第29章 女同士の話
野口は山下からの告白を受けて、彼と付き合うことにしたものの、いろいろと悩むことが多かった。特に、成人した者同士の真剣な交際という経験は初めてだったため、今後どのように山下と向き合えばよいかわからなかった。当然、大人の関係になることも予想できたし、その際に彼を受け入れてよいものが、それともまだもう少し時間をかけるべきかということでも悩んでいた。彼女は短大も女子短大だったうえに、高校も私立の女子高だったため、ほとんど男性と真剣に向き合った経験はなかった。要するに、彼女にしてみれば、男性というだけで、ほとんど未知の存在に近かった。そもそも、今の会社に入社するまでは、男性といえば父親や弟、従兄弟くらいしか口をきいたことがなかった。山下は優しい男だということはわかっていたが、二人きりになると一体何を話していいのかわからなくなることが多かった。
千波「あれ、野口さんじゃん。これから帰るの。」
野口「千波さん、こないだはありがとうございました。楽しかったです。また、誘ってください。」
野口は先日、千波たちと行ったダブルデートのことでお礼を言った。彼女にしてみたら、あんなに長時間を異性といろいろなことをして過ごすのは、生まれて初めての経験だった。その時の不安を取り除いてくれたのが、千波だったのである。野口にしてみたら、あの時の千波の存在はものすごく頼りになるものだった。
野口「千波さん、今日、これからお時間ありますか。」
野口は、今後山下と交際するにあたって、知りたいことが山のようにあった。ようするに、女性にしか聞けないようなこともたくさんあった。
千波「どうしたの。山ちゃんとなんかあった。」
野口「いや、山下君はすごい優しいですし、何かあったわけではないんですが。」
千波「いいよ。じゃあ、これからどっかでご飯しようか。」
野口「ええ、私、車なんで飲めないですけど、いいですか。」
千波「じゃあ、私は飲んでもいいかな。」
野口「ええ、大丈夫です。私が寮までお送りします。」
野口は、よく家族で利用するという、長野市内の和食店に千波を連れて行った。その店には、個室があるため、店に行く前に電話で個室を予約しておいた。平日の夜ということで、幸い個室の空きがあった。車で20分ほど走ったところにその店はあった。入り口にライトアップされた和風の門があり、そこをくぐると引き戸があった。入り口の左側には大きな池があり、池の中には照明が埋め込まれており、その中を錦鯉がゆうゆうと泳いでいた。庭はかなり意匠にこだわりを持った作りになっていた。
引き戸を開けて、中に入ると、薄暗い石畳の通路が伸びていた。足元はライトで照らされ、天井からは薄暗い照明の光がそそいでいた。右側の壁面は黒く塗られており、左側面は全面ガラス張りになっていて、庭園を見渡せるようになっていた。中に入って、すこし奥に進むと、和服を着た若い女性と年配の女性の2人がおり、「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。年配の女性のほうは、野口のことを知っているようで、すぐに分厚いメニューを2冊かかえて、個室に2人を案内してくれた。
個室のなかは、寒くもなく、暑くもなく、ちょうどよい温度に空調されていた。天井からは、和紙でくるまれた照明が3つ異なる高さに吊ってあり、部屋の中央には4人掛けのテーブルが配置されていた。野口と千波は向かい合うように席についた。
野口「千波さん、お魚が好きだって聞いたものですから。和食がいいかなと思って。」
千波「すごいきれいなお店ね。初めて来たよ。よく来るの。」
野口「ええ、うちの父が共同オーナーの一人なんです。でも、ここはそれがなくても、おいしいから来ますね。」
千波「そうなんだ。野口さんって、結構資産家のご家庭なの。」
野口「いえ、そんなことはないですよ。ごく普通の家庭です。本当に日本全国の数ある家庭のちょうど平均みたいな家庭ですよ。」
千波「いや、うちよりかは上だね。うちは、家族でこんな店来ないもん。」
野口「千波さん、お腹空いてませんか。あ、そうだ、ビールでいいですか。」
千波「いいの。私だけ飲んだりしてさ。」
野口「いいですよ。私から誘ったんだし。」
千波「そっか、じゃあ、お言葉に甘えて。」
野口「料理はどうしますか。何か、食べられないものとか、ありますか。アレルギーがあるとか、嫌いなものがあるとか。」
