第31章 IQテスト その1
いつから始まったのか誰も知らない社内の行事に、社員のIQテストというものがあった。IQテストは、入社試験時にも全員が受験しているが、それが採用の可否や人事にどのように使われているのか知るものはいなかった。ましてや、誰がどの程度のスコアを記録しているのかもわからなかった。それらの情報は、総務部人事課にて一括管理をしているようで、人事部の担当者以外にそれらの情報にアクセスすることはできなかった。
今年も社内IQテストの時期になり、社員は全員テストを受けた。おれは、どの部署の社員も受けることとなっており、祐希もそのテストを受けた。入社試験時にも受けているので、今回で4回目のテストであった。
祐希「このさ、IQテストって何の役に立つのかね。」
大食堂で昼食をとりながら、その話題になった。
山下「わからねえな。なんか、人事とか昇進の参考にしているとか、採用時の参考にしているとかいろいろ言われているけどな。」
円山「これって、100が平均だって聞いたけど。そもそも会社はスコアとか教えてくれないから、自分のレベルがどの程度なんてわからねえよな。」
祐希「なんか、ほとんど人事の趣味の世界になっているんじゃねえか。」
山下「言えてる。あいつらだけ、スコアをこっそり見てさ、ああだこうだ言っているんだろうな。」
円山「でも、会社で一番のやつってどのくらいのスコアなんかね。」
山下「わからねえけど、俺たちじゃないってことは明らかだよな。」
祐希「まあ、高卒のうちらじゃないだろうな。すげえ大学出ているやつもいるわけだしな。」
円山「言えてる。まあ、平均値だったら、それでいいと思うけどな。」
そのころ、総務部人事課ではスコアの集計作業を実施していた。長野事業所では人事課は総務部の下部組織となっているが、本社では人事は独立した部署となっている。社員のIQスコアに関しては、実際の仕事でのパフォーマンスとの相関関係などを人事内で把握する目的で使用しているほか、もちろん将来の幹部候補などの選抜に際しての参考資料とする場合もあった。
大森(人事課長)「今年も、橘が一位ですね。ぶっちぎりですよ。」
宮下(総務部長)「今年も140超えか。」
大森「ちょうど140ですね。全社的に見ても、一位ですね。」
宮下「IQ140超えで高卒か。もったいないよな。」
大森「部長。一度、本社の人事部にかけあってみますよ。もしかしたら、会社負担で進学させてもらえるかもしれませんよ。」
宮下「前例がないだろ。」
大森「いや、過去に一人だけいるらしいですよ。あの岡本専務がそうらしいですよ。」
宮下「そうなのか。それは、初耳だな。一度、本社にかけあってみるか。というか、その岡本専務に力になってもらえないだろうか。」
大森「そうですね。力になってくれると思います。一度、お電話してみますか。」
宮下「そうだな。俺から電話してみるよ。」
大森「ただ、その前に本人の意向を確認されたほうがいいと思います。」
宮下「それもそうだな。まずは、富永に話してみるか。」
大森「そうですね。富永課長から橘に話をしてもらったほうが良いかもしれないですね。」
宮下「ちなみに、岡本専務はどこの大学に行かせてもらったんだ。」
大森「あまり詳しいことはわかりませんが、海外の大学だって聞いてますよ。どこだっけ、なんかかなり有名な大学でしたよ。」
宮下「海外か。そういう選択肢もあるんだな。橘なら頑張れると思うけどな。」
大森「まあ、国にもよりますが、うちの海外支店もありますしね。」
祐希は自分の知らないところで、そのようなやりとりがされていることは全く知らない。まして、自分のIQのレベルがそれほど高いということも知る由もなかった。一方、宮下と大森は出来れば祐希に何かしらのチャンスを与えられないか模索していた。
後日、宮下は大森とともに、祐希の上司である富永との打ち合わせにのぞんだ。
宮下「富永さんのところの、橘祐希のことで、ひとつお話があります。」
