第4話(最終話)
私がアイスフェルト王国に来てから、一月が過ぎた。季節は春のはずなのに、窓の外ではまだ時折、白い息が舞う。
竜騎士団の医務室に隣接して与えられた私の研究室では、薬草を煮詰める心地よい香りが満ちている。机の上には様々な種類の乾燥ハーブや鉱石が並び、ガラス器具の中では淡い光を放つ液体がゆっくりと攪拌されていた。
「これでよし……と」
竜の硬い鱗にも浸透する特殊な治癒軟膏。前世の薬剤師としての知識と、この世界独自の素材、そして私の聖女としての力を融合させて開発した、オリジナルの処方だ。怪我の絶えない竜騎士たちにとって、私の作るポーションや軟膏は今やなくてはならないものになっていた。
「アウレリア、少し休憩にしないか。集中しすぎだ。お前が好きだと言っていた茶葉が手に入ったんだ」
穏やかな声と共に部屋に入ってきたのは、竜騎士団長のオリヴァーだった。不器用な彼が私のために慣れない手つきで淹れてくれるお茶は、驚くほど優しい味がする。
「まあ、嬉しいですわ、オリヴァー様。ちょうど一区切りついたところです」
私が微笑むと、オリヴァーは少し照れたように視線をそらし、私の隣に腰を下ろした。彼と過ごす時間は、いつも穏やかで満ち足りていた。誰かのための義務ではなく、誰かを助けたいという純粋な気持ちで知識や力を使える日々に、私は本当のやりがいを感じていた。
彼の相棒である黒竜のジルも、すっかり私に懐いている。私が研究室の窓を開けると、大きな体でそっと寄り添ってきて、喉を撫でてくれと頭をすり寄せてくるのだ。
そんな穏やかな午後を打ち破るように、一人の騎士が慌ただしく部屋に駆け込んできた。
「団長! クライネルト王国からの使者が、面会を強く求めております!」
その名を聞いた瞬間、オリヴァーの表情が険しくなる。私の手を守るように強く握りしめ、彼は硬い声で言った。
「またか。何度来れば気が済むんだ。会う必要はない。追い返してくれ」
「それが……今回は、アルフォンス王太子本人がお見えになって……門前で土下座をして、どうしてもアウレリア様に一目お会いしたいと……」
国王が崩御したと聞いているのに、彼はまだ王太子を名乗っているようだ。責任を負うことから逃げたいのだろうか。それならそれで構わない。もう私には関係のないことだから。
私はオリヴァーの顔を見上げた。これまで何度も送られてきた使者は、全てオリヴァーが追い返してくれていた。だが、元婚約者自らが来たというのなら、話は別だ。けじめをつけるためにも、会うべきだろう。
「……オリヴァー様。お会いします。これが、きっと最後になりますから」
私の決意を汲み取ったオリヴァーは、こくりと頷き、私の隣に付き添って応接室へと向かった。
応接室の床には、見覚えのある人物が這いつくばっていた。この国の気候には合わない薄手の質素な旅装束をまとい、髪を振り乱し、顔を土気色にさせたその男は、かつての私の婚約者、アルフォンス王太子その人だった。
「アウレリア……! よくぞ、よくぞ会ってくれた……!」
アルフォンスは私の姿を認めると、這うようにして駆け寄り、私の足元にすがりつこうとした。それを、すかさずオリヴァーが遮った。
「気安く触れるな」
突き刺すような冷徹な声に、アルフォンスの肩が恐怖に跳ねた。
「頼む、アウレリア! 国に、我々の国に帰ってきてくれ! 君が聖女だったとは知らなかったんだ! 君がいなければ、国が、民が魔物に……!」
胸に去来したのは、怒りでも哀しみでもなく、ただ――冷たい静けさだった。彼は必死に訴える。その言葉は、私ではなく、ただ「聖女の力」に向けられていることが痛いほどわかった。私は冷え切った心で、静かに口を開いた。
「お断りいたします」
凛とした声が、部屋に響く。アルフォンスは信じられないという顔で私を見上げた。
「な……ぜだ!? 国が、民がどうなってもいいというのか!」
「ええ……どうなっても、構いませんわ」
私の即答に、アルフォンスは息を呑んだ。私は、凍てつくような視線で彼を見据え、言葉を続けた。
「そもそも、アルフォンス殿下。あなたはここにいらしてから、私にしたことについて、ただの一度でも謝罪の言葉をお口にしましたか?」