千波「私ね、好き嫌いっていっさいないの。アレルギーもないし。なんか、野口さんのお勧めあるかな。」
野口「じゃあ、私がお勧め料理をいくつかチョイスしますね。ここ、お魚がおいしいんですよ。」
千波「ありがとう。お任せしてもいいかな。」
野口「じゃあ、お店の人呼びますね。」
野口は店員を壁にあった電話で呼んだ。まもなく、先ほどの年配の女性がやってきた。
野口「生ビールをジョッキで。それと、私はウーロン茶をお願いします。」
その後、野口はメニューを指さしながら、料理を頼んでいた。どれも、千波が好きそうなものばかりだった。かなり気が利く子だなと千波は感じた。そして、まずは飲み物が運ばれてきた。
野口「それじゃあ、乾杯しましょう。」
千波「そうだね。」
二人「乾杯。」
千波はビールをぐいっと飲んだ。よく冷えたおいしいビールだった。グラスもきれいに洗浄されており、そしてあらかじめ冷凍庫で冷やされていた。
千波「おいしいね、ここのビール。」
野口「そうですか。私、炭酸が飲めないので、ビールって飲んだことなくて。」
千波「炭酸が飲めないの。」
野口「そうなんです。なんか、炭酸ってお腹のなかで膨れるような感じがして、気持ち悪くなるんですよ。」
千波「いやー、じゃあこの仕事帰りの一口目のビールの美味しさを知らないわけね。ちょっと、損しているね。」
野口「よく言われます。なんか、一口目のビールって、みなさん美味しそうに飲まれますもんね。うらやましいです。」
千波「でもさ、他に美味しいお酒いろいろあるしね。」
野口「ええ、そうですね。」
千波「で、何か私に話があったんじゃないかな。なんか悩んでいるとかかな。」
野口「実は、私、今まで男性と真剣に交際したことがなくて。今回、山下君とお付き合いすることになったのは、嬉しいんですけど。」
千波「うんうん。」
野口「こう男性と付き合うって、いろいろとわからないこともあって。」
千波「要するに、男と女の関係になったらってことなんじゃないの。」
野口「ええ、それもあります。みなさん、どうなさっているのかなって。」
千波「まあ、そりゃ悩むわよね。わかるよ。私だって、こんなキャラだけど、最初はいろいろと戸惑ったしね。」
野口「やっぱり、セックスって・・・。」
千波「まあ、しているわよね。この年になると。」
野口「そうですよね。でも、私はそういうの全然知識も経験もなくて。」
千波「それは大丈夫よ。最初はすっごいドキドキするけど、慣れてくるしね。」
野口「やっぱり、最初は痛いんですか。」
そこで、野口が注文した料理が運ばれてきた。きれいなガラスのお皿に、5種類の刺身が盛り付けられていた。かなり見た目も凝っていて、まるで美しいオブジェのような一品だった。刺身とともに、2人分の茶碗蒸し、ごま豆腐、そして小鉢に入った酢の物が運ばれてきた。それらの料理を運び終えると、給仕の女性は部屋を出ていった。
千波「最初は痛いわね。血も出るし。もうね、私のときなんか、びっくりするくらい血が出てさ。祐希なんかあせっちゃって。」
野口「千波さんの最初の人なんですね。」
千波「そうよ。私も女子高だったから。それまで、そういうのなくてさ。」
野口「山下君はどうなんだろう。やっぱり、向こうから誘ってくるのかな。誘われたら、どう言えばいいですか。」
千波「まだだと思えば、少し時間をもらえばいいよ。山ちゃんは、そんな獣のように襲ってくるような人じゃないし。野口さんの気持ちを大事にしてくれると思うよ。」
千波は、箸を取り出し、お刺身を一口食べた。
千波「おいしいね。この刺身って鯛だよね。」
野口「どんどん召し上がってください。」
少し間をおいてから、野口が再び話し出した。
野口「山下君ってすっごい優しいんですよ。」
千波「基本的に、祐希とつるんでいる人たちって、全員いい人ばかりだよ。まあ、アホも多いけどね。でも、彼らは、憎めないアホだから。」
野口「そうですね。たしかに、アホなところありますよね。」
そう言うと、野口は少し笑った。照明の具合か、野口の顔には少し影がかかっていて、それがなお一層、彼女の美しさを引き出していた。完璧な二重瞼の大きな目、整った鼻筋、淡い桃色の少し厚めの唇、そして白くなめらかな健康的な肌。どのパーツを見ても、整っている顔立ちだった。会社の美人コンテスト3位というのは確かに納得できる美しさである。
千波「おいしいね。茶碗蒸し、冷えないうちに食べたら。」
