川崎駅に入り、品川駅で降車。そして、徒歩15分あまりで本社ビルである。雨の日も風の日も、同じルートを通勤で通う。祐希は、とにかく満員電車が辛かった。かといって、川崎駅から職場まで毎日歩くのも、ちょっと無理がある。すごく頑張れば歩けそうな気もするのだが、そうなるとかなり早朝に寮を出なければならない。とにかく、この人混みが本当に苦手だった。


 会社に到着したら、まずは設計2課の自席に向かい、午前中は設計業務にあたった。設計の仕事自体は、青柳の的確な指導もあり、わりとすんなりと覚えることができた。


 青柳「橘君って、あっという間に仕事を覚えちゃったね。もう、私から教えることってほとんどないもんね。」


 祐希「青柳さんの教え方が上手かったんですよ。すごいわかりやすいし。ありがとうございます。新しい仕事を覚えることができました。」


 午前中の業務が終わると、会社で昼食をとった。昼食時間はちょうど新井と同じシフトだったので、ほとんど毎日彼と食べていた。そこに、森と青柳がまざってくることもあった。まだ、小さいながらも、祐希は新しい人間関係を構築しつつあった。


 新井「それで、その長野の彼女とは会っているの。」


 祐希「まあ、交通費もそれなりにかかるから、毎週ってわけにはいかないけどね。」


 新井「そうだよな。電車代だって結構するだろ。」


 祐希「あ、そうだ、森さんってさ、すごい能力あるんだよ。」


 新井「そうなん。」


 祐希「あの人さ、俺に1歳年上の彼女がいるって、一発で言い当てたんだよね。」


 新井「たまたまだろ。」


 祐希「なんか、わかるんだって。匂いで。」


 新井「それじゃあ、お前の体から、『僕には1歳年上の彼女がいます』って匂いがしているってことか。ありえねえよ。」


 祐希「いや、そういうんじゃないって。」


 新井「女の勘ってやつか。」


 祐希「そうそう、それだよ。女の勘って、案外すごいと思うよ。」


 新井「なんで。」


 祐希「俺がさ、最初の東京出張から長野に戻ったときに、彼女に最初に言われた一言が何だかわかるか。」


 新井「『ところで、東京の女にたらしこまれてないでしょうね。』とかか。」


 祐希「お前なんでわかるんだよ。そのまんまだよ。」


 新井「そんなのカマかけてるんだよ。お前の様子を観察しているんだよ。よくある手じゃないか。」


 祐希「そうかー。確かに、それも一理あるな。」


 新井「そこで動揺したら、お前の負けなんだよ。そのあと、何か言われたか。」


 祐希「『まあ、いいわ。』って。」


 新井「うわ、それは間違いなく、何かを感じ取っているね。」


 祐希「いや、怖えな、女って。」


 新井「ところで、恵が会いたがってたぞ。お前の電話番号教えてもいいだろ。」


 祐希「いいよ。今度、3人で飲みに行くか。」


 新井「いいねー。ミニ同窓会。」


 祐希「お前も成人式来ればよかったのに。」


 新井「いや、あんまり田舎にはいい思い出ないからな。」


 祐希「そっかー。でも、久しぶりにうちら6人揃ったんだよな。」


 新井「最強6人衆だったもんな、お前らは。俺は、お前らがうらやましかったよ。なんか、お前らは本当に最強だったもんな。」


 祐希「まあでも、みんな大人しくなったぜ。」


 新井「そうかー。恵なんか、何も変わってないけどな。」


 そして、昼休みのあと、一度自席に戻り、品川駅近くにある英語学習の学校に通うのである。そこには、バイリンガルの日本人女性が働いており、その人とアメリカ人の男性講師2人が祐希の担当だった。日本人の女性の名前は、杉下さんといい、年齢は20代後半くらいだった。アメリカ人の男性講師は、マイクという40代の白人男性だった。杉下さんは、主に文法や語彙力、読解力の講義を受け持ち、マイクは会話の講義を受け持ってくれていた。すでに、出張時に受験したトーフルのスコアは出ており、580点という結果だった。だが、入学時に必要な600点まであと少し届かなかった。


