第3章 福田ワールド
祐希は、昼休みはいつも会社の大食堂で社食を食べている。食堂といっても、メニューは、日替わり定食、カレー、ラーメンといったメニューくらいしかなかった。値段は破格の安さだったが、どうやったらこんなに不味いメシを作れるのか、一度しっかりと追及したいくらい不味いのである。
山下「つうか、今日の定食のおかずも相変わらずまずいな。もう底なしの不味さ。みそ汁もほとんど茶色いお湯じゃねえか。」
祐希「おい、あそこ見てみろよ。ほら、あの左側のちょっと先のテーブル。」
山下「小林と中村と、あれ誰だっけ、あとの二人。」
祐希「三崎さんと、田中さんだよ。あの、野球部の。」
山下「で、あいつらがどした。」
祐希「あいつらさ、この正気とは思えないほどのこの不味いメシを食いながら、よく談笑できるよな。見ろよ、あの笑い顔。」
山下「確かに、このメシを食いながら、あの笑顔は俺には不可能だわ。」
祐希「だよな。先週、中村が言ってたけど、『食堂の定食って結構いけるよな』だってさ。いやいや、ありえねえし。あいつんち、どんなもん普段食ってるんだろ。」
山下「まじで、そんなこと言ってたのか。終わってるな、中村。」
千波「おお、おふたりさん。どした。」
祐希「おお、千波。ここ座れよ。」
千波「いやいや、あっちの先輩のところに行くわ。あのね、女の世界はいろいろあるのよ。」
山下「沢田(千波)さんも大変だよな。」
千波「おお、山ちゃん、久しぶり。今度、三人でメシ行こうよ。」
山下「つうか、誰かかわいいお友達つれてきてよー、千波さーん。」
千波「あれ、山ちゃん、藤崎ちゃんとは別れたの。」
祐希「おい、千波。」
山下「うわ、いきなり、直球かよ。ぐさっときたよ。」
千波「いやー、ごめんごめん。わかった、誰か連れてくるよ。じゃ、また今度ね。」
祐希「おう、また土曜日な。」
千波は、同じ職場の先輩たちのところに行ってしまった。なんだか、女の世界は男どもが考えるより大変なのかもしれない。
祐希「で、結局、藤崎とは終わったわけ。」
山下「まあ、いろいろあってな。いろいろあるんですよ、俺もさ。」
祐希「まあ、そんな話したくないならいいけど。」
山下「あいつさ、浮気してたんだよね。まあ、詳しくは言いたくないけど。」
祐希「おお、あの藤崎が。あんな真面目な感じなのに。かなり意外だな。」
山下「あいつさ、ああ見えて、結構惚れっぽいっていうか、なんかさ。言い寄られると、ふらっといっちゃうみたいな。」
祐希「竹内とかどう。」
山下「殺すぞ、てめえ。」
昼休みは、1時間あるため、昼食後は自分のデスクで寝ているか、外でキャッチボールをするのが日課になっていた。
祐希「俺、千波とキャッチボールしてくるわ。」
山下「そか、沢田さんも練習熱心だね。」
祐希「なんか、来月試合があるみたいでさ。」
山下「まあ、彼女孝行してやれよ。」
千波はソフトボール部に所属しており、ポジションはピッチャーだった。祐希は、千波の試合が近くなると、かなりの頻度で練習の相手をさせられるのだった。千波は腕は細いのだが、信じられないほどの球を投げてくる。しかも、左利きである。
千波「じゃあ、今日は20球投げるから。」
祐希「あんま時間ないから、始めるか。」
大谷「おう、沢田、練習してんの。祐希も大変だね。いつも突き合わされて。」
祐希「大谷さん、久しぶりっす。」
千波「じゃあ、まずは肩慣らしからいくよ。」
千波がゆっくりと、少し遅めの直球を投げてきた。チェンジアップである。ただ、なぜかソフトボールは野球のボールよりも大きいせいか、球がズドンという感じでグローブに入ってくる。それと、野球と違って、上にあがっていくライジングボールというのがあり、そのボールはかなり捕球が難しかった。
何球か、チェンジアップとストレートを投げ込んだ後、3球ほどカーブを投げてきた。これも、祐希にはなかなか捕球が難しいのだが、なんとか捕球することができた。そのうち、昼休みも終わりになりつつあったので、千波も祐希も職場に戻った。
千波「祐希、ありがと。また土曜日ね。」
祐希「おう、またな。」
だいたい、ソフトボールの試合が近づくと、週に2回くらいは昼休みの投球練習に付き合わされる。まあ、軽い運動と気分転換になるため、祐希としては特に苦にもならなかった。職場に戻ると、すでに全員揃っていた。
富永「おう、橘、いい汗かいてきたか。」
祐希「いい気分転換ですよ。課長も今度いかがですか。」
富永「いいよ、俺は。そんな体力ないって。」
祐希「飲んだ翌日は、汗かいて、酒を抜かないとですよ。」
富永「そうだな。見ろよ、福山なんか、また昨日と同じ服着てるよ。またあいつ、あのまま飲み屋で朝までコースだったんだよ。全然、仕事になってねえな、あいつは。飲み屋から出勤するのは、禁止しなきゃいけねえな。」
祐希「ほとんど、毎週ですもんね。病気ですよね。」
富永「いいか、橘、おまえはあんな風になるなよ。」
祐希「いや、俺はあそこまで酒好きではないですから。」
富永「それとな、あの福田いるだろ。あいつも困ったやつなんだよ。」
祐希「福田さんがですか。すごい、真面目な人じゃないですか。」