野口「あ、はい。そうですね。」
野口の箸の持ち方も、マナー本に出てくる基本形のようなきれいな持ち方だった。食べるときの所作も、そつなく非常に洗練されている。かなり、厳しく躾されて育ったような印象である。
千波「野口さんって、きれいな食べ方するよね。もう見ていてわかるわよ。ご両親から、きちんと躾られて育ったんだなって。」
野口「ええ、うちはどちらかというと、祖父母がそういうことに厳しくて。箸の持ち方とかは、祖母から結構躾けられました。」
千波「やっぱりね。そういう育ちの良さってにじみでるものね。」
そのうち、給仕の女性が、ミニ鍋を運んできた。鍋を2人の前に配置すると、固形燃料に火をつけてくれた。ポン酢の入った、ちいさなお椀を鍋の横に配膳して、部屋を出ていった。
千波「なんか、いろいろ頼んでくれたのね。ありがとう。全部、おいしいよ。」
野口「ありがとうございます。千波さんって、すっごい美味しそうに食べますよね。見ていると、こっちまで嬉しくなってしまいます。」
千波「そうよ。あのね、食事に誘われたら、絶対にニコニコして美味しそうに食べることよ。そうすれば、そこにいる全員がハッピーな気分になれるから。」
野口「ええ、確かにそうですよね。千波さんが食べているときの嬉しそうな顔を見ていると、すっごい私まで嬉しくなってきます。」
千波「まあ、私の場合は、本当に美味しいから、美味しそうな顔をしているだけなんだけどね。でもね、人って案外、他人の様子をなんとなく見ているからね。表情って大事だよ。」
野口「そうですね。千波さんの言う通りだと思います。」
千波は美味しそうに茶碗蒸しを食べた。そして、ミニ鍋が煮立ってきたところで、鍋をつつきだした。
千波「この鍋に入っている鱈、美味しいね。」
野口「でも、なんかもし山下君とそういう雰囲気になったら、ドキドキします。」
千波「まあ、女に生まれてきた以上、遅かれ早かれよ。要は、野口さんが納得して次のステップに進むかどうかじゃないかな。そこは、男と女は違うからね。男は性欲ありきで突っ走るけど、女はそういうわけじゃないから。」
野口「すっごいわかります。最後は自分が納得できるかどうか。うん、そうですよね。」
千波「あせることなんてないのよ。山ちゃんなら、野口さんのこと待ってくれると思うし。あの子、アホなところあるけど、根はすっごい良いやつだからね。」
そのうち、ノドグロの煮つけが運ばれてきた。
千波「いやん、ノドグロじゃない。大好きなのよ。これって、ご飯欲しくなるよね。」
野口「千波さんと話せて良かったです。」
千波「ねえ、ビールおかわりしていい。」
野口「ええ、勿論です。」
千波から見ても、野口の品の良さは際立っていた。山下が夢中になるのも理解できるような女性である。こういう子は、変な男に誘惑される前に、ちゃんとしたまともな男性と結ばれるべきだと思えた。そういった意味では、山下という男はかなり理想に近い男性だった。しかも、祐希とも仲が良いので、千波としても彼のことはかなり理解しているつもりである。だが、実際に山下の彼女という立ち位置になったときに、彼がどのように振舞うかは、また別の問題である。男女の関係というものは、それほど簡単ではないし、この先には苦しいこともあるだろうと思った。
でも苦しみながらも、なぜ人は恋愛をするのだろうか、千波にはわからなかった。でも、人を好きになることに理由なんてないし、恋愛をすることに理由なんて必要なんてないのではないか。好きだから好き、恋愛したいから恋愛をする。千波は、それで十分だと思えた。
千波「ねえ、野口さんは、人はなぜ人を好きになるか、考えたことある。」
野口「ええ、考えたことはあります。でも、考えても考えても、はっきりとした理由なんてわかりませんでした。多分、理由なんてないんですよ。世の中、答えの無い問いかけってたくさんあると思います。」
千波「例えば。」
野口「そうですね。人はなぜ生きるのか、とか。」
千波「そうか。人はなぜ子孫を残すのか、とか。」
野口「そう、それもそうですよね。でも、そういう答えの無い問いかけと共存していく力も必要かなって思います。」
千波「そうだね。答えが欲しくても、得られない問いってあるわけだし。だからといって、それをどうするかっていう答えもないわけだし。」
野口「ええ、まあ禅問答みたいですよね。」
そう言うと、野口は少し笑った。




