第2話
パーティー会場から衛兵に両腕を掴まれ引きずり出された私は、そのまま人目につかない裏口から、荷物を運ぶための粗末な馬車へと乱暴に押し込まれた。
ガタガタと絶え間なく続く不快な振動と、窓もない荷馬車の闇。どれくらい揺られていただろうか。最後に見たきらびやかなシャンデリアの光が遠い昔のことに思えるほど、長い時間が過ぎたように感じられた。
かつて私が乗っていた、天蓋付きで柔らかなソファを備えた公爵家の紋章入りの馬車とは似ても似つかない。これが「追放」という現実なのだと、揺れるたびに体に伝わる衝撃が教えてくれた。
やがて、馬車が停止し、乱暴に扉が開かれる。差し込む光に目を細めると、無愛想な衛兵が私を見下ろしていた。
「ここが国境だ。さっさと降りろ。二度と戻ってくるなよ」
衛兵はそう言い捨てると、私を地面へと突き飛ばした。土と草の匂いが、むわりと鼻をつく。私がよろよろと立ち上がったときには、馬車はすでに土埃を上げて走り去っていくところだった。
残されたのは、着の身着のままの私一人と、目の前に広がる不気味なほど静まり返った広大な森だけ。
衛兵は、ここを「国境」だと言った。ならば、この広大な森をまっすぐ抜ければ、隣国へたどり着けるはずだ。それが唯一の、そしてあまりに頼りない希望だった。私は、震える足で森の中へと一歩を踏み出した。
どれくらい歩いただろうか。太陽が西の山へと傾き、森の木々が長い影を落とし始める頃には、豪奢だったドレスはすでに泥と埃で見る影もなくなっていた。
冷たい夜風が、薄汚れたシルクのドレスを通して容赦なく体温を奪っていく。パーティー会場の熱気と喧騒が、まるで遠い世界の出来事のようだ。
(……これから、どうなるのかしら)
解放されたはずなのに、今になって、どうしようもない孤独感と絶望が足元から這い上がってくる。信じていた婚約者にも、そして誰よりも尊敬していた父にも、あんな風に切り捨てられて……。
ふと、まだ幼かった頃、父が「お前は私の誇りだ」と、不器用な笑顔で頭を撫でてくれた日のことを思い出した。あの温かかった手のひらは、もうどこにもない。
その瞬間、ずっと張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
一筋、熱い雫が頬を伝う。一度流れ出してしまえば、もう止めることはできなかった。声も立てず、ただ静かに、これまでの人生で流すことのなかった涙を、私は流した。悔しくて、悲しくて、そして何より、寂しかった。
どれくらいそうしていただろうか。やがて涙も枯れ果て、代わりに心の奥底から、冷たい怒りのようなものが湧き上がってきた。
(……いいえ。こんなところで、終わってたまるものですか)
私は、ごしごしと乱暴に涙を拭った。私を捨てた人たちのために、惨めに死んでやる義理はない。これからは、私自身の人生を生きるのだ。何としてでも生き延びて、幸せになってやる。そう強く決意し、未来へと一歩踏み出した。
――しかし。
現実は、あまりにも過酷だった。
どれだけ歩いても、森の出口は見えない。それどころか、夜の闇はますます深くなり、体温は容赦なく奪われていく。指先の感覚はとうになくなり、ついに足がもつれて、雪解け水の冷たいぬかるみに倒れ込んでしまった。
もう、立ち上がる力も残っていなかった。薄汚れたドレスに染み込む水の冷たさが、私の気力ごと全てを吸い取っていくようだった。
(……ああ、私、このまま死ぬのかもしれないわ)
あれほど強く決意したのに。聖女の力も、薬師の知識も、この絶対的な孤独と寒さの前ではあまりに無力だった。解放されたと思ったのに。これから自分の人生を生きるのだと誓ったのに。結局、私に許されたのは、こんな誰にも知られず、森の奥で凍え死ぬという結末だったのだ。
皮肉なものね。あれほど絶望したあの国も、私を捨てた人々の顔も、今となっては遠い幻のようだ。もう、どうでもいい。何もかも……。
全てを諦めて、私はゆっくりと目を閉じて薄れゆく意識に身を委ねようとした。
まさにその時だった。
ふと鼻腔をくすぐる鉄錆のような匂いが、私の意識を現実に引き戻した。血の匂いだ。それも、尋常ではない量。何かがここで争ったのだと、肌が粟立つのを感じた。
私と同じように、この森で命を落とそうとしている誰かがいるのなら、それだけは見過ごせない。その想いが、冷え切った体に鞭を打った。
私は、震える手で地面を掴んで体を起こすと、匂いの元へと、ふらつく足取りで進んだ。開けた場所にたどり着いた私は、息を呑んだ。
そこには、小山のような漆黒の竜が横たわり、その傍らで黒銀の鎧をまとった騎士が、大樹に背を預けるようにして倒れていた。周囲にはワイバーンと思しき巨大な魔物の亡骸が転がっている。相打ちに近い、壮絶な戦いだったのだろう。
騎士はまだ息があるようだったが、その脇腹には呪詛が込められたような禍々しい傷があり、どくどくと血が流れ続けている。鎧の隙間から見える肌は、敗血症の兆候を示すように赤黒く変色し始めていた。
(まずい、このままでは確実に死ぬ……!)
