第38章 祐希の未来 その2
祐希は再度富永との面談をしてもらうことにした。会議室には、富永と祐希の二人が会議テーブルをはさんで座っていた。
祐希「課長、先日もお話させていただきましたが、やはり今の彼女と籍を入れようかと思います。そして、出来れば彼女も帯同したいと思ってます。」
富永「そうか。わかった。その件は、俺から人事に話しておくよ。おそらく、数日以内に総務部の宮下部長との面談があると思うから、そのつもりでいてくれ。」
祐希「はい、承知しました。課長、本当にいろいろと私のことで対応いただき、本当にありがとうございます。もう、課長には感謝しかないです。」
富永「お前な、本当に大変なのはこれからだ。もう向こうに行ったら、俺は何も手助けしてやれない。お前自身の力で切り開いていくしかないんだから、頑張れよ。」
祐希「それまでは、今の仕事を目一杯頑張ります。」
富永「そのうち、宮下部長から呼び出しがあると思う。まあ、お前は今の話をそのまま話せばいい。おそらく、一度東京本社でしばらく社内研修をしてから、渡米することになると思う。渡米したあとは、最初の半年くらいは語学学校で英語学習をするようだ。」
祐希「東京本社では何をするんでしょうか。」
富永「東京では、英語研修と進学先の大学の選定を人事と行うようだ。」
祐希「でも、いったいどんな大学があるのか、さっぱりわからないですけど。」
富永「心配するな。資料は本社側の人事部である程度は揃えてある。それと、サンフランシスコの駐在員が、一度お前と面談するようだ。」
祐希「わかりました。ありがとうございます。」
その日の富永との面談はそこで終わった。富永が言うとおり、おそらく数日後には宮下部長との面談があるはずである。おおよそのスケジュールは本社側の人事部で作成しているようだった。
山下「で、祐希、どうだった。もう会社とは話したのか。」
大食堂で山下が聞いてきた。
祐希「一応、課長との面談は終わった。なんか、渡米する前に東京の本社で研修みたいなのがあるらしい。まあ、どのくらいの期間、東京にいるのか詳しいことはまだわからないけど。」
円山「つうか、お前、東京行ったことあるのか。」
祐希「あるよ。だって、入社式は東京だったじゃんか。」
山下「円山は長野事業所採用だから、入社式は長野だよ。俺とお前は東京でやったけどな。」
祐希「え、そうなの。俺は全員、東京で入社式やったのかと思っていた。」
円山「そっか、それじゃあ、まあほとんど行ったことが無いに等しいってことか。」
祐希「東京ってさ、親戚もいないし、そもそも用事がないしさ。」
山下「一回、プライベートで行ってみればいいじゃんか。」
祐希「あ、そうだ、千波と東京探検に行こうかって話をしていたのを思い出したわ。」
円山「そうだよ。沢田さんと一緒に行ってみればいいじゃんか。あの、『特急あさま』だっけ。」
祐希「そうだな。千波もディズニーランドとか行きたいって言ってたし。東京見物もいいかもな。」
数日後、祐希は総務部に呼ばれた。総務部の会議室内には、宮下と大森がすでに会議テーブルの席についていた。
祐希「失礼します。課長からこちらに行くよう言われました。」
宮下「おう、橘、そこに座れ。」
祐希「あ、はい。」
祐希は宮下の対面に着席した。おそらく、最終的な本人の意思確認と今後のスケジュールの話と思われた。すでに、富永より話をいろいろと聞いていたので、特に緊張することもなく、話し合いに臨めた。
宮下「もう富永課長からおおよその話は聞いていると思うが、あらためてお前の意思を確認しておきたい。」
祐希「はい、まずはこのような機会を与えていただき、ありがとうございます。是非とも会社からいただいた、この素晴らしいチャンスをお受けしたいと思います。」
大森「橘、そうか。受けてくれるか。決して、会社はお前のことを悪いようにはしない。これは、本当に大きなチャンスなんだ。それじゃ、あらためて本社の人事部には私から報告しておくから。」
