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第2部 第2話

「お、お嬢様……!」


 二人が絶望に顔を歪める。


「私には、もう関係のないことです。あの国が滅ぼうと、民が苦しもうと、それは私の知ったことではありません」


「そ、そんな……!」


「あなた方は、私に何をしましたか? 濡れ衣を着せられ、婚約破棄され、家族にも見捨てられ、国から追放された。そして、森の中で凍え死にかけた。もし、オリヴァー様が助けてくださらなければ、私は本当に死んでいたでしょう」


 私の声は、氷のように冷たかった。


「それが、あなた方が私にした仕打ちです。今更、助けてくださいなど、虫が良すぎるとは思いませんか?」


「お嬢様……お嬢様……!」


 侍女長が、泣き崩れる。


「ですが、お嬢様……民は、本当に何も知らなかったのです。騙されていただけなのです。どうか……どうか……」


「だから、何だというのです」


 私は、冷たく言い放った。


「知らなかった? 騙されていた? それは言い訳にすぎません。結局、あなた方は私を信じず、偽りの聖女を信じた。それが、あなた方の選択です」


「……」


「私は、もうあの国とは関係ありません。ここで、私を必要としてくれる人たちと共に生きていきます。帰ってください」


 私は、二人に背を向けた。


「お嬢様……せめて、せめてこれだけでも……!」


 侍女長が、震える手で何かを取り出した。

 それは、一枚の紙だった。いや、絵だった。


「これは……子供たちが、最期に描いた絵です……」


 私は、思わずその絵を見てしまった。

 そこには、拙い筆致で、天使のような女性が描かれていた。その周りには、笑顔の子供たちが手を繋いでいる。

 そして、下には震える文字で、こう書かれていた。


『せいじょさまが、たすけにきてくれますように』


「この子は……疫病で、亡くなりました。まだ、七つでした」


 侍女長の声が、震える。


「この子も、この子も……皆、お嬢様を信じて、待っていました。『聖女様が来てくれる』と、最期まで……」


 侍女長は、さらに複数の絵を広げた。

 どれも、子供たちが描いた、拙い絵。しかし、そのどれにも、希望に満ちた「聖女」の姿が描かれていた。


「この子たちに……この子たちに、何の罪があったのでしょう……」


 侍女長は、絵を抱きしめて泣き崩れた。

 私は、その絵を見つめたまま、動けなくなった。

 胸の奥が、きりきりと痛む。


(子供たち……)


 彼らは、何も知らなかった。何も悪くなかった。ただ、大人たちの愚かさの犠牲になっただけ。


「……お二人とも、今日はお休みください。部屋を用意します」


 私は、震える声でそう告げると、応接室を出た。

 背後で、二人が何か言っているのが聞こえたが、私にはもう聞こえなかった。


 その夜、私は一人、部屋で眠れずにいた。

 窓からアイスフェルトの王都の穏やかな夜景を見つめる。

 煌めく街の灯り。温かな家々から漏れる光。人々の笑い声。平和な営み。


 私が手に入れたこの幸せな世界と、彼らが語った地獄のような故郷。

 二つの光景が、頭の中で交互に明滅する。

 そして、あの子供たちが描いた絵が、脳裏に焼き付いて離れない。


『せいじょさまが、たすけにきてくれますように』


(私は……どうすればいいの)


 目を閉じると、子供たちの声が聞こえる気がした。


「聖女様……」


「助けて……」


「痛いよ……」


「お腹が空いたよ……」


 私は、ぎゅっと目を閉じた。


(いいえ、違う。私には関係ない。私を捨てた国のことなど……)


 しかし、前世の記憶がよみがえる。

 病院の薬剤部で薬剤師として働いていた日々。


「先生、ありがとうございました」


 笑顔で退院していく患者たちの顔。


(私は、人を救うために……この力を……)