目の前で消えようとしている命を見過ごすことはできなかった。
「しっかりしてください!」
声をかけるが、彼のうつろな蒼氷色の瞳がわずかに私を捉えるだけだ。通常の治癒魔法や市販のポーションでは、この呪い混じりの傷は癒せない。
だが、私には薬師としての知識と、聖女としての力がある。
(薬草の成分を、聖女の力でブーストできれば……!)
私はすぐさま周囲を見渡し、森に自生する薬草を探し始めた。幸い、この森は薬草の宝庫だったようだ。強い止血効果を持つ葉、呪いの瘴気を和らげる解毒作用のある白い花、そして扱いが難しいものの強力な治癒促進効果を持つ希少な薬草を、次々と見つけ出していく。この異世界で培った薬草の知識がなければ、ただの雑草にしか見えなかっただろう。
私は石を乳鉢代わりに薬草をすり潰し、ドレスの裾を裂いて作った即席の濾布で汁を絞り出す。そして、それを手持ちの小さなガラスの香水瓶に注いだ。
最後に、その瓶を両手で包み込み、目を閉じて強く祈りを込める。
(我が聖なる力よ、この薬に宿り、彼の者の命を繋ぎとめたまえ)
私の体から放たれた温かな光が、瓶の中の液体に吸収されていく。すると、ただの緑色の薬草汁が、まるで内側から発光しているかのように淡い黄金色に輝き始めた。薬草の薬理作用と聖なる力が融合した、極上のポーションの完成だ。
私は騎士の兜を外し、その唇にポーションをゆっくりと流し込んだ。
効果は、劇的だった。
彼の傷口から立ち上っていた黒い瘴気が光に浄化されるように消え去り、開いていた傷口がみるみるうちに塞がっていく。死人のようだった顔色にも、急速に血の気が戻ってきた。
「……う……」
呻き声と共に、騎士がゆっくりと目を開けた。その蒼氷色の瞳が、今度ははっきりと私を捉える。
「……君は……?」
「気がつきましたか。動かないで、まだ安静にしていなければ」
「この傷は……君が治したのか? あのポーションは一体……」
彼は驚愕に目を見張りながら、自身の脇腹に触れた。あれほどの重傷が、ほとんど痕跡もなく癒えているのだから、無理もない。
「応急処置です。薬草に、少しだけ私の力を加えました」
私の言葉に、彼は何かを悟ったように目を見開いた。
「その清らかな力……なるほど。だから俺の相棒も、君に警戒してなかったのか」
彼の視線の先で、今まで静かにしていた黒竜がゆっくりと起き上がり、私にその大きな頭をすり寄せてきた。
「俺は、アイスフェルト王国の竜騎士団の団長、オリヴァー・バイルシュタイン。命を救われた礼を言う。本当にありがとう……。君の名は?」
「アウレリア、と申します。訳あって、国を追われた身です」
自嘲気味にそう告げると、オリヴァーはゆっくりと体を起こし、私の前に片膝をついた。
「アウレリア。君は俺の命の恩人だ。そして、その類まれなる知識と力は、埋もれさせていいものではない。行くあてがないのなら、俺の国へ来てくれないか。俺が君の身元を保証し、その才能に見合うだけの待遇を約束する。必ず、君を守ると誓おう」
真摯な蒼氷色の瞳が、私をまっすぐに見つめている。
彼が見ているのは、公爵令嬢という肩書でも、聖女という役目でもない。私の知識と力、そして「アウレリア」という一人の人間そのものだった。
差し出されたのは、私の小さな手などたやすく包み込んでしまいそうな、大きくて頼もしい手だった。
私は、迷うことなくその手を取った。
「はい。喜んで」
こうして私は、私を必要としてくれる誠実な竜騎士と共に、新たな居場所へと旅立つことになったのだ。