祐希「はい、よろしくお願いいたします。」
祐希はなぜか非常に晴れやかな気持ちだった。なんか、目の前にとてつもない大きな草原が広がっているような気持ちになった。その大きな草原を耕して農作物を作るもよし、そこに大きなホテルを建てるのもよし、あるいはそこに街を作るのもよし、そんな気分だった。
宮下「富永から聞いていると思うが、いったんしばらくは東京本社のほうで研修を受けてもらう。」
祐希「はい、聞いております。」
大森「一応、東京の独身寮に移ってもらうことになるが、いいよな。」
祐希「はい、勿論です。」
宮下「大学なんだけど、お前には悪いが、会社のほうで決めさせてもらった。」
祐希「どこですか。」
宮下「米国の西海岸にある、スタンフォード大学ってところだ。来年の9月の入学を考えている。よって、準備期間は約1年だ。」
祐希「聞いたことあるような名前ですね。まあ、会社が選んでくださるということは、ちゃんとした大学だと思いますので、お任せします。」
大森「西のスタンフォード、東のハーバードと言われる名門だ。会社から推薦状を出すのと、おそらくいくらかの寄付金も出さざるを得ないだろうな。」
祐希「そうなんですか。」
宮下「まあ、お前は学費と生活費のことは心配しなくていい。それとだ、・・・」
祐希「はい、それと、なんですか。」
宮下「彼女を帯同したいと聞いているが、そうなのか。」
祐希「はい。もし今の彼女が私の家族になった場合、帯同も可能ではないかと聞いております。」
宮下「ということは、渡米前に籍を入れるのか。」
祐希「タイミングは二人で相談して決めます。おそらく、私が先に渡米したあと、向こうの学生生活になじんできた時点で、彼女と籍を入れて、彼女にも来てもらうようにしたいなと。」
大森「まあ、うちの会社は海外赴任者については、家族帯同を認めている。おそらく、今回のケースもそれに当てはまると思うから、問題は無いと思う。でも、彼女は大丈夫か。」
宮下「沢田のことだろ。清田の件で、あいつにもいろいろと手伝ってもらったよな。いい子じゃないか。」
祐希「ありがとうございます。そうです、沢田千波です。」
大森「まあ、沢田なら大丈夫だと思うけどな。あの子は、結構しっかりしているもんな。」
祐希「なんていうか、正直言って、僕は本当に不安なんです。田舎者なんで、いままでの人生で海外なんて行ったこともないし、飛行機も乗ったことないんですよ。でも、もし千波が一緒ならなんとか乗り切れるような気がして。」
宮下「わかるよ。精神的な支えがお前にも必要ってことだろ。お前の言うことはもっともだと思うよ。」
大森「橘、その件については、宮下部長と俺に任せてくれないか。お前の希望に添えるように話をしてみるから。それと、年明けにはパスポートの申請とかもしてもらうから。」
祐希「わかりました。」
宮下「それと、米国の大学に外国人が入学する際は、英語力のテストのスコアを提出しなければならないんだ。トーフルって聞いたことあるか。」
祐希「トーフルですか。」
宮下「そう、トーフル。TOEFLってスペルで、トーフルって発音するらしい。」
祐希「はい、で、そのテストを受けなければいけないということですね。」
大森「そういうことだ。まあ、最低でも600点は必要らしい。」
祐希「それは、1000点満点での600点なんですか。」
大森「いや、実は俺も良く知らないんだ。その、600点っていうのがどの程度のレベルかもわからない。まあ、簡単ではないことは確かだけどな。」
宮下「東京に移ったら、そのテストを受けてもらうことになる。今からでも、コツコツと英語の学習を初めておけ。」
そういうと宮下は、3冊の分厚い書籍を祐希に渡した。
宮下「とりあえず、これを学習しておけ。」
1冊は英英辞典だったが、海外から取り寄せたものらしく、中は全部英語で書かれていた。もう1冊はテキスト、そしてもう1冊は問題集のようだった。すべて、中は英語だけで書かれていた。
祐希「英語しか書かれてないですね。」