富永「ああ、橘ですか。なにか問題ですか。」
大森「いえ、問題は全くありませんよ。人事としては彼のことは高く評価しております。」
富永「そうですか。ありがとうございます。では、お話ということはどういった件でしょうか。」
宮下「実はですね、橘君は会社のIQテストで3年連続社内トップなんです。先日のIQテストでも、140というスコアを叩き出しております。」
富永「IQ140ですか。あまりIQについては詳しくはないですが、140が相当なスコアだということはなんとなくわかります。」
大森「あのアインシュタインがIQ160程度と言われております。東大生でおおよそ、120~130程度と言われております。」
富永「なるほど。ということは、橘は東大生の平均よりも知能が高いということですか。」
宮下「IQだけが知能レベルの基準とは言いたくありませんが、少なくとも参考に値する数値と考えております。」
富永「確かに、あいつは電卓もつかわず、ほとんどの計算を暗算でやってますね。それで、話はそれだけじゃないですよね。」
富永は彼らの話を聞いて、かなり驚いた。たしかに、祐希は仕事の飲み込みも早いし、計算もほとんど暗算で間違うこともほとんどない。なんとなく、地頭の良さは実感してはいたが、富永の想定をはるかに超えてくるような知能レベルだった。
大森「実はですね、彼を会社負担で進学させてはどうかと思いまして。」
富永「進学ですか。それは、会社がお金を出して、彼を大学に行かせるということですか。」
宮下「そういうことです。実は、過去にもそういった事例がありまして。あの、岡本専務はご存じですか。」
富永「はい、勿論です。」
大森「実は、岡本専務も会社負担で大学と大学院にまで進学しているのです。」
富永「それは知りませんでした。まあ、事業本部が異なりますので、岡本専務とはほとんど面識がありませんが。」
宮下「岡本専務は、大学、大学院ともに、米国のほうの大学に進学されたそうです。」
富永「それで、会社が橘にも同じチャンスを与えてくださるということですか。」
大森「そういうことです。これは、橘君にとって決して悪い話ではありません。われわれも全力でサポートしたいと考えております。ただし、その前に彼自身の意向を確認しておきたいと思いまして。」
富永「なるほど。それで、私に彼との面談をせよということですね。」
宮下「ええ。やはり直属の上司である、富永課長より本人には話をしていただきたいと思いまして。」
富永「まずは、彼の上司として、宮下部長、大森課長には、深くお礼を言わせていただきたいです。私の部下にそのようなチャンスを与えていただけるのは、私としては本当に光栄ですし、喜ばしいことです。ありがとうございます。」
大森「では、課長からお話していただけるということですね。」
富永「もちろんです。こんなありがたい話はないですよ。私まで興奮してきましたよ。」
富永の表情が明るくなった。ここにいる3人は、是非とも祐希にチャンスを与えたいと考えていた。こんな素晴らしいチャンスは、そうあるものではない。その後の大森の説明によれば、岡本専務は大学はニューヨーク州のシュラキース大学、大学院はマサチューセッツ工科大学に進学したとのことだった。富永は海外の大学のことはあまり詳しくはなかったが、少なくともマサチューセッツ工科大学の名前くらいは知っていた。
数日後、富永は祐希に声をかけた。例の話に関して、祐希の意向を聞いておきたかったのである。
富永「橘、ちょっと会議室にいいか。話したいことがある。」
祐希「あ、はい課長、何でしょうか。」
祐希は富永の後に続いて、課の会議室に入った。富永が座るように促してきたため、会議室の椅子に座った。会議室のテーブルの対面には富永が座った。
富永「橘、仕事はどうだ。」
祐希「ええ、毎日楽しくやらせてもらってます。先輩方が良い人ばかりなんで。」
富永「そうか。それは良かった。」