 ノックの音がして、扉が静かに開いた。振り返ると、オリヴァーが立っていた。

 彼は何も言わず、私の肩にマントをかけてくれた。


「……眠れないのか」


「ええ」


 私は、正直に答えた。


「考えているのか。戻るかどうか」


「……わかりません」


 オリヴァーは、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「アウレリア、俺の意見を聞きたいか?」


「はい」


「君が行く必要はない」


 オリヴァーの声は、低かった。


「彼らは君を捨てたんだ。国も、王も、君自身の父親でさえも。君を追放し、濡れ衣を着せ、死地に追いやった。その彼らが、今更助けを乞うなど……虫が良すぎる」


 彼の言うことは、全て正しかった。


「それに、お前がどれほど苦しんだか、俺は知っている。あの寒い森で、凍えながらも、必死で俺を助けてくれたお前を見たときの、俺の気持ちが……」


 オリヴァーの声が、震えた。


「俺はお前に命を救われた。しかし、もし、あの時俺達が出会えなければ、お前も、あの森で凍え死んでいた。彼らのせいで、お前は……」


 彼の拳が、強く握りしめられる。

 私は、そんな彼の手をそっと包んだ。


「……ありがとうございます、オリヴァー様。あなたが、私のことを想ってくださること、本当に嬉しい」


「なら、行くな。ここで、俺と一緒に——」


「でも」


 私は、彼の言葉を遮った。


「あの子供たちは、何も悪くないんです」


 オリヴァーは、黙った。


「大人たちの愚かさの犠牲になった、罪のない子供たち。彼らに、何の罪がありますか?」


 私は、自分の手のひらを見つめた。


「オリヴァー様。私は……あの子供たちの絵を見てしまいました。最期まで、私を信じて待っていた子供たちの姿を」


 声が、震えた。


「薬師として、ただの人として、それを見過ごすことはできないのです。たとえ、どれほど私が傷ついていても……目の前で苦しむ命を、見捨てることはできない」


 それは義務感ではなかった。復讐心でも、同情でもない。

 目の前に苦しむ人がいるのなら、手を差し伸べずにはいられない。


 それが、私が前世から抱き続けてきた、変えようのない魂の在り方だった。


「以前お話ししたように、前世で私は薬剤師でした。少なくともその記憶を持っています。過労で倒れるまで、人を助けることに全てを捧げていました。そして、この世界でも私は同じ道を選んできた」


「……アウレリア」


「でも」


 私は、オリヴァーの蒼氷色の瞳をまっすぐに見つめた。


「私は、決して聖人ではありません。民は救いたい。でも、私を傷つけた者たちは、絶対に許さない」


 オリヴァーの目が、わずかに見開かれた。


「民のためでも、国のためでもありません。ただ、罪のない子供たちを救うため。そして——」


 私の瞳に、冷たい光が宿る。


「私を傷つけた者たちに、地獄を見せるため。それが、私が戻る理由です」


 オリヴァーは、しばらく黙り込んでいた。

 月明かりが、彼の端正な横顔を照らしている。

 やがて、彼は深く息を吐くと、私の手をそっと握りしめた。


「……お前は、本当に強いな」


 その手は、力強くて温かかった。


「お前の覚悟は、本物だ。ならば、俺も決めた」


 オリヴァーは、私の目を見つめた。


「俺も行こう。だが、今回は違う。民を救うのはお前の役目だ。俺の役目は——」


 彼の瞳が、鋭く光る。


「お前を傷つけた者たちへの、復讐の手伝いだ」


「オリヴァー様……」


「お前一人で行かせるわけにはいかない。あの国には、まだお前を傷つけようとする者がいるだろう。だから、俺が守る。何があっても、お前を守る。そして——」


 オリヴァーは、私の肩を抱き寄せた。


「お前が望むなら、俺はお前の剣となる。お前が裁きを下すべき者を、俺が斬る。それが、俺の誓いだ」


 彼の言葉に、私の目から涙が溢れた。


「ありがとうございます……」


「泣くな。これは、俺の我儘でもあるんだ」


 オリヴァーは、私の涙をそっと拭った。


「お前を傷つけた者たちを、俺は許せない。だから、共に行く。お前の隣で、お前の意志を貫く手伝いをする。それが、俺の望みだ」


 空では、黒竜のジルが、まるで二人の決意を祝福するかのように、高らかに咆哮を上げた。

 私は、ポケットから侍女長が置いていった子供たちの絵を取り出した。

 そして、静かに、しかし確固たる意志を込めて呟いた。


「民は救いましょう。子供たちは守りましょう。でも——」


 私の瞳が、氷のように冷たく光る。


「私を傷つけた者たちには、地獄を見せて差し上げますわ。アルフォンス、リリアナ……そして、私を捨てた全ての者たちに」


 こうして、私の止まっていた過去の歯車が、再びゆっくりと、きしむような音を立てて動き始めたのだった。

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