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第10章 匂い

 今週の土曜日は、千波と朝から出かけることにした。千波が冬の海を見たいと言ってきたのである。よって、土曜日の朝は少し早めに起床して、千波の寮の前に迎えに行った。まだ、午前6時前だった。


 千波「昨日の夜、頑張ってお弁当作ったのよ。」


 祐希「女子寮ってキッチンあるの。」


 千波「あるわよ。結構、自炊している人多いし。」


 祐希「そうなんだ。で、何作ったの。」


 千波「さすがに、揚げ物は面倒だったから、おにぎりと、卵焼きと、タコさんウインナー焼きくらいだね。あと、果物も切ってきた。」


 祐希「十分じゃん。」


 千波「さあ、行こう。冬の日本海。」


 長野市は陸の孤島で、当時は高速道路も新幹線も開通していなかった。長野市は長野県のなかでも、北のほうに位置しているため、海と言えば、日本海側の新潟の海に行くのが通例だった。季節が冬だったため、観光で長野から新潟方面に向かう車は少なく、ほとんどが物流のためのトラックや、業務用の車両などが走っていた。


 千波「なんかさー、久しぶりのドライブだね。」


 祐希「志賀高原以来かもな。」


 千波「そうだよね。外は寒そうだよねー。」


 祐希「海も寒いぜ。風とかビュンビュンきてるよ。」


 千波「そうか、祐希も海生まれだもんね。」


 祐希「そうそう、冬の日本海は波が高いからね。」


 千波「長野人ってさ、普段海を目にすることないじゃん。だから、海に行くときって、すっごいテンション上がるんだよね。」


 祐希「でも、冬の海だぜ。」


 千波「いいの。冬の海も好きよ。なんか、神秘的じゃない。」


 祐希「そうかなー。俺は、長野の冬山のほうが、神秘的だけどな。」


 長野市から冬の国道を走ると、新潟の直江津までは、約2時間半かかった。その後、さらに柏崎の海水浴場まで向かった。誰もいない海水浴場の駐車場に車を停めた。まだ、昼前だった。


 空には、うっすらと雲がはるか彼方にまでかかっていた。その空高くにかかった薄い雲の何箇所かには、小さな隙間があるようで、そこからは陽の光が筋状になって、海面にそそいでいた。まるで、薄い光の柱が、広い範囲に渡ってランダムに立っているように見えた。光があたっている海面はキラキラと光っていたが、その他の海面は鈍い鉛色に見えた。海の遥か彼方には、何艘かの船舶が見えたが、あまり詳細までは見えなかった。波は冬の日本海とは思えないほど穏やかだった。


 千波「きれいねー。ほら、キラキラ光っているよ。うわー、本当にきれい。」


 千波はご機嫌だった。ほとんど、冬の海には来たことがなかったようで、千波はひたすら感動しているようだった。祐希からしたら、普通の冬の海だったので、その千波の感動の仕方に感動しそうになった。


 祐希「そんなに感動するのか。普通の冬の海じゃないか。」


 千波「だってー、きれいじゃん。あの、太陽の光の筋とかさ。」


 千波は、車の外に出て、砂浜のほうに歩き出した。祐希も車のエンジンを止め、ドアをロックしてから、後に続いた。冬の日本海にしては、今日は波がほとんどなく、おだやかな海だった。海岸線に近づくにつれて、波の音がだんだんと近づいてきた。


 祐希「千波、靴が濡れるぞ。」


 千波は、ほとんど波打ち際にまで入っていっていた。


 千波「いいの。」


 千波は、波打ち際にそって、海岸線を歩いて行った。風は比較的強く、千波の髪の毛が風で乱れていたが、彼女はほとんど気にしていないようだった。


 祐希「風が強いね。髪の毛、めっちゃ乱れてるよ。」


 千波「冷たいけど、気持ちいいね、この風。」


 祐希「千波、寒くないか。」


 千波「大丈夫、平気。」


 千波は、ゆっくりと波打ち際にそって、歩いて行った。車を停めたところから、右手のほうに歩いて行っているため、東のほうに歩いて行った。この雲がなければ、海の向こうに佐渡島が見える場所なのだが、その日は島は見えなかった。