 杉下「まあ、600点というのは、最低必要な点数だから、600点を目指してもダメなんだよね。橘君は、もっと取れると思うよ。とりあえずは、あと20点頑張ってみて。」


 祐希「でもなんか、その20点がかなりしんどいような気がしますよ。」


 杉下「そうね。480点から500点までの20点と、580点から600点までの20点だと難易度がかなり違うからね。」


 祐希「まあでも、前回は初めての受験だったので、なんか最初はわけわかんなくて。」


 杉下「まあ、生まれて初めてにしては、580点ってかなり良いスコアだよ。」


 祐希「そうなんですか。」


 杉下「そもそも、500点まで届くのに、何回も受験する人もたくさんいるからね。」


 祐希「杉下さんは、どこで英語を覚えたんですか。」


 杉下「私、生まれも育ちもアメリカなの。親の仕事の関係で、ずっと向こうで育って。」


 祐希「すごいですね。僕なんか、はずかしいんですけど、まだこの年で飛行機も乗ったことなくて。」


 杉下「ぜんぜん、はずかしいことじゃないわよ。まあ、そのうち乗ることになるから。」


 祐希「アメリカのどこに住んでいたんですか。」


 杉下「シカゴって町にいたの。イリノイ州ってところ。アメリカとカナダの間にでっかい湖があるでしょ。これこれ。」


 杉下は、北米の地図を指さして説明を始めた。


 杉下「これが五大湖っていうの。それで、シカゴはここよ。」


 祐希「結構、内陸なんですね。」


 杉下「内陸だと思うでしょ。でもね、シカゴから大西洋に船で出られるのよ。ほら、こう行って、ここの水路を通ると、ほら大西洋でしょ。」


 祐希「おお、本当だ。」


 杉下「シカゴの南側に広がるこの大きな土地はすごい穀倉地帯で、いろんな農作物がとれるの。そして、ここから大西洋まで船で運んで、欧州に輸出するのよ。」


 祐希「なるほど。すごい絶妙な位置にある町ですね。」


 杉下「でしょ。こうやって、シカゴは発展したのよ。」


 祐希「ところで、スタンフォードはどの辺ですか。」


 杉下「そっか、橘君はスタンフォードに行くんだもんね。」


 祐希「ええ、いまいち地理がわからなくて。」


 杉下「この西海岸のここよ。」


 祐希「サンフランシスコの南側ですね。サンホゼのちょっと北側か。」


 杉下「この辺は、アジア系の人たちがかなり多いところよ。」


 祐希「でも、太平洋のあっち側ですもんね。遠いなー。」


 祐希は、あらためてアメリカの遠さを実感した。


 杉下「東京からだと、9時間半のフライトってところね。でもね、逆にサンフランシスコから東京だと、12時間以上かかるのよ。」


 祐希「どういうことですか。同じ距離ですよね。」


 杉下「まあ、偏西風の影響が大きいみたいね。」


 英語学校でのトレーニングは、だいたい毎日午後4時には終わった。その後は、もう自由時間だった。寮に戻って自習をしてもよいし、別に飲みに出かけても、祐希の自由だった。ただ、残業がない分、飲みに行くような給料ももらえなかった。したがって、通常は大人しく寮に戻って、自習を続けた。まだまだ、英語力に磨きをかけたかったのもあった。東京の寮の部屋には自分専用の電話があったが、ほとんどかかってくる電話は千波からだった。


