第46章 東京出張 その2
その日の夜から都心部の天候が大荒れに荒れた。どうやら、西日本を覆っていた秋雨前線がここ東京にまでせり出していているようだった。また、台風が九州に上陸してきており、日本列島を縦断していくとの予報が出ていた。朝になっても、外は横殴りの雨で、しかもかなりの強風だった。一応、傘は持ってきてはいるのだが、傘が吹き飛ばされそうな風の強さだった。
朝食は会社の寮で提供された。寮生が朝6時を過ぎたころから、1階の食堂に降りてきて食事をとっていた。祐希は寮内には誰も知り合いがいないため、一人で朝食をとることにした。だいたい、年齢の近いような連中が知り合い同士で同じテーブルで食事をしていた。外が大荒れの天気だったため、あまり外に出るのも億劫だったが、意を決して出勤することにした。特に、バス停でバスを待っているときに雨に濡れた。雨を遮るようなものが何もないため、横殴りの雨でかなり濡れてしまった。
会社には、午前8時までには到着した。エレベータに乗り、10階の人事部へと向かった。すでに、人事部には森が出勤してきていた。
森「おはよう。」
祐希「森さん、昨日はありがとうございました。」
森「ねえ、ちゃんと領収書とか持ってきた。」
祐希「ええ、なんとかカバンに濡れないようにして持ってきました。」
8時半になり、人事部での朝礼に参加した。そのあと、森に昨日使った交通費の精算をしてもらった。
森「現金がいいでしょ。銀行振り込みもできるけど、どうする。」
祐希「現金でお願いします。あまり手持ちもないので。」
森「食堂にATMがあるから、あそこでお金は下せるわよ。」
その日は、人事部で研修のカリキュラムの説明があった。基本的には、午前中は設計2課での業務を行い、午後から外部の英語学校で外国人講師の下で英語学習をするというものだった。それが、半年程度続くようだった。その後、一度渡米して、現地の駐在員の案内で、北カリフォルニアの見学と、大学の面接があるとのことだった。すでに、書類選考に必要な書類はほとんど提出し終えており、あとはトーフルのスコアの提出があった。推薦状は社長の署名入りで提出されていたため、あとはトーフルのスコアと面接が残っているだけだった。面接が終わった後に、一度日本に帰国をし、最終的な準備を整えた後に、最終的に渡米することになっているとのことだった。すでに、大学に隣接する大学寮の手配も終わっていた。それらは、サンフランシスコに駐在している、現地の駐在員が全て手配してくれていた。また、パスポートの手配、留学生用F-1ビザの取得は終わっていた。F-1ビザ取得に必要な、I-20はスタンフォード大学付属の英語学校から発行してもらっていた。最終的な渡米は来年の5月。その後、現地の語学学校で最終的な英語力の学習を行い、9月に入学というスケジュールだった。祐希の知らないところで、どんどんと計画は進行しているようだった。
森「ということで、橘君には早速金曜日にトーフルと受けてもらいます。」
全体のスケジュールを説明したあと、森がいきなりトーフルの日程を告げてきた。
伊藤「まあ、いきなりでびっくりしたと思うけど、金曜日にテストを受けてもらって、今回の出張は終わりだ。テストが終わり次第、そのまま長野に戻ってもらっていいから。」
森「1回目なので、まずはテストに慣れてもらうのが目的だから。今回、点数を取れなくても大丈夫だから。」
祐希「宮下部長からいただいた教材は一通り学習しましたが、トーフル対策は全くやっていないです。」
伊藤「それは、東京に異動になってからの研修でしっかりやってもらうから。心配しなくていい。」
祐希「大学の面接って、当然英語ですよね。」
伊藤「そりゃそうだよ。授業も全部英語。」
祐希「いや、今から緊張しますよ。まいったなー。」
伊藤「橘、大丈夫だって。お前なら全然いけるから、心配するなって。」
森「橘君、私も大丈夫だと思うよ。サンフランシスコには木下さんっていう、うちの駐在員だっているわけだし。向こうの生活面とかも心配ないわよ。」
祐希「森さんってアメリカ行ったことあるんですか。」
森「ちょっとだけね。高校の時の夏休みにホームステイしてたの。」
伊藤「高校生とかで留学している人もたくさんいるんだから、もう成人しているお前がびくびくすることないだろう。」
祐希「まあ、生活面はいいとし、やっぱり面接は緊張しますよ。」
