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第44章 祐希の未来 その3

 8月も終わり、まだ残暑が厳しい9月に入った。祐希はすでに宮下から渡された、英語の教材をほとんどやり終えていた。他の書籍を自腹で買うお金もないため、再度最初からテキストを読み始めた。会社内にも、海外メーカーから導入された製造設備のマニュアルなどで、英文で書かれたものもあるため、そういう書籍もいろいろと読んでみた。とにかく、自分の周囲にある、英語の活字をどんどん消費していった。ほとんど毎日300語から400語くらいのペースで単語を暗記していき、わからない単語はすぐに辞書を引いた。英英辞典も最初は全然読めなかったが、英語の語彙が増えるにつれて、だんだんとわかるようになってきていた。


 ある日、富永と祐希は総務部に呼ばれた。いよいよ、東京への異動の話が出るものと思われた。総務部では、宮下と大森が待っており、4人で会議室に入った。


 宮下「橘の異動だけど、10月1日付に決まった。とりあえず、東京の第4技術部の設計2課に異動してもらう。部長は三田部長、課長は山中課長だ。」


 大森「寮は、川崎の独身寮に入ってもらう。川崎駅からバスで15分のところにある。勉強してもらうため、当然一人部屋だ。」


 富永「川崎の独身寮ですね。私も若いころ入ってましたよ。懐かしいな。」


 祐希「それで、実際の引っ越しはどうすれば良いですか。」


 宮下「引っ越し前に、一度東京の設計2課に挨拶にいってはどうだ。向こうの総務の人間に、寮のまわりの様子とかも案内させるから。」


 大森「橘は、東京の土地勘はあるのか。本社のある品川と川崎がどのような位置関係かとか、どの電車に乗ればいいかとか。」


 祐希「いえ、東京にはまだ3回しか行ったことがありません。もう、ほとんどわからないです。ただ、川崎はパンチパーマの人が多いって聞きました。」


 3人は顔を見合わせて、少し笑った。


 大森「まあ、行けばわかるよ。」


 富永「それでは、出張というかたちで、1週間ほど行かせますか。今度入る独身寮に泊まればいいし。」


 宮下「そうだな。一応、独身寮には布団もあるようだから、それで済ませればいい。」


 祐希「わかりました。是非、そうさせてください。」


 大森「俺たちの仕事はそこまでだ。東京での研修や、渡米の手配、大学入学の事前準備などは、東京の人事が引き継ぐ。東京の人事には俺の同期がいて、彼がお前の面倒をみてくれるそうだ。伊藤ってやつだから、今度本社に行ったときに面談してくるといい。」


 宮下「まあ、東京側の担当者には、われわれから引継ぎをしておくから。お前は彼らの指示に従ってくれ。これは、社長直々のプロジェクトになる。」


 富永「いや、お二人には本当にいろいろと手助けしていただき、ありがとうございます。」


 宮下「橘、みんなお前に期待している。向こうに行って、しばらくしたら、沢田を呼び寄せればいい。俺たちも協力するから。」


 大森「長野事業所から、お前みたいな人材が出てきてくれて、本当に嬉しいよ。がんばってくれよ。」


 宮下「東京への出張は仕事の調整もあると思うから、富永課長と日程を調整してくれ。決まったら、こちらに連絡して欲しい。」


 祐希「ありがとうございます。なんか、うまく言えませんが、とにかく全力で頑張ります。」


 富永と祐希は課の事務所に戻った。すでに、同じ課の連中だけでなく、長野事業所のほとんど全員が祐希の進学の話を知っていた。人によっては、いちいち祐希を呼び止めて、祝福の言葉を行ってくれる社員もいた。