 千波「どう、東京生活は慣れた。」


 祐希「満員電車には、永遠に適応できそうにないわ。まじで、あれはしんどいよ。」


 千波「何、泣き言、言ってるのよ。」


 祐希「ああ、ダメだー。」


 千波「どうせ、たまってるんでしょ。まあ、21歳の健全な男の子だもん、そりゃ普通たまるわよね。」


 祐希「いやもう、やばいね。」


 千波「私がそっちに行こうか。」


 祐希「おう、来てくれ。千波ってさ、東京に親戚か友人とかいなかったっけ。」


 千波「えっとね、従妹がいるわよ。」


 祐希「ホテルに泊まると高いから、従妹の家に泊めてもらうとか。」


 千波「でも、足立区だよ。川崎から結構遠いよ。」


 祐希「あの足立ナンバーのところか。」


 千波「そうそう、足立、練馬、品川のうちの足立ナンバーのところ。」


 祐希「まあ、品川までは定期券で行けるとして、方角は合ってるのかな。」


 千波「いや、私もよくわからない。従妹に聞いてみるわ。」


 祐希「もうすぐ、破裂しそうなので、お願いします。」


 千波「まったく、男って面倒な生き物だよね。」


 そして、千波が東京に来たり、祐希が長野に行ったりして、二人の関係は続いていた。そんなある日、今度は恵から電話がかかってきた。


 恵「祐希。私、わかる。」


 祐希「おお、その声は恵か。新井から番号、聞いたのか。」


 恵「そうそう。川崎にいるんだってね。」


 祐希「そう。会社の寮が川崎なんだよね。職場は品川で。」


 恵「そっかー。東京デビューしたんだ。」


 祐希「まあね。一応、転勤ということになっているけど。」


 恵「新井から聞いたわよ。アメリカに行くんでしょ。スタンフォードって名門じゃない。」


 祐希「そっか。新井から聞いたか。まあ、そういうことなんだよ。だから、ずっと東京にいるわけではないんだよね。」


 恵「じゃあ、ミニ同窓会やろうよ。新井はいつでもいいって。」


 祐希「お前、どこに住んでいるんだよ。」


 恵「文京区。大学が文京区にあるから。」


 祐希「それは、品川から遠いのか、近いのか、俺にはぜんぜんわからん。」


 恵「まあ、微妙に近くはないわね。乗り換えも面倒だしね。私がそっちに行ってあげるよ。わからないでしょ、電車の乗り継ぎとかさ。」


 祐希「ええ、田舎の出なので、全然わかりません。」


 恵「いや、思いっきり同じ田舎やし。」


 祐希「新井も川崎にある別の寮に住んでいるよ。言ってくれれば、うちらが出ていくよ。」


 恵「だって、新井だって今年からでしょ、こっちに住みだしたのは。」


 祐希「まあね、確かにうちら二人ともまだこっちに慣れてないね。」


 結局、週末の金曜日の夜に品川駅で待ち合わせることにした。3人とも、品川周辺の店なんか全く知らなかったが、恵が友人から勧められた店を予約していてくれた。祐希は夕方には英語学校が終わっていたため、品川駅周辺を探検してみた。新井と恵とは、午後5時半にJR品川駅の改札前で待ち合わせをすることになっていた。週末の夕方の品川駅は、人でごったがえしていた。祐希は、少し早めに品川駅に向かったが、まだ新井も恵も来ていないようだった。そのうち、新井がようやくやってきた。


 新井「恵は、まだ来てないの。」


 祐希「わからない。これだけ人が多いと、わからねえよ。」


 新井「祐希はここにいてよ。ちょっと、まわり見てくるわ。」


 間もなく新井は恵と一緒に祐希のところにやってきた。


 恵「ごめん、すぐそこで待ってたんだけど、全然気が付かなかった。」


 祐希「おお、恵、久しぶりだな。成人式以来じゃんか。」


 恵「そうだね。なんか、いつの間にか祐希がすごいことになっているよね。びっくりしたわよ。何、いきなりアメリカ行って大学生になるって。」


 新井「まあ、積もる話はお店でしようや。」


 祐希「そうそう。なんか、ビール飲みたくなってきたしな。」


 恵「そやな。もうこのメンツで飲めるなんて、めっちゃ嬉しいわ。」


 祐希「恵もなんかえらい綺麗になったな。」


 新井「そうなんだよ。えらいあか抜けてきたっていうかさ。」


 恵「そやろ、ええ女になったやろ。惚れてもええよ。」


 祐希「新井、行こか。」


 恵「おい、シカトすんなや、こんなええ女を前にして。」


 久しぶりに会った恵は冗談抜きで綺麗になっていた。なんか、このくらいの年齢の女性がほんの数か月間で、いっきに綺麗になるのはどういう仕組みなのだろうか。


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