「そ、それは……」
「ありませんわね。あなたはただ、国が大変だから帰ってこい、聖女の力が必要だから戻れ、とご自身の都合を押し付けているだけ。私がどれほど屈辱的な扱いを受け、心を傷つけられたかなど、これっぽっちも考えていらっしゃらない」
私の淡々とした指摘に、アルフォンスはぐっと言葉に詰まる。私はさらに、ずっと心の奥底にあった疑問を彼に突きつけた。
「お聞きしますけれど、殿下。あなたは、本当にリリアナ様の言葉を信じきっていたのですか? 私たちは幼い頃から、十数年もの間、婚約者として時を過ごしてまいりました。その長い月日の中で、私が誰かを嫉妬心から虐げるような人間だと、本気でお思いになったのですか?」
「……証拠が、あったのだ。リリアナの腕には痣が……」
「そうですか。では、私の言葉は一度でもお聞きになりましたか? 弁明の機会はくださいましたか? いいえ、あなたは私の言葉など聞く耳も持たず、ただ一方的に私を断罪なさいました。……それが、次期国王となる方のすることでしょうか」
私の静かな問いは、どんな罵倒よりも鋭くアルフォンスの心を抉ったようだった。彼は顔を蒼白にさせ、震えながら言葉を発した。
「……君の言うとおりだ。何も考えていなかった。悪かった。だからもう一度」
私はこの瞬間を、どれだけ夢見てきたのだろう。けれど、私は目の前にいる元婚約者が今、私を連れ戻すために、心にもないことを述べているのを知っている。
「いまさら悔やまれても遅いのです」
私は、隣に立つオリヴァーの手をそっと握った。その確かな温かさが、私にもう迷いはないのだと教えてくれる。
「それに、もうどうでもいいのです。ここでは違いますから。オリヴァー様も、ジルも、竜騎士団の皆さんも、私をただのアウレリアとして受け入れ、私の力を必要としてくれています。私の居場所は、もうここにあるのです」
私の言葉に、オリヴァーが力強く頷く。
「彼女はもう、アイスフェルト王国が庇護する。我が国の宝だ。二度と彼女の平穏を乱すことは許さぬ。失せろ」
オリヴァーの蒼氷色の瞳が放つ凄まじい殺気と気迫に、アルフォンスは声もなく震え上がった。
「今更戻ってこいと言われても、もう遅いのです。あなた方が私にした仕打ちを、国が滅びるその瞬間まで、せいぜい後悔なさいませ」
それが、私が祖国に送る最後の手向けだった。
力なく引きずられていくアルフォンスの背中を、私はもう振り返らなかった。
「……これで、良かったのか」
オリヴァーが、私の髪を優しく撫でながら尋ねる。
「はい。私はもう、誰かのためでなく、自分のために、そして私を必要としてくれる人たちのために生きていきます。あなたと共に」
「……俺も、お前を信じきれなかったらと思うと、震える。でも今、お前がいてくれることが、何よりも誇らしい」
見上げると、それまで険しかったオリヴァーの端正な顔がふと和らぐ。彼は私を力強く、しかし壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。彼の体温が、ひんやりとした部屋の空気の中で、なによりも温かく感じられた。
「彼には、君を『我が国の宝』と言ったが、俺はこの国がどうなろうと構わない。君は俺の……俺だけの宝だ。君を失うことだけは、絶対に許せない」
彼の囁きに、私は静かに微笑んだ。
「……この命に代えても、必ずお前を守る」
窓の外では、黒竜のジルが祝福するかのように高らかに一声、咆哮を上げた。
クライネルト王国がどうなるのか、アルフォンスたちがどんな結末を迎えるのか、それはもう私の知るところではない。
前世で読んだことのない、私だけの物語はきっと、これから始まるのだから。
(了)
【後書き】
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
この物語はいったん完結となりますが、続編を検討中です。
『転生令嬢、今度は王女になりましてよ。あの愚かな祖国?ええ、救って差し上げましたが何か?(仮)』
もしかしたら続編ではなく、完全新作になるかもしれませんが、引き続きよろしくお願いいたします。