 祐希「今日は佐渡島が見えないね。」


 千波「雲が出ているからね。快晴だったら、見えるんだけどね。」


 祐希「でもさ、なんで冬の海なん。」


 千波「なんかね、ずっと前から、彼氏ができたら、一緒に冬の海を見に行ってみたいと思っていたの。」


 祐希「へえ、そうなん。じゃあ、その願いが叶ったってことか。」


 千波「そう。ずっと前から、彼氏ができたらしたいなって思っていたことが、いっぱいあるのよ。」


 祐希「他には、何があるの。一緒にやろうよ。」


 千波「そんなにいっぺんにはやらないわよ。少しずつ、少しずつね。」


 祐希「そっか。いいよ。何でも、付き合うよ。」


 千波「ありがと、祐希。全部いっぺんにやったら、つまんないからね。祐希ってさ、優しいね。」


 祐希「そうか、普通だと思うけど。」


 千波は、後に続いて歩いていた祐希のほうを振り返り、ゆっくりと祐希に近づいてきた。そして、祐希の腕に抱きついてきた。


 千波「祐希ってさ、祐希の匂いがあるよね。」


 祐希「え、俺なんか匂うか。」


 千波「いや、臭いっていうわけじゃなくて、祐希の匂いがあるの。」


 祐希「どんな匂い。なんか気になるな。」


 千波「なんかね、男の体臭とほんのりとタバコの匂いが混ざっているの。」


 祐希「まあ、タバコは吸うからね。つうか、そんな体臭するか。」


 千波「そんなにきつい体臭じゃないわよ。ほんのりと匂うの。その、祐希の匂いが大好きなのよ。」


 そう言うと、千波は祐希の体に鼻をつけてきて、くんくん匂いをかぎだした。祐希の体に顔をうずめ、大きく息を吸い、また吐いた。


 千波「そうそう、これこれ。この匂いなのよ。なんかね、落ち着くんだよね。この匂いをかぐとさ。」


 祐希には、自分独自の匂いがあるなんて考えたこともなかった。別に香水みたいなものをつけたこともないし、普通に生活しているだけだった。今まで、他人から体臭のことを言われたことなんてなかった。


 千波「お弁当食べようよ。」


 しばらく海辺を歩いているうちに、昼になっていた。二人は車に戻って、千波が作ってきたお弁当を食べた。


 祐希「おにぎり、おいしいよな。こういうさ、手作りのおにぎりが一番うまいよ。」


 千波「でしょ。この塩加減とか絶妙でしょ。」


 祐希「うんうん、おいしい。」


 千波の作ってきた、おにぎり、卵焼き、タコさんウインナー焼きは、どれも素朴な味で、とても美味しかった。


 祐希「なんかさ、こういう普通の食べ物が一番美味しいよな。」


 千波「やっぱさー、日本人って米食って、なんぼだよね。」


 祐希「言えてる。」


 その後、近くの海沿いのドライブインに入った。二人とも、そこでトイレを済ませ、ドライブインの中にある、カフェ・コーナーで温かい飲み物を飲むことにした。建屋に中には、食事コーナーや、お土産コーナーなどがあり、それなりに人が入っていて、にぎわっていた。二人は、ホットコーヒーを買い、海が見える席に並んで座った。