富永は、そう言うと、しばらく黙っていた。祐希は、この後一体何が彼の口から飛び出すのか、少し緊張した。
富永「実はな。」
祐希「はい、何でしょう。」
富永「どこから話していいかわからないが。」
祐希「はい。」
しばらく沈黙が続いた。祐希はますます嫌な予感がしてきた。一体、自分は何をやらかしたのだろうかと考えたが、仕事で何か失敗したような覚えはさっぱりなかった。
富永「まあ唐突だが、お前、大学に進学できるとしたら、進学したいか。」
祐希は富永の言っていることが、よくわからなかった。
祐希「大学ですか。ええ、そりゃお金があれば行きたいと思いますけど。」
富永「そうか。実はな、先日、会社でIQテストをやったのを覚えているか。」
祐希「ああ、やりましたね。入社試験でもやりました。」
富永「実はな、お前のスコアが全社内で一位だったんだよ。それも、3年連続だ。」
祐希は富永の言っていることが、あまりうまく理解できなかった。それと大学進学と一体何の関係があるのだろうか。
祐希「それは、初めて聞きました。ちょっと驚いてます。まさか、自分が一位なんて。」
富永「そうだな。そりゃ驚くわな。」
祐希「ええ。で、それと大学進学と何が関係があるんですか。」
富永「実は、人事担当者がな、お前を会社負担で進学させたいと言っている。」
祐希「大学にですか。」
富永「そういうことだ。ただし、まずはお前の意向を知りたいと言ってきている。」
そう言うと、富永はしばらく黙った。祐希は、彼の次の言葉を待った。
富永「祐希。これは、めちゃくちゃ大きなチャンスだ。俺の個人的な意見を言わせてもらう。お前は、このチャンスを逃すな。会社がタダで大学に行かせてくれるんだぞ。それもな、海外の大学でもいいと言っている。」
祐希「ちょっと、課長、いきなりの話なんで、すごい混乱してますよ。いったい、どうやったらそんな話がいきなり出てくるんですか。」
富永「まあ、そりゃ驚くわな。まあいいだろう。時間はたっぷりある。しばらくじっくりと考えてみたらどうだ。これは、ものすごいチャンスだと俺は思っているし、お前には是非このチャンスをつかんで欲しいと思っている。いつでも相談にのるから、一度じっくりと考えてみてくれ。」
祐希「わかりました。課長、ありがとうございます。課長のそのお気持ちはすごく嬉しいです。でも、俺には実家の家族もいますし、いろいろと考えることもあります。お言葉に甘えて、少しお時間いただいてもよろしいでしょうか。」
富永「経済的なことに関しては、俺も会社に交渉するつもりだ。大学に行くといっても、お前だって金銭的な心配もあると思う。そこは、俺と宮下部長がなんとかするから。」
祐希「わかりました。1週間お時間いただけますか。」
富永「1週間でも、1か月でも納得がいくまで考えてみろ。俺はいつでも相談にのるつもりだ。」
祐希「わかりました。ありがとうございます。」
富永との面談はそこで終わった。祐希は何事もなかったかのように、仕事に戻った。とはいえ、今聞いた話は本当に信じられないようなことばかりだった。IQテストで1位だとか、海外の大学だとか、ほんの30分前までは想像もしていなかった話ばかりだった。
たしかに、富永課長の言う通り、これは彼にとっては大きなチャンスだと思えた。ただ、祐希には二つ気になることがあった。ひとつは、交通事故で長らく寝たきりになっている父親のこと、そしてやはり千波のことだった。実家の経済的な状況も気になるところだった。母親が働いているとはいえ、まだ弟も高校生だし、妹にいたってはまだ幼稚園の年中なのである。千波のことも彼には重要である。もし、大学に行くということになれば、たとえ彼女とはいえ、同伴して連れていくことはできないと思われた。ましてや、海外となった場合、かなりの遠距離恋愛となり、そもそもこの広い太平洋を挟んだ遠距離恋愛を維持できるのか自信がなかった。この話を聞いたら、千波がどんな反応をするのかも気になることろである。その日の祐希は、ほとんど仕事が手につかなかった。