宮下「当たり前だろ。こんなの基礎中の基礎だぞ。まあ、1か月間でこの内容を全て理解しろ。」
祐希「わかりました。1か月ですね。やります。」
総務と人事との面談は終わった。今は8月である。そして、来年の9月には大学入学になるということは、逆算してもそれほど時間は残っていなかった。3冊の分厚い書籍を持って職場に戻った。すぐに富永が、会議室にくるよう目くばせした。祐希はそれらの書籍を自席に置いてから、会議室に入った。
富永「どうだった。」
祐希「課長が事前に地ならししておいてくださってようで、特に問題もなく話は進みました。」
富永「そうか。まあ、あとはやるだけだな。」
祐希「そうですね。ありがとうございました。」
富永も少しほっとしたような表情をしていた。祐希は自席に戻り、仕事の続きを始めた。すると、竹内が祐希を呼ぶ声がした。
竹内「祐希、5番に内線はいっているよ。なんか、東京本社の技術部の新井さんて人から。」
祐希はその名前に全く聞き覚えがなかった。しかも、東京本社の人間ということは、何かの間違い電話かと思った。だが、祐希を名指しで内線電話をかけてきているということは、相手は祐希のことを知っているということである。
祐希「はい、橘です。」
新井「祐希、俺だよ。俺の声わかるか。」
祐希「え、新井って、あの同じ中学の新井か。」
新井「そうそう、俺さお前と同じ会社に入社したんだよ。福井高専いってたから、2年遅れだけどな。」
祐希「そうなのか、いや全然知らなかったよ。そういえば、お前、成人式の時いたのか。」
新井「いや、成人式には行ってない。あんまり田舎にいたときの良い思い出もないしな。」
祐希「俺さ、今度東京に行くことになるかもしれないんだ。お前がそっちにいるのなら、心強いな。」
新井「そうなのか。こっちに来るのなら、メシ行こうよ。それは転勤なのか、出張なのか。」
祐希「転勤みたいなものだよ。まあ、詳しい話はその時するわ。」
新井「そうだ、先週、恵に会ったぞ。」
祐希「おう、恵か。元気してたか。」
新井「あいつは元気だったよ。相変わらずいい男いねえってボヤいてたけどな。」
祐希「ああ、あいつ成人式の時もぼやいてたわ。」
新井「お前が付き合ってやらねえからだよ。あんないい女なかなかいねえぞ。」
祐希「まあ、俺もいろいろあってさ、また今度詳しいことは話すよ。」
新井は住んでいる独身寮の電話番号を祐希に伝え、電話を切った。祐希と新井は小学校、中学校が一緒で、ほとんど幼馴染に近いような関係の友人だった。彼は在日朝鮮人ということで、心ない同級生からいろいろとイジメをうけていた。そのたびに、彼をかばっていたのが祐希たちのグループだった。特に、三田と中嶋は腕っぷしが強いのもあって、何度も彼のために他の同級生と対峙することがあった。祐希から見た、新井は性格も穏やかで、非常にやさしく、繊細な男だった。彼は、暴力というものからは、一番縁遠いような子供だった。だがしかし、子供の世界は残酷で、暴力から遠ざかれば遠ざかるほど、向こうから暴力がやってくることがある。特に、彼のような根が優しい人間には、そういった暴力しか取り柄のないようなバカな奴らが群がってくることがある。祐希は新井の繊細で心優しい性格が好きだった。人の心の痛みを敏感に感じ取り、弱い人間にそっと寄り添ってやれるような心優しい新井のことが大好きだった。そしてそれは、祐希たちのグループ全員が思っていることだった。新井はほとんど他人に心を開くようなタイプではなかったが、祐希たちのグループの6人にだけは心を開いてくれていた。
祐希にとって、東京という場所は初めて住む土地になるのだが、恵や新井がいるということは心強かった。それよりも、千波がゆくゆくは一緒に来てくれるということが嬉しかった。会社もそのことに理解を示してくれたことも嬉しかった。なんとなく、祐希は自分の人生が大きく開けていくのを感じ取ることができた。やることは山ほどある、しかしそれは心躍るような挑戦である。