 山下「そうか、じゃあお前はここの臭い飯ともお別れか。」


 昼食時はいつもどおり山下と円山と食事をしていた。


 円山「よかったな。娑婆に出られてよ。」


 パンチパーマの円山がそういうセリフを言うと、本当にここは刑務所かと思えてきた。


 祐希「いや、お前のその髪型で、そんなこと言われたら、本当に刑務所にいるみてえじゃねえか。」


 円山「いや、案外この髪型って楽なんだよな。朝とかも寝ぐせとかついてないし。」


 山下「そりゃ、そこまで強く巻かれてりゃ、寝ぐせの付きようもねえだろ。」


 祐希「結構、女子の間じゃ評判らしいぜ。」


 円山「いや、俺はもう開き直ってるから、何を言われても平気だわ。」


 山下「お前、出社するときに、正門の守衛に止められてって聞いたけど、本当なのか。」


 円山「止められたよ。なんか、しれっと変なのがまぎれているって思われたみたい。」


 祐希「お前、職質とかされたか。」


 円山「いや、そこまではねえよ。お前ら、それはパンチパーマに対する偏見だぜ。」


 山下「つうか、普通に怖えよ、その見た目とか。」


 3人で喋っていると、千波が向こうから近づいてきた。


 千波「おう、円、元気そうじゃんか。どう、その髪型慣れた。」


 円山「これね、寝ぐせつかないから、案外楽でいいですよ。」


 千波「いや、でも、円ちゃん、似合ってるよ。うんうん、こりゃ世間の女子が放っておかないわね。」


 山下「沢田さん、それ言い過ぎですって。」


 祐希「千波、お前悪乗りしすぎだって。」


 千波「ああ、ごめんごめん。ほんじゃ、私は行くね。」


 千波は一緒に食事をしていた他の女子社員と製造部のほうへ消えていった。


 山下「沢田さんにも、引っ越しの日程とか言ったほうがいんじゃねえか。」


 祐希「まあ、週末に会うから、その時に話しようかと思っている。」


 円山「沢田さんも気丈に振舞っているけど、案外寂しいと思っているぜ。」


 山下「まあ、野口さんにお願いして、ちょくちょくご飯に誘ってあげるようお願いしとくよ。」


 祐希「なんか、気をつかわせて悪いな。」


 山下「気なんかつかってねえよ。俺たちは、そうしたいからそうするだけだよ。」


 その後、富永との面談を重ね、9月の最後の4週目に東京出張に行くことになった。異動の辞令は、10月1日付ということで、辞令を受け取るのは長野事業所の総務部ということになる。よって、10月1日は長野事業所に出社する必要があった。辞令を受け取ったあとの引っ越しは、多少遅れても構わないとのことだった。


 週末にはいつものように千波と外出した。いろいろと話すことが多かったので、この機会にゆっくりと話そうと考えていた。その日は、久しぶりに山のほうにドライブに行くことにした。千波がお弁当を作ってきてくれていた。ちょっと遠出して、美ヶ原高原に行くことにした。


 千波「美ヶ原なんて、2年ぶりくらいじゃない。」


 祐希「そうだね。久しぶりだよな。美術館は行きたい。」


 千波「前回行ったから、いいんじゃない。それよりも途中の駐車場でお弁当食べようよ。」


 その日は、午前中は少し曇り空だったが、そのうちどんどん天気が回復してきていた。空の雲は、目に見えるようなスピードで、東から西へと流れていった。風がすこし強めに吹いていたため、案外涼しく感じることができた。美ヶ原は、その名前にふさわしいくらい美しい丘陵だった。どこか、非日常的な光景だった。昼過ぎになって、祐希は途中のパーキングに車を停めた。そして、千波と一緒に車外に出た。


