ヒロインは今日も強面騎士を囲い込み中です
高熱にうなされた夜、わたくしは思い出した。
ここは前世で遊んでいた乙女ゲームの世界である、と。
物語の舞台である学園生活で顔が良く個性的な登場人物たちに恋心を持たれ、友情と恋を育み、幸福を掴む逆ハーレムもの。
わたくし...公爵令嬢“エリザ・レイヴンウッド”はそんな乙女ゲームのヒロインとして登場する。
けれどわたくしはその未来を拒んだ。
ヒロインは常に注目され、誰かから愛され続け、幸せになるために戦わなくてはならない。
前世では心理カウンセラーとして人の心に触れ続け、恋愛もそれなりに経験したが、最後は人に期待し、人に期待されることに疲れ果てていた。
もう、あの舞台の中心に立つ人生はいい。
だからわたくしは「病弱な、お淑やかな令嬢」を演じていた。
必要最低限だけ微笑み、必要最低限だけ話し、誰にも強く心を寄せない。
そうすればヒロインとしての運命から外れ、静かに生きていける——はずだった。
その日のお茶会も、いつも通り、端で静かに座って過ぎる時間を待つつもりだった。
だが、招待者のひとりが、予想外に目を引いた。
長身で、騎士の礼服がよく似合う青年。
長い前髪が影を落とし、瞳を隠しているが、前髪の隙間から見える鋭い眉と薄い唇が「近づくな」と告げているようだった。
口数が極端に少なく、返事は短く、会話には加わらない。
「……あれが、アーベル家の三男?」
「騎士団に所属しているらしいけれど、無愛想で、誰も近づかないとか。」
「目を合わせると睨まれたみたいで怖いのだそうよ。」
噂話の中でひっそりと名前だけが落ちていく。
レオン・アーベル。
わたくしは扇子で口元を隠したまま、そっと彼を見た。
噂されている内容は、彼の“外側”だけを撫でた浅い言葉ばかり。
人は、瞳を見れば中身が分かる。
だからこそわたくしは、見たいと思った。
この人がどんな目をしているのか。
だがレオンは、噂の渦の中心にいるにもかかわらず、まるでそこに居ないような静けさをまとっていた。
お茶会が進むにつれ、彼は人の視線と声に押されるように、庭園へと姿を消した。
わたくしは気付かれないように立ち上がり、後を追った。
人の気配が園庭の隅。
大きな樹の下の長椅子に、レオンは座り込んでいた。
背は高いのに、身体を小さく丸めて。
逃げているのではなく、傷ついているのでもなく。
ただ「どう接していいか分からない」だけの、迷子のような姿。
わたくしは隣に腰を下ろした。
驚いたように、レオンの肩がわずかに揺れる。
「……あ、えっと……す、すみません。俺、席、あけ、ます……」
「いいえ。わたくしが座りたかっただけですわ。」
そう言うと、レオンは固まったように動きを止めた。
長い前髪の隙間から、ほんの一瞬だけ、瞳が覗く。
その色は——
深く、穏やかで、澄んだ海の色。
心をさらわれる、とはこういうことを言うのだと思った。
……ああ、困ったわ。
ヒロインになるつもりなんて、これっぽちもなかったのに。
彼が欲しい、そう思ってしまった。
後日、彼――レオン・ヴァルツァーのことを調べた。
騎士団所属。
剣技は一流。
だが極端に無口で、人付き合いが壊滅的。
「強面で冷酷」という噂までついていた。
(冷酷、ではありませんわね。たぶん、ただ話せないだけ。)
幸いにも、婚約者はまだいなかった。
三男ということから婚約するのに急いでいないこと、そして噂が先回り、彼に婚約を持ちかける女性がいないこと。
(彼を捕えるのは、今しかない)
稽古場に乾いた砂の匂いが残っていた。
騎士団の面々はとっくに寮へ引き上げ、広い訓練場にはレオン様だけが残っていた。
汗に濡れた黒髪が額にかかり、長い前髪はその瞳を隠している。
わたくしは呼吸を整え、一歩、近づいた。
「レオン・アーベル様」
声をかけると、彼はわずかに肩を揺らし、ゆっくりとこちらを向く。
その動作は、警戒でも拒絶でもなく――ただ、戸惑い。
前髪の隙間から、目が合った。
あの日と同じ、澄んだ、海の色。
