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第2部 第1話

 あの日、全てを捨ててクライネルト王国を後にしてから、季節は一度巡った。

 長い冬が終わりを告げ、アイスフェルト王国の山々がようやく雪解けの水を煌めかせ始めた頃、私はこの北国で、生まれて初めて本当の意味での穏やかな春を迎えようとしていた。


 研究室の窓を開けると、冷たいけれど爽やかな風が、薬草の香りと混じり合って頬を撫でていく。外では、竜騎士たちが訓練に励む掛け声が聞こえ、城下町からは商人たちの活気ある呼び声が届く。


「アウレリア様、新しい凍傷用の軟膏、素晴らしい効き目です!」


 医務室の扉が勢いよく開き、若い騎士が息を弾ませながら飛び込んできた。彼の顔は、興奮と感謝の色に染まっている。


「先日、偵察任務でひどい霜焼けになった新人がいたのですが、これを塗ったら一日で痛みが引いたと大喜びでした! 指先の感覚も完全に戻ったそうです!」


「それは良かったわ。でも、予防が一番大切よ」


 私は、調合していた保湿クリームの入った小瓶を彼に差し出した。


「任務の前には必ずこれを塗るように伝えてちょうだい。特に、指先と耳、鼻の頭は忘れずにね。凍傷は、予防できれば苦しまずに済むのだから」


「もったいないです、こんな貴重なものを……!」


 騎士は恐縮しながらも、まるで宝物のようにその小瓶を両手で受け取った。彼の目には、純粋な尊敬の光が宿っている。


「貴重なのは、あなた方騎士一人一人の命よ。この国を守ってくださる方々が健康でいてくれることが、私にとって何より大切なの」


 私の言葉に、若い騎士は目を潤ませながら深々と頭を下げ、部屋を出ていった。

 扉が閉まり、再び静かな空間に戻る。机の上には、この国の厳しい冬を乗り越えるための薬草や鉱石が整然と並び、ガラスのフラスコがことことと優しい音を立てていた。


 ここには、誰かのための義務ではなく、誰かを助けたいという純粋な気持ちで知識や力を使える自由がある。

 偽りの罪で断罪する者も、聖女という役目だけを求める者も、もういない。


「……ふふ」


 思わず、小さく笑みがこぼれた。

 一年前の自分に、今のこの幸せを教えてあげたい。あの絶望の森で凍え死にかけていた私に、「大丈夫、必ず幸せになれるから」と伝えてあげたい。


 窓の外に目をやると、訓練場でオリヴァーが新人騎士たちを指導している姿が見えた。彼の動きは無駄がなく、美しく、そして圧倒的に強い。剣を振るう姿は、まるで舞を踊っているようですらあった。


(あの人と出会えて、本当に良かった)