 千波「どこか、ベンチとかで食べようよ。」


 祐希「そうだね。なんか、風が出てきたよな。雲がすごい速度で動いている。」


 千波「なんか、ここって気持ちいいよね。空気もいいし、なんか生きてるぞーって思えてくる。」


 二人はお弁当を広げ、そこのベンチで食べることにした。すこし暑く感じたが、風があるだけ涼しかった。


 祐希「俺さ、10月1日付で東京の部署に異動になることになった。」


 千波「そっか。とうとう東京に行くんだね。」


 祐希「ああ、それとさ、9月の第4週に東京出張になった。なんか、異動先の部署への挨拶と、東京の人事部との面談なんかをやるらしい。」


 千波「ええ、最悪じゃんか。その週って、祐希の誕生日じゃなかったっけ。」


 祐希「そうなんだよな。よりによってなんだよ。」


 千波「せっかく、一緒にお祝いしようと思っていたのに。」


 祐希「ごめん。」


 千波「それって、会社が決めたんでしょ。」


 祐希「そう、会社命令だからね。」


 千波「引っ越しはいつになるの。」


 祐希「引っ越しは、10月の半ばくらいかな。まあ、その日程も東京の人事部との面談で決まると思う。もう、会社側でいろいろとスケジュールを組んでいるみたい。」


 千波「そっかー。アメリカにはいつ行くの。」


 祐希「まだ具体的な日程は決まっていないけど、来年のちょうど今頃に入学するみたい。」


 千波「それじゃあ、あっという間だね。」


 祐希「入学して、向こうの生活が軌道にのってきたら、千波を呼ぼうと思っている。会社にもその件は了承をもらっているから。」


 千波「そうだね。スムーズにいくといいけどね。」


 祐希「大丈夫だよ。会社がいろいろとバックアップしてくれているわけだし。そのうち、千波にもパスポートの申請とかの指示があると思うよ。」


 千波「籍を入れるのは、どのタイミングにするの。」


 祐希「渡米前でいいかなって思っている。そうすれば、千波の渡米のタイミングを決めやすいからね。」


 千波「アメリカのどこに行くの。アメリカってやたらでかいじゃんか。」


 祐希「西海岸だって聞いている。」


 千波「冬とか寒いのかな。」


 祐希「今度、図書館にでも行って調べてみるか。」


 千波「そうだね。事前にある程度の知識を頭に入れておかないとね。」


 美ヶ原に通っている道路には、バイクツーリングのグループが走っていた。景色を楽しむためか、幾分ゆっくりと速度を落として、走っているように見えた。風は心地よく、空からは生花のラッピングフィルムで反射されたような明るい光が降り注いでいた。紫外線がたっぷりと含まれているような陽の光である。お弁当を食べ終えてから、車に戻った。


 千波「ちょっと、その辺、歩いてみない。」


 祐希「いいね。」


 二人は車外に出て、パーキングの周りを歩いてみた。屋外に展示されている美術品がところどころに見られた。お腹もいっぱいだったし、天気も良かったため、なんだか眠くなるような昼下がりだった。外に散歩にでも出なかったら、居眠り運転してしまいそうな心地よさだった。


 祐希「千波は海外生活ってどう思う。」


 千波「どうって、今まで考えたこともなかったわ。海外とか行ったことないしね。」


 祐希「まあね。そりゃそうだ。俺だって、飛行機さえ乗ったことないもんな。」


 千波「私も英語の勉強でもしようかな。」


 祐希「俺が会社からもらった教材を使えばいいよ。俺は、もうほとんど終わったしね。」


 千波「早いね。結構、分厚い本だったよね。もう、全部終わったの。」


 祐希「夜にコツコツとやってたからね。」


 夜までに長野市内に戻り、寮の近くの居酒屋に二人で行くことにした。いったん、千波を居酒屋で降ろし、祐希は寮の駐車場に車を置きにいった。その後、一人歩いて店まで向かった。以前、から揚げ食べ放題をやっていた店だった。


 店に入ると、すでに千波がカウンター席でビールを飲んでいた。


 千波「なんかさー、こうやってひとりでビールを飲んでいると、婚期を逃した寂しい女みたいで嫌だわ。」


 祐希「まだ、そんな年じゃねえじゃんか。」


 千波「なんか適当に頼んでおいたわよ。」


 間もなく、3品ほど食事が運ばれてきた。ホッケ焼き、揚げ出し豆腐、枝豆がテーブルに並べられた。


 祐希「あれ、お刺身は食べないの。」


 千波「頼んであるよ。私がお刺身をパスするわけないじゃん。」


 祐希「だよな。」


 千波「こうやって、祐希と二人で飲むのも、あと何回あるのかねー。」


 祐希「寂しいのか。」


 千波「寂しいわよ。意地悪だよね、そういうのわかるでしょ。」


 祐希「アメリカにも居酒屋あるかもよ。」


 千波「いや、そういう寂しさじゃなくて。ほんと、祐希って時々全く見当はずれのこと言うわよね。」


 祐希「東京にいる間は、俺も時間があれば、長野に来るよ。問題はどこに泊まるかだよな、」


 千波「寮に泊まればいいじゃんか。」


 祐希「おお、そういう手もあるな。でも、布団がないよ。」


 千波「寮にあるって。寮は長期出張者用のために、布団が何組か用意してあるのよ。総務の人にダメ元で頼んでみたら。」


 祐希「そうだね、わかった。山下とか円山にも会いたいしな。」


 千波「車はどうするの。」


 祐希「山下に売るつもり。まだ、ローンは残っているけど。弟に譲ろうとしていたんだけど、山下が譲ってくれって。」


 千波「そっかー、なんか着々と計画は進んでいるってわけね。」


 祐希「だなー。まあ、今度の出張行って、東京の人事との面談で、さらに具体的な話が出てくると思うよ。」


 千波「祐希、私は大丈夫だから、とにかく今やるべきことに集中して。ここは、お互い正念場だと思うよ。」

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