 千波「ねえ。」


 祐希「ん、どした。」


 千波「春になったらさ、一回、東京に行ってみない。」


 祐希「東京。なんで。」


 千波「なんかさ、一回さ、田舎者丸出しで、東京観光してみたいんだよね。あの、はとバスに乗ったりとか、東京タワーに登ったりとかさ。」


 祐希「いいけどさ、俺はぜんぜん東京の土地勘がないぜ。」


 千波「いいの。大丈夫。そんなのどうにでもなるよ。東京ってさ、ああ見えて、巨大な田舎者の集まりだからね。」


 祐希「そうなん。」


 千波「そうよ。東京に住んでいる人で、東京で生まれ育った人って案外少ないって聞いたよ。」


 祐希「俺さー、都会とか興味ないんだよね。特に、東京ってなんかあんまり具体的なイメージもわかないし。」


 千波「祐希だって、もしかしたら東京に転勤になることもあるかもしれないよ。」


 祐希「いや、東京は勘弁して欲しいね。滝田さんが、一度遊びに来いって言ってくれているけどね。」


 千波「まあ、うちらお互い田舎者だしね。」


 祐希「田舎者でぜんぜん俺は幸せだよ。」


 千波「まあね。地方には地方の良さがあるし。私も長野が好きだし。」


 祐希「まあ、春になったら、一度行ってみるか。」


 千波「行こうよ。二人で行こう。そうだ、ディズニーランドにも行きたい。」


 祐希「じゃ、お金貯めなきゃだな。」


 昼を少し過ぎた、午後2時ごろになって、長野に戻ることにした。あまり遅くなって、雪に降られるのが嫌だったのだ。


 千波「さて、帰ろうか。またずっと下道。」


 祐希「せめて、高速道路だけでも開通してほしいよな。」


 千波「そのうち通るよ。」


 帰りの車の中では、いつの間にか千波はすやすやと眠りだした。千波は寝ているときは、本当に静かである。ほんのかすかな息遣いだけが聞こえてくるだけで、気持ちよさそうに眠っていた。若い女性でも、いびきをかく人もいあるようだが、千波に関して言えば、彼女がいびきをかいているのを聞いたことがなかった。本当に、すやすや眠るという表現がぴったりである。祐希は、小さい音で、ラジオを聴きながら運転した。長野市内が近づき、国道18号線のいわゆるアップル・ロードと呼ばれるあたりに来たところで、千波が目を覚ました。この辺は、国道の両脇にリンゴ園がずっと広がっているのである。


 千波「なんか、ずっと寝てたよ。ごめんね。」


 祐希「いいよ、別に。千波は、疲れてたんだな。少しはすっきりしたか。」


 千波「いや、まだ頭の中がぼんやりしてる。」


 祐希「で、晩御飯とホテルどっちが先。」


 千波「んー、どうお腹空いてる。」


 祐希「食欲と性欲を比較した場合、ちょっとだけ性欲のほうが上かも。」


 千波「いいよ。今日はずっと運転してもらっているし。祐希の希望通りにしましょう。」


 ホテルを出ると、もうかなり遅い時間になっていた。


 祐希「いっかい、寮の方に戻って、駐車場から歩いて居酒屋に行こうか。俺も飲みたいし。」


 千波「いいよ。そうしよう。」


 祐希は寮の裏手の自分が借りている駐車場に車を停め、そこから二人で歩いて、小澤さんがやっている居酒屋に行った。


 小澤「はい、いらっしゃい。ああ、橘君と彼女さんね。空いているとこ、どこでもいいよ。」


 祐希「あ、大将久しぶりです。」


 二人は奥のテーブルについた。時間も遅かったので、すでに店内の客はかなり少なくなっているようだった。ただ、大広間では団体客がまだ、わいわい騒いでいたし、テーブル席でも、まだ何組かが食事をしていた。