森「まあ、木下さんに頼んで、面接で聞かれそうなことをまとめた、想定問答集みたいなものを作ってもらっておくから。」
祐希「そういうの助かります。」
午後からは、設計2課に行って、職場の人たちとの挨拶を済ませた。今日は、設計2課で祐希の歓迎会を開いてくれるとのことだった。祐希は山中の席に呼ばれた。
山中「今日は部長は来れないけど、あとの課員がだいたい参加できるから。」
祐希「課員って何名くらいいるんですか。」
山中「うちは、15人くらいだな。あ、そうだ、ちょっと待っていて。」
山中は若い女性の課員を呼んだ。
山中「青柳君だ。慣れるまでは、彼女にわからないことを聞いてくれ。」
青柳「青柳です。橘君のことはいろいろと聞いてます。私と同期ですよ。私、森さんと仲が良いので。」
祐希「はじめまして。橘祐希です。青柳さんも同期なんだ。」
山中「さて、これから関連部署に俺と一緒に挨拶周りにいくか。いろいろと顔をしてもらっていたほうが、仕事もやり易いからな。」
祐希「よろしくお願いいたします。」
その後は、山中と関連部署に挨拶回りをした。すでに祐希のことは社内中に知れわたっており、ほとんどの人が祐希の名前をすでに知っていた。
山中「もう、すっかり有名人だな。あえて、挨拶回りする必要もなかったみたいだな。」
祐希「いやなんか、逆にやりづらいですね。」
山中「気にすんな。2課のみんながサポートするから大丈夫だよ。」
2課に戻り、自席についた。まずは、たまっていた技術資料のチェックを依頼された。いろいろとやることは多いようだった。定時近くになり、山中が課員に呼び掛けて、そろそろ出かけることになった。祐希の歓迎会だった。
山中「よし、今日は橘の歓迎会だ。5時半には会社を出てくれ。6時にはスタートするから、場所は先日連絡したとおりだ。」
青柳「橘君は私に付いてきて。」
祐希「あ、わかりました。」
祐希は青柳と一緒に会社を出た。歓迎会を行う居酒屋までは、会社から歩いて10分程度の距離だった。天気は夕方には持ち直しており、雨足もかなり弱くなってきていた。店までは、二人で歩きながら向き合った。
青柳「今朝の天気はひどかったよね。」
祐希「いや、会社についたら、かなり濡れてたよ。念のために、カバンにタオルを入れてきていたけど正解だった。」
青柳「そういえば、明日、誕生日なんでしょ。寛子から聞いたんだよね。」
祐希「そっか、森さんと仲がいいって、言ってましたもんね。」
青柳「そうなの。で、明日は私も参加ということで。」
祐希「あ、そうなんだ。」
青柳「あ、それとね。寛子から聞いたけど、新井さんって人の所属わかったわよ。なんか、知り合いなんでしょ。」
祐希「そう、俺の田舎の連れなんだよね。」
青柳「開発部にいるみたい。あそこは大変な部署だよ。」
祐希「そうなんだ。どう大変なの。」
青柳「だって、うちの会社の一番できる人たちが集まっている部署だからね。ある意味、奇人変人の集まりなのよ。なんか、頭のいい人って、私みたいな普通人とはちょっと違うっていうか。」
祐希「どう変なの。」
青柳「言葉が通じないの。あそのこの部署の人たちの話している言葉って、日本語とは思えないほど、意味不明が単語がたくさん出てくるのよ。」
祐希「そっか、そんな環境に新井はいるんだ。」
青柳「橘君はめっちゃ頭いいんでしょ。」
祐希「いや、別に普通だと思うけど。」
青柳「IQテストのスコアがすごい良かったって聞いたわよ。」
祐希「あんなテストのスコアと頭の良さとは、あまり関係あるとは思えないけどね。」
青柳「そっか。まあ、少なくとも私と普通に会話できているもんね。」
祐希「普通だよ。俺なんか。」
青柳「いやね、最初はどんな人が来るんだろうって、少し警戒してたんだけど、寛子に聞いたら、めっちゃ普通の人だって言ってたからさ。」
祐希「そうそう、普通ですよ。月並みというか、どこにでもいるようなというか。」
歓迎会はかなり盛り上がったのだが、やはり東京のお店は狭いなと痛感した。課員もみんな若くて、エネルギッシュな人たちばかりだった。祐希の同期は、青柳ひとりだったが、1歳下の後輩が2人いた。明日も仕事というのと、店が時間制ということもあり、午後8時にはお開きになった。店を出て、他の社員は2次会に行くようだった。祐希も誘われたが、あまり行く気もなかったので、やんわりと断った。青柳と二人で駅まで歩くことにした。