富永「お前、気づいていないのか。あいつ、ボーナスもらうと、その後一週間ほど行方不明になるんだよ。」
祐希「そういえば、確かに有給休暇で休んでますよね。実家に里帰りしているんじゃないんですか。」
佐山「祐希君、知らないの。福田さんはね・・・・」
富永「いや、佐山やめとけ。その話は。」
祐希「うわ、なんですか、それ。めちゃくちゃ気になるじゃないですか。」
福田は、祐希の10歳年上の男性の先輩で、同じ課の課員だった。一応、主任という役職がついているが、まだ独身だった。仕事ぶりは極めて真面目で、ほとんど休むこともなく、勤務態度は極めて良好な人物だった。ただし、祐希もうすうす気になっていたが、確かにボーナス日からいつも一週間くらい姿をくらまし、会社にも来ていなかった。彼は確か関西のほうの出身だったため、祐希は福田は普通に帰省しているものだと思っていた。その一週間のあいだ、どこで何をしているのか、非常に気になった。
その日は午後7時には仕事が終わり、寮に戻ることにした。帰りは一人で歩いて帰った。相変わらず、山下はまだ帰っていなかった。あいつは、本当は仕事が好きなのかもしれない。夕食は、会社の大食堂で済ませてきた。毎日、午後5時半になると、大食堂で食事ができるのだった。だいたいは、寮生、残業する人、2交代勤務の人たちが、そこで夕食をとるのである。祐希も同期の何人かとそこで食べてから帰宅した。小林や中村は実家から通っているので、そこで夕食をとることはなかった。
北見「おう、祐希。いま帰宅かい。」
祐希「あ、北見さん。風呂ですか。」
北見「そう、俺も今帰ってきたとこだわ。」
祐希「北見さん、あとで部屋行ってもいいですか。」
北見「いいけど、どうした。なんかあったか。」
祐希「いや、めちゃめちゃ気になることがあって、知っていたら教えて欲しいんですよ。」
北見「あ、そう。おう、わかった。いいよ。」
祐希も風呂に入り、部屋に戻った。部屋に戻ると、山下が帰ってきていた。
祐希「おかえり、今日は早かったな。」
山下「いや、もう限界だわ。どんだけ人使いあらいんだよ、この会社は。」
祐希「風呂入ってくれば。」
山下「ああ、いや疲れたわ、まじで。」
祐希は、洗面所で髪を乾かしたあと、北見の部屋に行った。
祐希「北見さん、います。」
北見「おう、入れよ。」
北見は、大卒社員ということで、8畳間を一人で使っていた。ここは、給料日前のたまり場になっている部屋である。部屋のあちこちに、酒瓶が置いてあり、段ボール箱には乾き物のつまみがたくさん入っていた。
北見「なんか飲むか。」
祐希「あ、俺、買ってきますよ。ビールでいいですよね。」
北見「おう、頼むわ。」
そう言うと、北見は祐希に千円札を渡した。寮の1階には自動販売機があり、そこで冷えたビールが買えるのである。祐希は、500mlの缶ビールを2本買い、北見の部屋に戻った。
北見「で、なんだ、気になることって。」
祐希「ああ、あの福田さんって、ボーナスもらったら一週間くらいいなくなるじゃないですか。今日、課長と佐山さんがその話をしかけたんですけど、結局教えてくれなくて。」
北見「ああ、あれね、鶯谷だよ。有名じゃんか。」
北見は缶ビールを開けながら答えた。祐希も缶ビールを開けた。
祐希「はい、鶯谷ってなんですか。」
北見「お前、知らないのか。昔、吉原って言われていたところだよ。」
祐希「吉原って、昔、遊郭とかあったところですか。」
北見「そうだよ。今は、ソープ街だよ。」
祐希「ソープって、あのソープですか。」
北見「そうそう。福田さんって、女と付き合ったことないらしいんだよ。でさ、ボーナス入ると、一気に全部使っちゃうんだよ。」
祐希「まじっすか。ボーナスがなくなるまで、戻ってこないってことですか。」
北見「そういうこと。」
福田くらいの年齢で、しかも主任という立場なら、それなりにボーナスをもらっているはずであるが、それをすっからかんになるまで、ソープランドで一気に散財するというのである。
祐希「そうか、だから課長は、その話は止めろって、佐山さんに。」
北見「つうか、お前今まで知らなかったのか。おめでたいやつだな。竹内でさえ、知ってると思うぜ。」
なんか、祐希は自分だけそんな重要な秘密から遠ざけられていたことを知って、がっかりしてしまった。それにしても、あんなに真面目な顔をして毎日会社で仕事をしている、あの福田さんが、そんなことをしているなんて、彼には少し意外だった。
北見「お前さ、福田さんのまえで、そういう話しないほうがいいぞ。」
祐希「なんでですか。」
北見「そんな話したら、お前も福田ワールドに引き込まれるぞ。お前、福田ワールドを甘く見ないほうがいいぜ。」
祐希「福田ワールド。なんですか、それ。」
北見「お前も、鶯谷に拉致られるんだよ。そして、どっぷりとあの世界にはまってしまうんだよ。」
祐希「こわ。」
その福田ワールドが実際は怖い世界なのか、お花畑の世界なのか、祐希には知る由もなかったが、少なくとも彼には縁の無い世界だった。彼は、千波の相手だけでじゅうぶんだったからだ。