 胸の奥が、温かくなる。

 その時、訓練を終えたオリヴァーと目が合った。彼は少し驚いたような顔をした後、小さく微笑んで手を振った。私も、窓から手を振り返す。


 彼は何か部下に指示を出すと、こちらへ向かって歩き始めた。

 数分後、汗を拭いながらオリヴァーが研究室に入ってきた。


「また、根を詰めているのか」


 低く、けれど心配の色が滲む声。それでいて、その瞳には確かな優しさが宿っている。


「オリヴァー様。お疲れ様です。訓練は順調ですか?」


「ああ。新人たちも、だいぶ様になってきた。それより……」


 彼は、私の手元に視線を落とした。机の上には、朝から調合している薬の材料が散らばっている。


「昨夜も遅くまで起きていただろう。ちゃんと休んでいるのか?」


「大丈夫です。好きでやっていることですから」


「好きなことでも、体を壊しては意味がない」


 そう言って、オリヴァーは手にした盆をテーブルに置いた。盆の上には、湯気の立つハーブティーと、厨房で分けてもらったのであろう温かい焼き菓子が乗っている。


「……少し、休憩にしよう。お前が好きだと言っていた茶葉が手に入ったんだ」


 不器用な彼が、私のためにわざわざお茶を淹れてきてくれた。その事実だけで、胸が温かくなる。


「ありがとうございます」


 私は薬草から手を離し、オリヴァーの隣の椅子に腰を下ろした。

 カップを両手で包むと、心地よい温もりが手のひらから伝わってくる。一口含むと、優しい甘みと爽やかな香りが口の中に広がった。


「……美味しい」


「そうか」


 オリヴァーは、少し照れたように視線をそらした。彼のこういう不器用な優しさが、私は本当に愛おしい。

 窓の外では、黒竜のジルが気持ちよさそうに日光浴をしている。私の気配を感じ取ったのか、大きな頭をこちらに向けて、ゆっくりと瞬きをした。


「ジルも、すっかりお前に甘えているな」


「ジルは優しい子ですから」


 私が微笑むと、オリヴァーも柔らかく笑った。

 こんな穏やかな午後。何も考えず、ただこの時間が永遠に続けばいいのにと思う。

 しかし、運命は、そんな私たちの平和な日々を、あまりにも突然に打ち破った。


「団長! 城門に所属不明の一団が!」


 突然、医務室の扉が乱暴に開かれた。息を切らせた衛兵が、慌てた様子で飛び込んでくる。


「落ち着け。何があった」


 オリヴァーの表情が、瞬時に竜騎士団長のものへと変わる。


「難民のようですが、その中に武装した者もいて……しかも、ボロボロの状態で。一体どこから来たのか……」


「武装した難民?」


 オリヴァーの眉がひそめられる。私も、嫌な予感がして立ち上がった。


「アウレリア、危険かもしれない。ここで待っていろ」


「いいえ、私も行きます」


 この胸騒ぎは、きっと——。

 私たちは城壁の上へと急いだ。


 眼下の城門前には、十数名ほどの集団が力なく座り込んでいた。皆、痩せこけて、着ているものは擦り切れて泥に汚れ、その顔には深い絶望の色が刻まれている。


 中には、明らかに長旅に耐えられないほど衰弱している者もいた。子供を抱いた女性が、力なく地面にうずくまっている。

 だが、私の目は、その中の一人が首から下げているものに釘付けになった。


 木製の粗末なペンダント。しかし、そこには見間違えるはずもない紋章が彫り込まれている。

 薔薇の紋章——。


「あれは……ローゼンハイム家の……」


 私の呟きに、オリヴァーが鋭く反応した。


「お前の実家の紋章か?」


「はい……間違いありません」


 心臓が、激しく打ち始める。

 オリヴァーは、慎重に周囲を警戒しながらも、私の意思を尊重してくれた。


「厳重な警備のもとで、面会を許可する。だが、何かあればすぐに俺が守る。それでいいか」


「はい。お願いします」


 応接室に通された彼らの代表である二人を、私はよく知っていた。

 一人は、かつてローゼンハイム家の騎士隊で副長を務めていた男性。もう一人は、私の身の回りの世話をしてくれていた侍女長。


 だが、目の前の二人は、私の記憶の中にある姿とはあまりにもかけ離れていた。

 騎士は、かつて立派だった体格が痩せ細り、顔には深い疲労と絶望が刻まれている。侍女長は、美しかった黒髪に驚くほど多くの白髪が混じり、頬はこけ、目の下には深いクマができていた。


「……アウレリア、お嬢様……」


 私の顔を見るなり、二人はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。


「よくぞ、よくぞご無事で……! ああ、本当に……本当に……!」


 侍女長は、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、床に額をこすりつけた。元騎士も、大きな体を震わせて涙を流している。

 私は、彼らを見下ろしたまま、冷たく言い放った。


「お二人とも、顔を上げてください」


 声に込められた冷気に、二人はびくりと肩を震わせた。


「まずは、お体を休めていただく必要があります。使用人、温かいスープと柔らかいパンを」


 私の指示で、すぐに食事が運ばれてきた。

 二人は、まるで何日も食事をしていなかったかのように、震える手でスープを口に運んだ。温かなものが喉を通るたびに、また涙が溢れてくる。


「お嬢様……こんなに、こんなに優しくしていただいて……私たちは、あの日、何もできなかった……お嬢様を、お守りできなかった……」


 侍女長の言葉に、私は表情を変えずに答えた。


「その話は、もう結構です。それよりも、お二人はどうしてここへ? ただの再会を喜ぶためではないでしょう」


 私の冷たい態度に、二人は痛ましげに顔を歪めた。やがて、覚悟を決めたように話し始める。

 まず口を開いたのは、侍女長だった。彼女の声は、震えていた。


「お嬢様……。私どもは、ずっと知っておりました」


「知っていた?」


「はい。お嬢様が、触れるだけで枯れかけた花を元気にし、怪我をした小鳥を癒す、清らかなお力をお持ちであることを」


 侍女長の瞳に、懐かしむような色が浮かぶ。


「幼い頃、お嬢様は庭師が大切にしていた薔薇が枯れかけているのを見て、毎日お祈りをなさっていましたね。そして、一週間後、その薔薇は見事に花を咲かせました。庭師は奇跡だと驚いておりました」