 千波「大将、とりあえず、生ビール大2つと枝豆お願いします。」


 小澤「あいよ。すぐお持ちしますね。」


 千波「祐希、好きなもの選んでよ。私はなんでもいい。」


 祐希「じゃあ、千波の好きな、お刺身盛りいこうか。」


 千波「今日さ、海まで行ったんだから、お魚買ってくればよかったね。」


 祐希「あ、そうだよね。まあ、いいじゃん。」


 千波「いまさらだよね。」


 そのうち、ビールが運ばれてきたので、二人で乾杯をした。


 祐希「いや、たまらんね。この1杯目のビールってなんでこう美味いんだろうね。」


 千波「おいしいよねー。実はね、お酒を飲むのも、私が彼氏ができたら、一緒にしたかったことのひとつだよ。」


 祐希「へぇー、つうか何回も飲んでるじゃん。」


 千波「これがさ、飲めない彼氏だったら、かなりテンション下がると思うよ。まあ、祐希は強くはないけど、一応飲めるからね。」


 祐希「いや、俺が普通で、千波が異常なんだよ。なんだよ、この間の大ジョッキ7杯連続って、びっくりしたわ。」


 千波「でも、山ちゃんも飲んでたよね。」


 祐希「なんか、新潟人は酒が強いって、うちの課長も言ってたしな。たしかに、山下も強い。」


 千波「祐希は大ジョッキの生ビールなら、何杯までいける。」


 祐希「わからないけど、多分せいぜい2杯か3杯かな。」


 千波「3杯いけたら、十分だよ。」


 祐希「そうか。」


 千波「うちの課に、小泉さんっておばさんがいるのね。」


 祐希「うん、で、そのおばさんがなに。」


 千波「45歳くらいなんだけど。下戸なの。」


 祐希「ほお。ほんで。」


 千波「家にあったチョコレートを食べたら、それがチョコレート・ボンボンだったんだって。」


 祐希「ああ、あの中にお酒入っているやつか。」


 千波「そうそう。そしたらね、二日酔いになって、次の日会社休んだんだよ。」


 祐希「ええ、あれで二日酔いになるんか。」


 千波「あれ食べたあと、立てなかったって言っていた。」


 祐希「ああ、思い出した、小泉さんね。はいはい。あの面倒見のいいおばさんじゃん。あの人、すっごいいい人だよね。」


 千波「そうそう、すっごいいい人なのよおー。」


 テーブルには、頼んだ料理が次々と運ばれてきた。千波は前世が猫なんじゃないかと思えるほど、魚が好きである。特に、生の魚介類はなんでも食べる。


 千波「もー、この寒ブリめちゃ美味しい。」


 祐希「脂ののったブリってまじで美味いよな。」


 千波「この、イワシの刺身も最高に美味い。」


 祐希「ひかりものは、相当新鮮じゃないと刺身で出せないからね。でもひかりものの刺身は美味いよな。」


 祐希「俺は、この湯豆腐食べよっと。」


 千波「祐希ってさ、お豆腐好きだよね。」


 祐希「なんかね、大豆系の食べ物は全部好きだね。豆腐、納豆、枝豆とか。」


 千波「でも、揚げ物も好きだよね。」


 祐希「まあ、基本的には、男って揚げ物好きだよ。山下なんか、いっつも揚げ物食ってるもんな。」


 千波「ねえねえ、東京探検なんだけど、どこ行きたいか考えておいて。」


 祐希「ちょっと、滝田さんに聞いてみるわ。俺の今の知識じゃ、全く何も思いつかない。」


 千波「もう、ディズニーランドと東京タワーは絶対行こうね。」


 祐希「上野動物園でパンダとか見てみる。」


 千波「そうだ、上野ってね、美術館とか博物館もいっぱいあるんだよ。」


 祐希「へえ、そうなんだ。でもさ、1泊とかじゃ無理じゃねえか。」


 千波「そうねー、3泊くらいする。でも、金ねえしなぁー。」


 祐希「まあ、まだ時間あるし、ゆっくり考えようぜ。」


 そこで食事を終え、祐希は歩いて、千波を女子寮まで送っていった。最後に、千波がまた祐希の体に顔をうずめ、大きく息を吸った。


 千波「んー、そうそう、この匂い。いやー、この匂いで、メシ3杯はいけるね。」


 祐希「なんの話しとるんや。」


 千波「ほんじゃ、おやすみ。気を付けて帰ってね。」


 祐希「やべえ、帰る途中に、へんなホモのおっさんに襲われたらどうしよう。」


 千波「アホか。山ちゃんじゃあるまいし。」


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