静かで、深くて、誰にも荒らされていない――
けれど同時に、ひどく孤独な水面だった。
ああ。
この人は、すごく優しい瞳をしている。
そのことを、誰も知らない。
……わたくしだけが知っている。
胸の奥がきゅうと熱くなる。
それは優しさでも温情でもなかった。
お茶会のときと同じ感情、
彼が欲しい。
この人を、わたくしの側から離したくない。
誰にも触れさせたくない。
わたくしだけが知っているこの瞳を、わたくしだけが見ていたい。
理屈より先に、独占欲が心を満たした。
「突然のお願いです。……どうか、どうか、わたくしと婚約していただけませんか」
言葉は穏やかに、しかし一切の迷いなく口をついて出ていた。
レオン様は目を見開き、息を呑んだ。
「……え……その……ど、どう、して、俺……?」
うつむきかけた彼の視線を、わたくしは逃さず受け止める。
「わたくしは身体が弱いせいで、これまでどなたとも婚約が進まず……両親に負担をかけていますの」
潤んだ瞳で彼を見上げると、彼の瞳は少し揺らいでみえた。
「...レオン様は騎士です。人々を守り、誠実に務めを果たすお方。
その貴方が隣にいてくだされば、わたくしは胸を張って残りの人生を生きられると、そう思うのです...」
わたくしは弱く、そして残す歳月も少ないものだと勘違いされるような言い回しをわざとする。
レオン様の“良心”を、わたくしは正確に突いた。
それは計算であり、策略であり、そして真実でもある。
レオン様は何度か言葉を探したあと。
「……わ、わかり……ました。
俺で、よければ。……よろしく、お願いします」
その声音は、不器用で、やさしい。
わたくしは微笑みながら、確信する。
これでレオン様は、もう逃げられない。
わたくしは、貴方を手放さない。
――これは婚約ではなく捕獲。
でも、きっとそれでいい。
婚約発表は、翌週には王都中に広まった。
──病弱でか弱い、公爵令嬢エリザ・レイヴンウッド。
──強面で無口、騎士団の中でも「近寄り難い」と噂されるレオン・アーベル。
その組み合わせは、どう足掻いても「綺麗な恋物語」には見えなかったのだろう。
「……レオン卿が、脅したらしいわよ。」
「断ったら家族に何かあるかもしれないって……」
「可哀想に、エリザ様……」
城の廊下で囁かれる声は、あからさまに同情に満ちていた。
まったく、失礼な話である。
わたくしは廊下の角でその噂を耳にしたとき、そっと扇子を口元に当てた。
笑いが漏れるのを隠すためだ。
(——よく言ったものね。本当に囚われているのは、どちらかしら?)
噂に怯えるのは、レオンの方だった。
その日、レオン様はわたくしのもとへ来るなり、ひどく狼狽した表情で言った。
「……あの、俺、そんなつもりは……!脅したとか、俺、そんな……っ」
言葉は途切れ、視線は床に落ちる。
大きな身体に似合わず、声は震えていた。
わたくしはそっとレオン様の前に歩み寄る。
海の色の瞳を、まっすぐ見つめる。
「知っておりますわ。わたくしが望んだ婚約ですもの。
誰が何と言おうと、わたくしがレオン様を選びました」
その言葉に、レオン様は一瞬だけ息を止めた。
わたくしは微笑み、ゆっくりと言葉を重ねる。
「だから気にすることはありません。
わたくしが守ります。噂も視線も、すべて」
包み込むように、甘い声で。
レオン様は、ただ呆然とわたくしを見つめていた。
本当は知っている。
この人は、噂のせいで誰からも距離を置かれており、騎士団であることや強靭な体格から守ることには慣れていても、守られることに慣れていない。
だからこそ――
わたくしは、この人を捕らえるのだ。
「……レオン様。どうか、わたくしの隣にいてくださいませ。
この先、逃げようなどと、思わないで?」
背伸びして、彼の唇をわたくしの指でなぞりながら、そう囁く。
レオン様は震えながらも、小さく頷いた。
「……はい……」
鎖は目に見えないところで、しっかりと絡み始めている。
そう。
囚われているのは、わたくしではなく――
彼の方なのだから。