青柳「私も川崎に行くから、一緒に行こうか。」
祐希「青柳さんは、女子寮なの。」
青柳「そう、私も地方出身だからね。」
祐希「そうなんだ。田舎はどこなの。」
青柳「大分なの。」
祐希「遠いね。九州なんだ。」
青柳「もうね、国内線ってすっごい高いから、冬のボーナスなんて帰省するだけで、全部ふっとんじゃうの。」
祐希「飛行機代は高いよね。まあ、俺は飛行機乗ったことないけど。」
青柳「飛行機は速いからいいんだけど、高いわよ。ほんと、びっくりするくらい高いの。」
青柳は森に比べると、かなり静かで大人しい女子だった。どこか控えめで、遠慮がちという印象を受けた。性格的には、山下の彼女の野口に似たタイプだった。祐希と青柳は歩いて品川駅まで行き、そこから電車で川崎駅に向かった。川崎駅で電車を降りたころには、すっかり雨も上がっていた。
青柳「ねえ、もう一軒いかない。」
祐希「あ、じゃあ、一杯だけいこうか。」
青柳「じゃあ、一杯だけね。」
その後、青柳と二人でバーに行った。なんか、上品な大人の雰囲気のバーだった。カウンターには、きちんと正装したバーテンダーがおり、客の注文を受けて、一杯一杯丁寧にお酒を作っていた。
青柳「ドライ・マティーニ。」
祐希「ねえ、こんな店来たことないから、何を頼めばいいのかさっぱり。」
青柳「ウイスキーとか好き。」
祐希「あんまり飲まないね。基本、居酒屋しか行かないし。」
青柳は少し笑った。そして、シングルモルトを祐希のために頼んでくれた。ウイスキーは小さなグラスに注がれて出てきた。ウイスキーと一緒にグラスに入った水が出てきた。青柳はドライ・マティーニというお酒を頼んでいたが、かわった形のグラスに注がれていた。どうやら、カクテルのようだった。
祐希「なんか、こんなお店初めてきたよ。」
青柳「なんでも経験よ。」
祐希「そうだね。青柳さんはよく来るの。」
青柳「そうね。ちょくちょく来るわよ。」
薄暗い店内で見る青柳の顔は同い年の女性とは思えないほど妖艶に見えた。よく見ると、彼女はいつの間にかきれいに口紅をぬりなおしていた。その真っ赤な唇が薄暗い店の背景に良く映えていた。髪の毛は、短く肩上までしか無いのだが、きれいに毛先が整えられており、真っ黒な色とあいまって、すごく美しい髪に見えた。祐希は、なんとなくこの子は男に見られることをわかったうえで、その前提で化粧や髪の毛のセットを整えているということが感じとられた。しかも、この店を選んだのも、自分が一番美しく見える背景を提供してくれるのをわかったうえでのことだと思えた。ある意味、男慣れしてしているのは間違いない。とても、祐希のような田舎育ちの純朴な男には太刀打ちできないような圧倒的な女の魅力が濃縮されているような女性だった。昼間の明るい時とは、全く別人の顔を持っていること自体が、彼女を女の子ではなく女と思えてくる強い根拠である。とても同い年の女性とは思えないほど、大人に見えた。そう精神的にはるかに大人に思えてくるのである。
祐希「なんか、青柳さんて、昼と夜とでは全然印象が違うね。」
もうこのセリフ自体が、青柳に言わされたようなものだった。彼女は明らかに、祐希がこのセリフを言うこと自体をあらかじめ知っていたような表情だった。
青柳「そうかな、昼も夜も私は同じよ。」
祐希は落ち着かなかった。それに、彼女にいったいどういう話題を振ればよいのかさえ、わからなかった。なんか、彼女の掌の上で、ころころと踊らされているようだった。
青柳「橘君てさ、なんか純朴って感じだよね。」
祐希「まあ、ずっと田舎暮らしだしね。」
青柳「でも、そういう人、好きだなー。いいと思うよ。」
祐希「でも青柳さんも、高校出るまでは大分にいたんでしょ。」
青柳「そう、大分。いいところだよ。温泉もあるしね。」
けだるそうに青柳が答えた。祐希はお酒の力もあり、だんだんと酔いが回ってきた。青柳からの圧力にも、耐えられそうになかった。彼女を見ていると、完全に男をどんどんと引きずり込んで、自分の支配下に置くような、そういう感じの女性に思えてきた。この年齢で、この圧倒的な妖艶さを周囲に漂わせてくる女性。なんか、明日からの残り4日間が思いやられた。しかも、明日も青柳と森と3人で食事会である。「やれやれ」、心の中で祐希はつぶやいた。