「……覚えています」


 あの頃の私は、まだ自分の力が何なのか、理解していなかった。ただ、枯れゆく命を救いたいという、純粋な願いだけがあった。


「お嬢様の優しいお力を、私たちは皆、知っておりました。ですから……その清らかなお力なら、病に苦しむ人々を救えるのではないかと……」


 侍女長の言葉が、途切れた。彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちる。


「助けてください、お嬢様。どうか……どうか、私たちを……民を……」


 続いて、元騎士が重い口を開いた。その声は、かつての力強さを失い、絞り出すようなものだった。


「クライネルト王国は……もはや、国の体をなしておりません」


「……どういうことですか」


 私の問いに、元騎士は震える声で、祖国の惨状を語り始めた。


「魔物の集団暴走(スタンピード)は、確かに王都の目前で止まりました。しかし、それは終わりではなく、始まりに過ぎなかったのです」


 彼の拳が、ぎゅっと握りしめられる。


「結界を失った国土には、日を追うごとに瘴気が満ちていきました。大地は枯れ果て、川は濁り、作物は育たなくなった。そして、疫病が……」


「疫病……」


「はい。最初は小さな村でした。しかし、瞬く間に広がり、今や王都でさえも、毎日のように死者が出ています」


 元騎士の声が、悲痛に歪む。


「食料は底をつき、残った民は飢えに苦しんでいます。魔物は結界の綻びから次々と侵入し、もはや小規模な討伐隊では対処しきれません。国土の三分の一は、すでに人が住めない魔物の巣窟と化しました」


「そんな……」


 私は、息を呑んだ。しかし、同時に心の奥底で冷たい声が囁く。


(それは、彼らが選んだ道よ)


「アルフォンス国王は……いえ、もはや誰も彼を国王とは呼びません。彼には国を治める能力も、意志もないのです。民が飢え死にしているというのに、城では連日のように宴が開かれ、残された食料が浪費されています」


 元騎士の言葉に、私の中で冷たい怒りが湧き上がってくる。


「リリアナは、わずかな取り巻きと共に城に篭り、残った富を独占しています。『聖女』を名乗りながら、一度も民衆の前に姿を現しません。なぜなら、彼女には何の力もないからです。彼女が聖女でないことは、もはや誰の目にも明らかになりました」


「……」


「そして、ローゼンハイム公爵……お嬢様のお父上は」


 元騎士の声が、さらに小さくなった。


「お嬢様を追放したことを、深く後悔なさっておられます。失意のあまり領地に引きこもり、誰とも会おうとされません。日に日に衰弱され、もはや……」


「父が……」


 胸に、わずかな痛みが走る。しかし、私はそれを押し殺した。


「お嬢様、国民は皆、知っています。真の聖女様は、アウレリア様だったのだと。国王陛下が崩御される直前、玉座の間で叫ばれた言葉が、国中に広まりました」


 侍女長が、震える声で続けた。


「『アウレリア嬢こそが、この国を魔物から守る結界を維持してきた、唯一無二の聖女だった』と」


「国王陛下が、そんなことを……」


「はい。その瞬間、全てを理解しました。私たちが犯した、取り返しのつかない過ちを」

 元騎士が、床に頭をこすりつけた。


「どうか、お嬢様。私たちは、あなた様に何の権利もございません。あの日、あなた様をお守りできなかった私たちに、何かをお願いする資格などない。それは、重々承知しております」


「ですが、それでも……!」


 侍女長が、顔を上げた。その目は、真っ赤に充血していた。


「民は、何も悪くないのです。民は、ただ騙されていただけなのです。どうか、どうか……罪なき民たちを、お救いくださいませ……!」


 二人は、何度も何度も頭を床にこすりつけた。

 私は、立ち上がり、窓の外を見つめた。

 しばらく沈黙が続いた後、私は冷たく、はっきりと言い放った。


「お断りします」

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